6.1
近く、必ず家に来るように、という母からの呼びだしは非常に珍しいことで、数日前から気が揉めているのはそのせいだ。
くわえ、先走って榎波に内情をあかし、そのうえ対面までさせてしまった春樹を強く責めつけてからというもの、累日ぎくしゃくした生活をしいられている。
おかげでシャコバサボテンの様子がおかしいことも、春樹にはまだ言えずにいた。
榎波が転勤してきたことを話すと、電話越しにさえ母が血相を一変させたのがわかった。口ぶりから察するに、母は榎波が相当に嫌いらしく、わたしにもあまり交流をもたないよう迫った。
それが昨日の今日のことだから、お昼に榎波が約束を取りつけにきたのには正直うろたえた。そんな場面にこれで二度も立ち会った敏腕探偵の彼女はといえば、いまもって好き放題な空想をやめられずにいる。辟易するわたしを尻目に、榎波は「よわりましたね」とキザにふるまうだけだった。
とにもかくにも、榎波とは一度腰を据えて話をしてみなければいけないと確信していたから、榎波みずから設けてくれた土俵には、これ幸いと乗る以外なかった。
家は週末にでも行けばいい。きょうこそ、どうもよくわからない榎波の正体をこの目で見極めようと考えていた。
そうして乗りこんだ榎波の車は、わたしの住む町から瞬く間に離れ、いまはもう知らないところを走っている。
「どちらまで行かれるのですか」
「ご安心ください。詩織さんがご存じの場所です」
榎波はそれ以上なにも言わず、もくもくとハンドルをにぎり続けた。途中何度も怖くなったが、そのたびに小首をふって勇気を振り絞っていた。車外には果てしない冬の夕闇がたれこめ、この目では寂しい街路だけしか捉えられなかった。
「さあ、到着しましたよ」
榎波の誘導で踏み入ったのは、わずかに夕明かりの残る民家の庭先で、一見して普通の平屋にみえる近代造りの家屋はわたしの知る場所ではなかった。
「榎波さんのお住まいですか」きいたものの、質素な建物の外観と気取った榎波は到底結びつく関係にみえなかった。
榎波はなにも言わず玄関の鍵を開け、わたしをなかへと進ませた。
あかり取りの少ない玄関は外よりなお暗く、踏込みと廊下の段差につまずいてしまった。
「お気をつけて」
榎波に促されるまま、壁に手をあてがい心ばかりの残照をたよりにしながら狭い廊下進む。
あまりの暗さに奥行きがつかめなかったが、通路は比較的短く、すぐにふすま戸の開けはなたれた和室に出た。
「見覚えはございませんか」
うしろから入ってきた榎波がペンダント照明のひもを引っぱり、二部屋続きの和室の外貌があきらかとなった。
家財道具は一応置いてあるが、異様にかびくさい室内には生活感など蚊の涙ほどもなく、しばらく人の手が入っていないでろうことを察知させられる。
テレビやクーラーといった生活家電は型が若干古そうだが、そこまで大昔の古道具ではない。
だがやはり、どれもこれも見覚えはない。
「まあ覚えてはいらっしゃないでしょうね」
「あの、榎波さんはいったいなにをされたいんですか。この家は何なんです?」
もってまわったやり口は意図がつかめないし、なにより気味が悪い。
榎波が、室内でゆいいつ古色を帯びた茶箪笥の中間板をはらうと、表面に固着していた埃がそこだけ弓形に欠けた。
「こちらの家屋は、現在、私が受け継いで管理しております。詩織さんをお招きするにあたってクリーニングを入れようかとも考えましたが、せっかくですので、当時のままお見せすることにしました」
榎波は箪笥のふちに手をかけたまま、こちらに振り向いた。
「そちらに、おかけください」
低い四角テーブルも埃まみれになっている。
わたしは藍青色の座布団に正座した。
「そこは、お父様の席ですよ」
榎波がさしむかいに座る。
「お父様というのは、この家のご主人ということですか」
「違います。あなたのお父様ですよ」
榎波はうすら笑いを浮かべた。
「父の? ここは父が昔住んでいた家なのですか」
榎波は冷たい表情でわたしを見やった。
「少し、私の身の上話を聞いていただけますか」
もはや榎波の考えていることは理解の範疇を逸脱していた。
「私には姉が一人おりましてね」
声色を動かさず語りはじめる。
「姉夫婦はあるとき玉のような女の子を授かりました。念願が届いた二人は大喜びしまして、姉はかねてより決めていた、詩織、という名をその子につけました」
榎波はわたしを生まれたときから知っているかのように言った。
「しかし、その子が六歳のとき――痛ましくも奇禍に見まわれ、姉夫婦は他界しました」
「えっ」
榎波はなにを言っているのだ。
「両親は生きています、でたらめを言わないでください」
「女の子が小学校にあがったのを記念してでかけた旅行で、家族三人が乗る小型クルーザーが海に沈んだのです」榎波は声の色を変えず淡々と続ける。
「待ってください! いくら小さかったとはいえ、もう物心がついたころのことなら、いまだって覚えています、そんな大嘘を並べてどうされたいのですか」
反駁にも榎波は表情ひとつ変えない。
「女の子だけは奇跡的に一命をとりとめましたが、外因性の逆行性健忘症により、それまでの記憶を一時的に呼び起こせなくなりました」
海難事故に遭って記憶喪失になったなんて、それはまるで。
「そう。幸くんと同じです」
鋭い目が、さらに細まった。
「私は姉の忘れ形見を不幸にはさせまいと、親代わりになる決心をし、心血を注いで治療にあたることにしました」
榎波の言う言葉はとても信じがたいが、聞いていると喪神しそうになる。
