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樹の、落ちる空に  作者: (せ)
1/26

1.1

 深い瞬きのあとには、窓の外はすでに夕色に染まっていて、照葉が反す強烈な光線に、すがめた眼の奥をつらぬかれた。

 抱えていた膝から両腕を離し、その片方で烈しく降りかかる西日から目を守る。

 彼女の部屋は家の西側に位置していて、暮れ方になると、窓から鋭角に射しこむ陽光が、部屋のちょうど半分だけを真鍮色に染めた。

 ぼくは額にかざした片腕をおろし、そっと陽のあたらない半分に移動する。

 こうすると、暗順応が追いつかずに軽い陶酔感が得られるのだ。

 中腰姿勢を維持したまま、目くらみが止むまでゆっくりと呼吸をする。

 落ちついてきたところでカーペットに腰をおろし、あぐらをかく。

 目を閉じるとほどなくうたた寝におよぶが、しばらくして階下からの固い金物音に浅く意識がもどる。玄関を閉める音に次いで、人が階段を上ってくる気配がし、部屋の戸が開けられる。

(こう)。また来てたんだ」

 まどろみから揺り起こしてくれるのは、きょうも彼女だ。このころには、むこう半分を染める暮色はいよいよ深みを増し、目前の一切が、少し前とは違う色に染め変えられている。

「なにもない部屋なのに、幸は一人でいて楽しいの?」

 そう続ける彼女はジャケットをクローゼットにしまったり、テーブルの上に飾られたシャコバサボテンに一言二言、声をかけたりと、手早に作業をこなしている。返答に関心がない、というより、応答を見こして安心しきっている、といった心境に近いと思う。

「楽しいよ」

 そう、と彼女は振りかえり、笑顔でまたしゃきしゃき動きだす。

 手際よくハンドバッグの中身を化粧鏡の前に並べる後ろ付きは、女性らしい細づくりの骨格が姿勢のよさで際立ち、絵になる立ち姿だといつも感心する。これで、あと少し背があり、眉目に大人らしい尖鋭さがあってさえいたなら、モデル業にも就職口があったのではないかと思うほどだ。

「いつもこんなに早く帰ってくるなんて、詩織のやってる仕事ってラクなんだね。学校卒業したら詩織と同じところで働こうかな」

「中学生ほどは暇じゃないわよ」

 ほほ笑みを含んだ調子で応える。

 この愛らしい声に併せて、実年より四、五歳あまり若くみえる顔立てには、ときとして七つも年上の女性とつきあっている感覚を鈍らされてしまう。

「幸」

 彼女は作業の手を休め、成人にしては幼くみえる顔をこちらを向けた。

「きょうも、うちでご飯食べてく?」

「ええと。うん、そうする」

 彼女は了解の旨を眼で合図して、手作業を再開した。

 せっせと立ち働く彼女の様子に、はたと、ついしてしまった生返事と、日々の無遠慮な行動を反省した。

 彼女はこの家に父親と二人暮しをしている。

 片親で育った生い立ちは彼女とつきあいだした当初から知っていたが、深い事情はきいたことがなかったし、むしろ知りたいなどと思ったことがなかった。

 ただ、幼少から少しずつ痛みを堆積してきたであろう彼女の心中を思うと、胸に鉛色のもやのような切なさを催し、堪らなくなった。

 そんな彼女に対して自分のしていることは何なのか、と考える。

 彼女も彼女の父親も、ぼくをとても慕ってくれていて、二人が外出しているときにも家に入れるようにと、合鍵まで作ってくれた。

 恋人とはいえ、赤の他人にである。

 いまある現状を一般の感覚で評価すると、恐ろしく不可解で異常なことにも思えそうなものだが、二か月前、夏休みに見舞われた事故が原因なら、十分にあり得る事態である。

 しかし彼女が、事故の責任は自分にある、と感じていて、それでこうまでしてくれるというのなら、ぼくの軽率な行動はいわばそれにつけこむ悪質なタカリといえよう。

「詩織」

 知らずしてするより、知ってする悪行はそれを行う当人の精神におよぼす不利益が大きい。

「やっぱり、きょうは家に帰って食べる」

 言うと、そこここで忙しなく動いていた彼女の足が、目の前に止まった。

「もしかして、気をつかっているの?」

 しゃがんで顔を覗きこんできた瞬間、彼女から目を逸らす。

「ちがう」

 口先から弾き出した声の弱々しさと妙な早口ぐあいは、自分でもおかしいと思うほどであった。

「幸」と彼女は言う。

 視界の際で彼女は顔をいっそう近づけ、そして声を落した。

「幸はなにも難しいことを考えなくていいの。本当の家族だと思ってね、って前にも言ったでしょ」

 すっと顔先に眼を送ったが、わずかに覗かせた声色の翳りはとうに消えうせ、彼女はにこやかな表情をこちらに向けていた。

 事故のことはなにも関係ないから。わたしもお父さんも本当に幸が好きだからそうしたいだけなのよ。なんて言われてしまっては、心の内を見ぬかれたようできまりが悪い。

「んーん。たまには家で食べないと、母さんも寂しがると思って」

 首を傾げてほころぶ彼女に、もう居た堪れなくなり勢いよく立ちあがる。

「帰るから。じゃあね」

 屈んだままきょとんと見あげる彼女を置き去りにし、シャコバサボテンに別れの挨拶をすることもなく、逃げるように家を飛びだした。

 彼女の声は聞こえない。なにか言われたところで、気恥ずかしさにさわっただけだろうから、その点は救われた。

 門口の敷石に一歩踏みだしたときには、日はすっかり傾き、眼を吸いこむ徒広い空が朱を四面にしみ広げていた。

 短いアプローチを抜けて振りかえると、二階の窓からは、残陽に照らされて空と同じ色に染まった部屋壁が半分だけ見えた。

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