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樹の、落ちる空に  作者: (せ)
13/26

3.1

 うつぶせていた頭をゆっくり持ちあげると、年のころは四十代半ばかという男性が、チョークを持つ手をいらいらさせながらこちらを見ていた。

 ごめんなさいという意をこめて、首で一礼する。

 ほっそりとした体つきにやけに姿勢のよいその男性教師は、授業態度の悪い生徒の改心を見とどけると、黒板をかえりみて漢文をつらつらと書きはじめた。

 静かな教室で打ち鳴らされる軽やかなチョークの音は、どれほどに優良な生徒をも、眠りやひとり妄想の世界へといざなう不思議の力をもっているものだと日ごろから感じている。窓際の席ならなおのことだ。

 校庭に目をやると小雪がちらちらと舞っおり、高校入試までの短いタイムリミットを黙示していた。

 気が、重い。

 十一月の雪に、現実から逃避していた意識がすっかり呼びもどされる。

「なあ、幸。幸」

 押し殺してもなお声が野太いのは、うしろの席の橋本だ。

「なに?」

 振り向きざまに出した声は、先生の鉄壁の包囲網を掻い潜ろうとおかしいほどにうわずった。

「シャーペン、取って」と橋本が椅子の下を毛深い指で示す。

 橋本は三年生になってから急激にひげが濃くなりだし、見た目はとても同い年と思えない。

「こら、橋本。ちょっかいかけるんじゃない」

 また怒られた、と思うや否や橋本が立ちあがる。

「違うんです」

 教室内がざわめく。

「なにが違う」

 学年主任の性分か、「反発の動きをみせる生徒を、さて、どう更正させてやろうか」という企みを声色に含んでいる。

 だが、橋本は悪心でもって楯突いているのではない。

 根がまじめな橋本は、どうしてか発言は立ってするものと信じこんでいる。だが、図体が図体だけに、どうしてもふてぶてしい印象を受けがちで、多くの先生は性根を見ぬく前に誤解してしまっている節がある。橋本とは中学に入ってからのつきあいだが、心根にもつ人のよさを諒察しつくしていた。

 今回も、橋本としては慇懃に起立したつもりだろうが、僻目には、生意気に逆らう気だ、としか映っていない。

「落とした鉛筆を取ってもらおうと」

「それで声をかけたか」

「はい」

「自分で取れば済むことだ」

 交戦の構えに、ざわめきはいよいよ熱を増した。

「はい。しかし先生」

「なんだ」

「西洋では、落としたものを自分では拾わないのがマナーだそうです」

「はあ」

「修学旅行のとき、ホテルのマナー実習で教わりました」

「それはテーブルマナーだろうが」たまりかねた様子で一笑し、「橋本のそれはフォークかなにかか」と咎めた。

「フォークではありません。ですが、箸を忘れて代わりにしたことはあります」

 もはや議論にならないと踏んだようで、「ではそれは箸か」と、おちょくった口加減で追及した。

「いいえ。箸の代わりにしたことは叱られました」

「ということは、それは食器ではないな」

「はい」

「テーブルマナーとは関係のないものだ」

「――はい。すみませんでした」

「拾いなさい」

 最後に「だが、いまどき鉛筆を使っているとは感心だ」とまとめに入った言葉に対し、あろうことか橋本は「ああ、すみません。シャーペンでした」と口走った。

 もう授業にならなかった。

 最高潮まで沸きたった教室は、先生の一喝で表面上の騒ぎこそ収まりはしたものの、いまとなっては勉強に傾倒する心情になど、もどれるはずもない。

 橋本としては、いたって誠実にことの経緯と自分の考えを論じただけだろうが、自分の授業を破綻に陥れられた先生からすれば、ひねくれた悪徒がへりくつを並べたにすぎず、腹の底は煮えたぎっていることだろう。ほんとう橋本は、意を尽くしても誤解されてしまう残念な難点の持ち主である。