「しかし、慎ましやかな葬儀のあと、日高さんとおっしゃる姉の古くからのご友人夫婦が、ぜひその子を譲ってほしいと願いでてきましてね。そのご夫婦が子宝に恵まれないことを気に病んでいたと知り、私はその申出でを了承しました」
息が、つまる。
「――その夫婦が、いまの両親だとおっしゃるのですか」
榎波の耳はわたしの言うことを頑として受けいれない。
「私はその子の人生を一番に考え、最前と思われる治療を施すことにしました」
それはですね、といっそう意地悪な人相になる。
「記憶がもどっていく過程で、その子に虚偽の記憶を刷りこんでいく方法です」
「そんな。そのようなことが許されると思っているのですかっ。頭のいいあなたなら、倫理も心得ているはずではありませんか」
「両親を亡くした身のひしは忘れて、新しい父母を本当の親と信じて生活したほうが幸せだとは思いませんか」
榎波は、それともいままで幸せではなかったのですか、といやらしく付けくわえた。
嘘だ。こんな人と近い血が流れているとは思えない。
「私と親類関係があるはずないと、そのようなことを考えましたね。そんなことはありませんよ」
ぎくりとして、いつの間にか睨みつけていた視線を榎波から逸らす。
「私どもの家系は皆、人の思うところを細かな挙動や表情から敏感に感じとる力に優れているのです。あなたも私の姉の血を受け継いでいる証拠に、多少なりとも人の思考がわかることがあるはずです」
「知りません!」
春樹もそんなことを言っていた気がする。でもわたしは人並みに相手の気持ちを汲みとることしかできないと思っている。
「詩織さん、同じ職場で再会したことこそが血だと思いませんか。私もあなたも、まさに導かれるように天職に就いた結果、こうしてふたたび巡り会ったのでしょう」
「榎波さん、あなたはわたしがいると知っていてセンターにいらっしゃったのですよね。どうして、前にいたところを辞めてまで。こんなことを話すためですか」
榎波は、どうでしたかね、と鼻先で笑った。
「それにしても、その翌年に日高さんご夫妻にお子さんが生まれていたとは存じ上げませんでした」
幸のことを言っているのか。
「詩織さん」榎波は突然責めるような厳しい目つきになった。
「本当は、ご両親とも、幸くんとも、血の繋がりがないことをご存じだったのではないですか」
榎波は思いがけないことを切りだした。
「そんな。知っているはずがありません」
「そうでしょうか? あなたもいい大人なのですから、なにかしら知るきっかけはあったはずです。ご両親の口から聞いたのか、あるいはご自身でその事実を見つけたのか」
そんなことがあっただろうか。
「あなたは血の繋がりがないことを知り、幸くんを恋人にしたいと考えたのではないですか」
そんなことあるわけがない。
「幸くんが記憶を失ったとき、あなたはこの好機を逸すまいと、私があなたにやったように、自分が恋人であるという偽りの情報を、幸くんの純真な心に植えつけたのではないですか」
そんなことをするはずがない。幸は、わたしの本当の弟だ。
わたしが姉であると思いだしてほしい。
もしわたしに夢中になっているあいだに、幸のまわりから誰もいなくなってしまったらどうするというのだ。いつまでもそばにいてくれる存在が隼太くんだけになってしまったら、幸は隼太くんに死ぬまで頼りきってしまうかもしれない。
そう脳裏をよぎった瞬間、二人に対しあまりにも失礼なことを考えたと気づき、またいやになった。
「あなたは、あたかも幸くんが望んで記憶を変じたかのように身内に触れこんでいらっしゃったそうですが、実はご自身が望んでいたことだったのですね」
違う。榎波の言っていることはすべて間違っている。
いや、それはどうだろうか。
わたしはあの家の本当の子ではないと、知っていた気もする。
「あなたは、先ほど私に倫理を説こうとなさっていましたが、道理にはずれた行為を犯したのはどちらでしょうか?」
わたしは卑しいことをしたのだろうか。
「ご家族にも、ご自分が姉であることを言わないようにと口止めをしたそうですが、普通は現実を認識させるよう努めるものではありませんか。仮にも私と同じ道にいるあなたが、意図せず誤った判断をしたとは思えませんが」
恋人にしたかったのはわたしだったのだろうか。
「物欲にとらわれて相沢春樹という男性と結婚したのですよね。しかし、あれだけ年が離れていては、あなたにとって恋愛対象ということはまずありえません。あなたは幸くんが好きなほど若い男性を好む女性なのですから」
やっぱりわたしは春樹を愛していなかったのか。
この人まで言うのだから間違いない。
「詩織さん?」
榎波はわたしに真実を教えに来てくれた。
榎波は幸の言うとおり、いいひとだったのか。
だっていまも、お一人で帰れますね、ってタクシー代をこんなにくれた。
頭がくらくらする。
思考がうまく回らない。
どこでタクシーをひろって、どこでおりたかわからないが、家の近く、騒がしい街の中まで帰ってきていた。
夜の繁華街にはクリスマスが押しせまっていて、赤、白、緑の色がそこら中を埋めつくしている。
どこにいても鈴の音や聞き覚えのある陽気な音楽が四方を満たしていて、とても、耳障りだった。
着いた家は真っ暗。
こんな日に限って春樹は遅いだなんて。いや、でも、わたしは春樹を愛していないんだった。
玄関の戸を開け、暗い廊下を歩き、何度も踏みはずしそうになりながら、やっとで階段をあがりきる。
つきあたりは、幸の好きな、わたしの部屋。
倒れこみ、テーブルに目をやると、幸が恋人になった季節に春樹が買ってくれたシャコバサボテンが枯れていた。
もう、なにもかもがどうでもよくなった。




