5.1
先日の一件以後、隼太、沙奈とはひとつも言葉を交わしていない。校内外で行き会わないよう、神経をとがらせ避けてきたからだ。
まだ数日の経過だったが、ずいぶん話をしていない気がする。
なだらかだった世界に、ぼくはみずからそっぽをむいてしまったのだ。
ひとり下校する道のはしには、折あしく昼すぎに降りだした雪がはいつくばるように積もりはじめている。もうしばらくしたら除雪車も動きだすのだろう。
それにしても寒い。吐きだした白い息が、北下ろしにさらわれて後方に押し流される。凍て空から降る小米雪は、そのほとんどがアスファルトに滲みて消えていく。
外を歩くには気の乗らない空合の日に、わざわざ詩織の家に行こうというのには事情があった。
昨晩、詩織から電話があって、早いうちにしておきたい話があると言われたのだ。うちに電話をかけてくるくらいだから、よほどのことだろうと思い、天候の悪条件もかえりみず彼女を訪ねることにしたのだった。
秋口には通いつめていた道筋も、足裏が感触が忘れるほど遠のいていた。ひところよく独り歩きした大通りをわたったところで、家の前に見ない自動車が止まっていたことに気づく。
車体の黒光りがいかにも高級そうで、近づいて中を覗いてみると、ハンドルが歩道側の座席についているのがわかった。
車両の雰囲気から当て推量するに、乗り主はおじさんの知りあいか、あるいは仕事で交わりのある人だろう。少なくとも、訪問業者や詩織がらみの客でないのはあきらかだ。
おじさんもきょうは早く帰宅し、いまはその人となにかおとな同士の話でもしているのだろう。
立ち入ってよいものか躊躇したが、詩織の話というのも気になるところだし、とりあえずあがらせてもらうことにした。
もし先にきた訪問者がおじさんの古い友人で、昔話に花が咲いているとか、そうではなくとも大切な仕事の話をしているとかいうのなら、二階の部屋で待たせてもらえばいい、と考えた。
チャイムを押してからほどなくおじさんが出てくる。おじさんは驚いたような色をみせたが、すぐに優しい面もちにもどった。
「やあ、幸くんよく来てくれたね」
玄関に詩織の靴はなく、かわりに見慣れない革靴が几帳面に揃えられていた。
「おじさん、こんにちは。二階で詩織を待たせてもらってもいい?」
「そう。詩織に用事があって来てくれたんだね」
「お客さんが来てるのにごめんなさい」
「いや、そのお客さんだけどね。じつは、幸くんに会いたがっているんだけど、どうかな」
思いも寄らないことだ。ぼくに会いたいだなんて、いったい誰なのだろう。
「幸くんのお母さんの弟さんだよ。幸くんからしたら、叔父さんになるね」
誘導されリビングに入ると、見知らぬ成人男性がソファーから立ちあがり、ぼくを見て一礼した。
「こんにちは幸くん。はじめまして、榎波です。まさか本日お目にかかれるとは思っておりませんでしたから、とてもうれしいです」
中学生相手に敬語を使うなんて変わった人だ。
「このかたは仕事が忙しくて、親族の集まりにもあまり顔を出せないそうなんだ。だから幸くんと会うのは、はじめてなんだよ」とおじさんは丁寧に解説した。
整った装いからも、周囲に漂う品格からも、この榎波さんという人がぼくと近しい関係にあるなんて、なかなか信じがたい。なぜなら、両親のいずれからも、この人に似寄った高貴の質が感じられないからである。
「ちょっと、二人で話していてくれるかな」
おじさんは、ぼくをソファーに座らせてリビングを出ていこうとこちらに背をむけた。
「えっ、でも。話なんてなにをしたらいいのか」
困惑するぼくに榎波さんは、人差し指を自分の口元にやりながら、小さく、しい、と言った。
おじさんは一瞬戸惑ったそぶりをみせたが、振りかえらずに部屋を出ていってしまった。
「春樹さんは私のつまらない話に長々とつきあってくださいまして、ですが本当はお仕事をされたいようなので、ここは幸くんが話相手をひきついでくださいませんか?」
そんなことを言われても、これほど年の離れた知らない人との会話など、どうしたらよいのか。