 かわいそうなことだが、橋本には、このあと呼びだしが待っているかもしれない。ここに至った原因の一端を担っているだけに、かばい立てしなかったのは悪かったな、と思った。

 とにかく、本人の罪なき思いに反して、こうもよからぬ結果をうむ要因となっているのは、大柄の背格好と無骨にとられがちな物言いだ。

 まず取っつきで、彼との体格差から相手が動物的反射を起こし、身構えてしまう。第一感の印象などは接するうちに拭い去れそうなものだが、こと教職員に限ってはそうとも限らない。まじめ一辺倒がゆえにする、目上に対してのこんこんとした言葉ぶりが、見さげて威圧しているように聞こえるのだろう。

 非情な現実だが、その一方、陸上部で培った立派な筋骨は当人にとって大の自慢らしく、少し前までやっていた恋愛ドラマに出てくる、刑事役の大男に風貌が似ていると、よろこんで自任していた。

 そのドラマは詩織もみていて、内容について話をしたことがある。

 主役が恋人に言っていた『死ぬまでずっと抱きしめていたい』というセリフをぼくはおかしいと考えていて、それをなんの気もなく口にしたのだ。

 詩織はそれに対し、ん? という顔をした。

 それって『死ぬまで抱きしめていたい』じゃなくて『死ぬ前にまた抱きしめあえてよかった』とかそういうセリフだったと思う、と詩織に指摘されたのだった。

 たしかに、外出するにも、トイレに行くにも、死ぬまで抱きしめられ続けたらたまらないわね、と大笑いする詩織に、ぼくは顔から火が出る思いだった。

 女の子と違って恋愛ドラマは集中して見ていないから、と情けない陳弁をすると、そんなことに集中するより受験勉強に集中しなくちゃね、とまたつっこまれたのだった。

 こんな恥はさっさと掻き捨てたい。

 が、掻き捨てたからといって、さあ受験勉強に集中、というふうにうまく気が向くものでもない。

 高校も義務であれば素直に行けたし、その前に高校受験が義務と決まっていれば、あきらめて受験勉強の一つにも取りかかったと思う。

 それが半端にも、進路も自由、受験も自由と、無駄な選択肢があるものだから、覚悟を決めてそこに対峙するところまで心をもっていけないのである。

 とかく、なにか決定的な動機がぼくには必要で、それが見つからなければ重い腰がなかなか持ちあがらない横着者なのだ。

 決まり事ならば、積極的とはいかずとも慣例に付きしたがえたが、自発して物事を発起するのは大儀だ。おのずから、なにかを律して片づけていく甲斐性がまったく欠如しているのだ。

 だからといって、ものぐさなわけではない。行為に意味づけや理由づけをして手を打つのが苦手なだけなのだが、それをものぐさというのなら弁解のしようがない。

 しかし、どうせこのままの流れで受験をするのなら、はじめから勉強に力を入れるか、推薦で高校を受けられるように働きかけをしてくればよかったと未練が残る。

 周囲には推薦入試を受ける賢哲が多い。

 橋本は私立高校をスポーツ推薦で受験するのが決まっていて、合格の見こみといえば、ほぼ確実だそうだ。

 沙奈も、橋本と同じく推薦での受験が決まっていて、彼女もまたほとんど合格が決まった一人だ。受験するのは県外の進学校。ぼくや隼太とは違って沙奈は頭がいいから、学力推薦は納得できる。二学期の期末試験も、学年で上位だった。

