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樹の、落ちる空に  作者: (せ)
25/26

6.3

 退院してからの数日間は養生を、と春樹が仕事を休めるよう手を回してくれた。

「一週間も病院にいたのね、ごめんなさい」と言うと、春樹は「いいんだよ」と頭をなでてくれた。

 わたしはいつも人の華奢な内側と向きあっていたが、その実、自分も恐ろしく脆弱な神経をしていたのだと、この数日であらためて気づかされた。

 春樹なしでは、とても立ち直れなかった。

 春樹の力強い支えがあったから、午前中に来訪した両親とはおちついて話ができたし、告げられた現実も受けとめられた。

 むせぶ母の横で父も涙を浮かべていて、わたしも泣いた。

 榎波の言ったとおり、わたしには両親と幸との血の繋がりがないのだという。

 いつか言おうと時機を窺っているうち、わたしが早く家を出てしまい、ついに話せなかったのだという。

 十数年間おくびにも出さずにいた両親の気苦労はとても想像できたものではない。

 みんな泣きに泣いたが、わたしは両親に愛されていることを知っていたから、これから、立ちなおっていけると思う。

 それよりも、いまから春樹にする告白の方が気重だった。

 大切なことを打ちあけなければならない。

「きょうは午前中からずっと雪空ね」

「そうだね」

 春樹はコーヒーのカップをリビングに持ってきた。

「いま飲んだら眠れなくなっちゃうわよ」

「薄く入れたから大丈夫じゃないかな」

 一口飲み、春樹もむかいのソファーに腰をおろした。

「ほんとう、朝からぐずぐずの天気だね」

 空はうす暗く、まだお昼過ぎだというのに部屋の照明は朝からつけっぱなしにしてある。

「いっそ思いきり大雪でも降ってくれたほうが気持ちいいわ」

 春樹は笑顔でカップに口をつけた。

「無理して起きていなくてもいいんだよ。詩織は病みあがりなんだから。朝も起きてずっとご両親とお話していたし、疲れたんじゃないかな?」

 両親と話をしているあいだ、春樹には席をはずしてもらっていた。

 だが、榎波との出来事はきのうのあいだにいくらか前触れを済ませていたから、この話し合いでわたしの生い立ちがいよいよ実際となったのだと春樹は確信し、ショックを受けただろうとわたしの心を気にかけてくれているのだ。

「でも、いいの」

 春樹にまだ伝えていない大切な話があるから。

 春樹を愛していないこと、それと、幸の記憶を操作したのはわたしだったということ。

 ゆっくりと、たどたどしく説明するわたしの話に、春樹は何度もうなずいた。

 涙ぐみそうになりながら、その都度、春樹の言に励まされて掻き崩し話し続けた。

「春樹、ごめんなさい」

 春樹を愛していなかったことも、弟に卑劣を働く恐ろしい本性を隠していたことも。

 春樹はしばらくなにも言わず、わたしが言い終えたころには半分以上残っていたコーヒーも、いまはお互い空になっていた。

「詩織」

 わたしは、春樹からどんな宣告を受けてもやむないと覚悟していた。

「いま詩織が言ったことは、榎波という男が言っていただけのことだよね」

「ええ。でも、わたしもそのとおりなんだと思ったわ」

「榎波は信憑するに足る人間性の持ち主なのかな」

 父は言っていた。榎波は昔から自我が強く、どうしようもない人だったと。

 たとえ姪であれ、人を人とも思わぬ利己主義の曲学者が、自分の意のままにできる人間を手元に置いてしまえば、その子は、まっとうな人格など育まれずに成長していっただろうと。

 そんな人間に、未来ある幼い子供をむざむざと託すわけにはいかないからというのが、わたしをひきとるに至った最大の理由だったそうだ。

 父はとくに榎波の性格を知っていて、強引にでもわたしを榎波から奪いとる覚悟があったらしい。

 榎波の前ではそんな気色を見みせずに愛想よくしていたそうだが、榎波はきっと、自分を心の底では悪魔のように思い、毛嫌いしていた父と母の内懐に感づいていて、そんな両親を片恨みし、家族関係を踏みしだくために、わざわざここまで来たのだと。そういう男なのだと。

「……でも、榎波の言うことに納得してしまうのよ」

「詩織、しっかりして。よく考えればわかるはずだよ。ほんとうにぼくを愛していなかった? 幸くんにそんなことをした?」

 また頭の中が、ぐるぐる回転する。

 した、と言われればした気がする。

 だって榎波の言うことは確かなことが多かった。

 たとえば――。そう、たとえば、わたしがあの家の養女であったこと。それをわたし自身もずっと知っていたこと。中学生のころか、高校生のころか。知ったときからずっと忘れていた、ような気がする。

「わたし、榎波の言うとおり、あの家族のなかで自分だけ血の繋がりがないことを知っていたわ。それも、ずっと昔から」

 ああ、そうだ。小学校を卒業した年に知ったんた。

 淡い燐光がぽつぽつと灯るように、とじこもっていた記憶が思い起こされてくる。

 そうなのだ。

 それを知ってしまったときに、早く家を出ようと決意したのだった。

 両親も幸も好きだったけど、好きだったからこそ、他人の子のわたしが迷惑をかけてはいけないと思った。だから、高校を卒業したらすぐに就職したのだ。

 家を出て独立するのを急いでいたのは、肝胆にあった哀しい決心からだったんだ。

 だが春樹に出会い、期せずしてその時機は早まった。経済力のある春樹。この人と結婚すれば、すぐにでも家を出られると思った。

「でもね」

 でも、春樹を愛していないわけではなかった。

 春樹を愛していないと思ったのは、結婚するのに少しでも自分勝手な事情があったから、その罪悪感からだ。

 それでも。

「それでも、やっぱり春樹を愛しているわ」

 わたしを一番に想ってくれる。いま、目の前で温容を浮かべているこの人を。

「一時でも、愛を疑ってしまってごめんなさい」

 春樹の愛を疑ったのではない。

 自分の愛を疑ってしまったのだ。

 春樹は立ちあがり、窓ぎわで手招きした。

「見てごらん」

 巻く風のせいで、堆く積もった雪が高くまで舞いあげられていく。

「ほら、詩織。こうやって窓に顔をつけて上を覗くとね」

 まるで、雪も樹も、なにもかもが遙か空に落ちていくみたい。

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