4.5
思いも寄らないことというのは、重ねて起こるものなのだろうか。このところの肌寒さが嘘のように陽が差し、たまには、とセンターの裏庭で昼食をとっていたときだ。
となりの一人掛けベンチに座って、わたしよりも口が動いているのにお弁当はいっこうに減らない彼女が唐突におとなしくなったのだ。
「どうしたの」
彼女は下をむいておしとやかに箸をすすめている。
「詩織さん、前、前」
小声に促され前方を見ると、遠目に榎波の姿があった。
「やだ、それで慎ましやかになったのね」
「ちょっと、へんなこと言わないでよ。榎波さんこっちにむかってきてるわよ」
もう一度見てみると、なるほどこちらにむかって歩いてくる。
上品な目鼻立ちに、細高の身躯。女性に一目置かれるための要件は満たしている。
「だいたい、ほんとうに未婚なの?」
「たしかよ。きのうの飲み会で本人に確認したもの」
やはり彼女はぬかりがない。
「どうしよう、とても見られたおかずじゃないのに。榎波さんの目に入ったら、料理のできない女だって嫌われてしまうわ」
「どうせ、ここにはこないで、どこか行っちゃうわよ」
「わからないじゃない。あれでもここでは新人なんだから、お昼に交流を深めようっていうのも考えられない話じゃないわ」
まさかと思ったが、榎波はわたしたちの座る前で立ち止まった。
「お食事中に失礼します」
丁寧な紳士は、立て膝をして薄い笑みを浮かべた。
「榎波さん、どうされたんですか」
彼女はさりげなく弁当にふたをし、喜びを満面に広げた。
こういうときの女性は、常識の度合を遙かに凌駕した期待に胸を熱くするのだ。
「ええ、じつはとなりのお嬢さんと少しお話がしたかったもので」
榎波は悪意なくほほ笑みかけたが、それによって彼女は儚い期待は打ち破られてしまった。
それにしても、となりのお嬢さん、といえばわたししかいない。
「あらら、ごめんなさい。気がつきませんで」
分別らしく言った彼女は、極めて迅速にお弁当を片づけた。気になさらずいらっしゃってください、と榎波は言ったが、よくわからないことを言いながら、ことさら会釈をしてそそくさとこの場から退散した。
「すみません、ご友人とのお食事に水を差してしまいましたね」
まったくだ。いったい彼女にどう思われてしまったことか。
榎波の突飛なふるまいのおかげで、わたしはきっとこのあと彼女の尋問に幾時か耐えなければならなくなったのだ。
「わたしになにかご用でしょうか」
歓迎会の様子からは、とてもわたしが気になっているようには思えなかった。しかし、わざとそぶりに表さなかったとも考えられる。
そうとなれば一刻も早くわたしが既婚者である旨を伝えなければなるまい。
「日高詩織さんですね」
日高、というのはわたしの旧姓だ。
「あの」
どうしてこの人がわたしを日高と呼ぶのかわからず惚けてしまった。
「ええと」弁当を置いて起立したわたしにワンテンポ遅れて、榎波もゆっくりと立ちあがった。
「結婚していまは相沢詩織といいます。榎波さんはわたしをご存じだったのですか」
榎波は半握りの手の甲を口にやって、喉で咳払いをした。
「あなたのことも、あなたのご両親のことも、よく存じ上げております」
「父か母のお知りあいですか」
榎波は言いしぶるように一拍おいた。
「そうですね。私はあなたのお母様の弟なのです」
お母さんの、弟。
母に兄弟がいたというのは初耳だ。何度か母の実家に行ったことがあったが、そこで榎波に会ったことなど一度もなかった。
「疑わしい、という顔をされていますが、そんなに警戒なさらないでください。私はあなたの叔父にあたる、ごく近い親戚なのですから」
「いえ、疑わしいなんて、そんなこと思っていません」
「嘘はいけませんね」
図星だ。すっかり見すかされてしまっている。
榎波の眼は、わたしの疑心を知りながらも、その程度のこと心にまったくかからない、と言いたげにもみえる。
榎波はまた口を開いた。
「本日ですが、午後からのお仕事はお忙しいのでしょうか」
「午後、ですか」
「ええ。ご帰宅前に少しだけお時間をいただきたいのですが、いかがでしょう」
「ええと、あの。午後はデスクワークだけなので早くあがらせてもらいますが、帰ったあとに予定があるので、すみませんが」
「いま、おっしゃったことは本当ですね」榎波は口元だけで笑った。
この人は、ひとの考えていることがわかるのだろうか。
不審がいっそう募る。
「そうそう」
榎波は胸のポケットから親指大の青い包みを取りだした。
「もしかしたら喜ばれるのでは、と思いまして」
差しだされたのは半球の粒。青い銀紙の包みには、円の縁に沿って外国語が書かれていた。
「先ごろ海をわたる用事がありまして、そのお土産です。甘いだけの菓子ですが、どうぞお召しあがりください」
受けとった手元に視線を落とす。
「詩織さん。後日あらためて、おちついた場所でお話しましょう」
それだけ言うと、榎波は革靴を鳴らして裏庭を出ていった。
はじめて話したが、やはりあまり好きになれそうなタイプではない。勉強し過ぎるとあんな風になってしまうのだろうか。
深く息を吸って、お弁当を手に取り、ベンチに座る。
そうだ、心証のよくない人、とかそれどころではない。
感情に走らず冷静に考えてみると、榎波の話は腑に落ちないところがあるのだ。
榎波は、母の弟だ、と主張したが母の本姓は榎波ではない。結婚して婿入りしたとしても、それでは独身だという話が偽りになる。嘘をついているのは、母との間柄か、それとも婚姻の事実か。そのどちらだったとしても、人をだまそうというのだから信頼できる人物には思えない。
それに、センター長をはじめ同僚の多くがわたしを名字で呼んでいるなか、あえて旧姓を持ちだしたのも、遠回しに縁故を信用させるためだったのかと思えて、なおのこと心証が悪い。
幸のことを相談するのは待ったほうがいいだろう。
仕事が終わったら、電話で母に榎波のことをきいてみなければ。
うん、と心決めをしてもどった事務室では、案の定、彼女からの嫉妬深い質問攻めの嵐だった。
叔父だと言うと、どうしていままで教えなかったのかと非難され、知らなかったと言っても、そんなのは普通に考えておかしいと否定され、あげく、つきあっているんじゃないか、という憶測にまで火がついた。
午後の部に彼女が担当するカウンセリングが入っていなかったとしたら、きっといまごろも、仕事が手につかないほど容赦のない糾問が続いていたに違いない。
そう思うと身の毛がよだつ。
これでは春樹に『女は妄想の権化』と思われても仕方がない。
榎波の奇行と、そのせいで燃えあがった彼女が頭から離れず、わたされた青い包みなどすっかり忘れていた。帰路についてしばらく、センターから離れた路上でやっと思いだし、かばんから取りだしたのだった。
手に取り心して鼻にあてると、あまり嗅いだことのない一種独特の甘い匂いがした。
注意深く銀紙をはがしてみれば、中身はなんのことはない貝殻をかたどった、ただのチョコレートであった。
榎波の目的がいよいよ理解できない。
ともあれ、いまは隼太くんのために気を集中させなければならない。彼の生涯を左右するかもしれない、大事な相談をされないとも限らないのだから。
幸と隼太くんの案件、担った重責は計り知れない。
行く先には一抹ならず不安を感じるのが実際だが、わたしはもう覚悟を決めていた。
胸に強く意気を込め、景気づけに口にほうったチョコレートは、サブロウに似た味をしていて、とてもおいしかった。