 頭がいいといえば、詩織も相当頭がいい。

 いまだに大学に進学しなかった理由はわからないが、詩織ならばきっと県外の有名な大学にもいけたはずだ。

 見かけと実力によらず、勉学がさほど好きではなかったのか。もしくはまわりくどいことは端折って、はやくいまの職に就きたかったのか。

 つきあってい長いのに、つまびらかにならないところは数えきれない。

「橋本、次はないぞ」

 渋い声にはっと気がもどると、とき同じくしてチャイムの音が激しく耳をついた。

 橋本は救われたのか。

 焦点が定まらず、はっきりとしない視界のまま、号令にあわせて起立と礼をし、それをきっかけにざわつきだす教室に構わず、おとなしく座って机に横たわる。

 ひんやりした机の感触が気持ちいい。

 海で溺れてこのかた、事故以前の記憶があいまいになるときがある。

 だが、両親に心配をかけるのを避けたかったし、詩織が門違いの自責に苦しみ自暴自棄になってしまうのがなにより恐ろしく、だれにも打ちあけていない。

 ぼくが入院して間もないころの詩織は、それまでに見たことのない詩織だった。

 頭の中が朦朧とするさなか、自分が彼女を守らなければならない、という使命感を覚えていた。彼女がそうなった原因は自分にあるのに、おかしな話だ。

 そう思い至るほどまでに、あれほどもろくて、悲しい詩織を見たことがなかったということだ。

 いや、遙か前にも一時だけ、そんなときがあった気がする。

 たしか小学生になったころ。そう、詩織が小学校を卒業した年か。

「幸、眠いの?」

 背中を叩かれ、からまわりの境地から安堵の世界に引きもどされる。

「沙奈」

 幼馴染みの沙奈、隼太とは一年までは三人とも同じクラスだったが、二年のクラス替えで全員がばらばらになった。以来、こうしてお互いをクラスを行き来するようになったのだ。

 たまに、どちらかのクラスにふらふらと訪ねていっては、くだらない話をして帰ってくる。

 沙奈とは家が目と鼻の先だが、学校内と登下校以外ではもうほとんど会っていない。

「授業中も寝てて怒られてたのになあ」

 うしろからにやけた声で橋本が口をだす。

「橋本のほうがもっと怒られてたけど」

 なにかしたの、ときく沙奈に橋本は半笑いで「べつに」と言い、「次、美術室だぞ」話題を転じてささと廊下に出ていった。

「沙奈のクラスも次は音楽だから移動でしょ」

「うん」

 机のなかに手をつっこみ、美術の教本をさがす。

「あのさ。幸って、浅岸高を受験するんだよね」

 志望校名が浮かばず、わずかに、間があく。

「そう。浅岸高」

 瞬間の変調を色に出さないよう、うまく装い、机に注意をもどす。

 すぐに答えが出なかったのは、寝ぼけていたからではない。

 例のごとく、この期におよびながら受験志望校が決定できずにいたからだ。

 受験生同士の日常会話で浮かないようにと考えれば、このあたりではオーソドックスな県立の浅岸高校を志望校としておけば間違いはなかったのだ。

「ねえ、幸」

 進路が決まっている沙奈がうらやましい。

「幸はもう聞いてるかもしれないけど」

「うん」

「隼太、高校には行かないんだって」

 えっ。

 沙奈に目をむける。

「隼太が高校に行かないって、なんで」

 教室の雑音に紛れて、もしかしたら沙奈の言葉を聞き違えでもしたかと思った。

 進学しない事実もそれなりの衝撃はあったが、それ以上に、沙奈にだけ腹心を明かしていたことが、親友と思っていたぼくにとってはショックだった。

「隼太ね、中学を卒業したら就職するんだって」

 沙奈が中腰になって耳元でささやく。

 つまり、この話は人に知られてはまずい秘密ということだ。

 秘密?

 誰との?

 沙奈と隼太だけの?

 隼太に口止めされていたのに、沙奈は密告しにきたのだろうか?

 一人、親友だと勘違いしていたぼくを哀れに思って?

「それって、隼太がぼくに伝えるように言ったの?」

 もしくは親友同士のへんな照れがあって、沙奈に言づけを頼んだのかもしれない。

「頼まれてって、そんなわけないじゃない。隼太には内緒だからね」

 すんなり密告を認めた昔馴染みは、移動教室を理由にとなりのクラスへと帰っていった。

 沙奈の最後の言葉は、聞きたくない答えだった。

 つまるところ、ぼくは二人を一方的に親友だと思っていて、沙奈はそれに同情していたのだ。

 騒がしい教室の音が、遠くへと消えていく。

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