「あの、榎波さん」
「叔父さん、と呼んでください」上品にみせる白い歯が清潔的だ。
「ぼくの叔父さんがどうしてこの家にいるんですか」
「偶然、詩織さんが働いていらっしゃる職場に転勤してきましてね。それで、春樹さんが私のような者と話をしてみたいとおしゃってくださったので、お伺いしていたのです」
ですが、突然伺ってしまったのでやはり少々ご迷惑だったようです、と少し苦そうに笑った。
とても穏健そうな物腰はおじさんに似ている。西欧の貴紳をまるのまま血だけを和様に入れかえたような立ち居は、ぼくの思う、憧れの大人像、をまさしく具現している。
「幸くんは私によい印象をもってくださったようですね」
「あっ、はい」
ぼくも隼太同様に心の内が顔に出やすい体質なのだろうか。感づかれるほどとは、はたしてどんな目つきで叔父さんを眺めまわしていたのか、想像すると小恥ずかしくなる。
「幸くんは、詩織さんとつきあってらっしゃるのでしたね」
「ええ、はい」
「つきあって長いのですか」
「はい。もう、ずっとです」
もっとお堅い人かと思えば、恋愛話を投じるなんて意外だ。
「詩織さんはかわいらしいですからね」
もしかして、叔父さんは詩織に興味があるのだろうか。どれだけ品格があっても、心腹に邪を秘めていないとはかぎらない。
「あ、幸くん。私はお相手がいるかたと交際したいなどとは思いませんので安心してください。私と幸くんとでは、なにぶん年に開きがありますから、このような話題しか浮かばなかっただけなのです」
「ああ、はい。わかりました」
うすっぺらい面の皮を剥がれたはむしろこちらで、軽率な発想でもって誤解してしまったことを申し訳なく思った。
「幸くんは詩織さんと結婚しようと思っていらっしゃるのですか」
「はい。ぼくが二十歳になったら結婚したいと思ってます」
「そのころには詩織さんも二十代の後半になっていますが、それでもよろしいのですか」
「年は関係ありません。ぼくは詩織が幸せになってくれるだけでいいと思っています」
叔父さんは、そうですね、彼女も年のことは気にしそうもありませんし、と言い、密やかに冷笑してみえたが、気のせいだった。
「詩織さんは、職場でも大変活躍されていらっしゃいますし、とても頭の切れるかたで、そのような女性と交際できて幸くんはお幸せですね」
そうだ。詩織と同じ職場ということは、叔父さんも心理カウンセラーなのであろうか。もしそうなら、詩織に言えないことを相談できないだろうか。
「幸くん。私は長年ヒトの心の奥底を勉強してきました。だから、もしなにか私が役立てるようなお悩みをおもちでしたら、話をお聞かせ願えないでしょうか」
じつに、間がいい。
「知り合いにそういうことに詳しい人がいればよかったのにと思っていたんです。相談を受けてらえるなら助かります」
叔父さんは、どんなことでしょうか、とほほ笑んだ。
なまじ人心を交わして親交を結んだあとより、先入の観がないいま話をきいてもらえればこれ以上のことはない、と思うのだが、反面会ったばかりの人に話すようなことかと、ひねくった疑念もまた伏在する。
ほんの逡巡で舌を引いたそのとき、窓ぎわの庭木の枝から雪の固まりが垂ったのが見えた。
「本日はあいにくの悪天候でしたね」叔父さんは腕時計を見て立ちあがった。
「あまり長居をして、幸くんの帰りが遅くなってしまっては申し訳が立ちません」
「いえ、ぼくは」
と、叔父さんは紙片を差しだした。
「この名刺にある番号に、いつでもお電話ください」
「電話をかけてもいいんですか」起立し、名刺を受けとる。
「幸くんの相談役でしたら、いつでも私が買って出ましょう」
「ありがとうございます。あの」
厚意のあふれる白面が心憎い。
「うちに寄って母さんに会っていくんですか」
「そうですね。幸くんのお宅にはまた日をあらためてまいりましょう」
叔父さんはジェントルを貫徹した。
子供相手にさえ折目正しい語り口が珍妙にも感じられたが、だからこその表裏なき質朴さがより信頼を深くした。




