頭
代りにきたおばさんは狐顔の人だった。
短いスカートから見える生足が、やけに白く細くて少し不気味だ。
「〈まうよ〉、こんどきた、おばさんのスキルはなんだ?」
【〈浮気症〈中〉〉ですね。 いやらしい女です。 絶対に盗ってはいけませんよ】
「盗らないよ。 ただ、〈浮気症〉ってスキルなのか? 」
【知りませんね。 私の辞書には浮気なんてものはありません。 とりつくのは一度きりですから、大いに安心して良いですよ】
〈まうよ〉の返事は全く答えになっていない。
だけど嘘じゃないと思うのは、俺が間抜けなんだとも思う。
だから〈噂話のおばさん〉は俺をターゲットにしたのかも知れないな。
それに〈噂話〉もそうだけど、スキルとは言えそうに無いものもあるんだな。
スキルと言うより、その人を象徴するものなのかも知れない。
時間は少し遡る。
【口をあーんとしてください】
「こうか」
【右上の歯茎が切れています。 そのまま、口を開けておいてくださいね】
〈まうよ〉が近づいてくる。
〈まうよ〉の口はほぼ唇だけだから、唇が近づいてくる。
〈まうよ〉の唇が俺の唇に重なった。
そして〈まうよ〉の舌が俺の歯茎を舐めてくる。
俺は衝撃を受けてしまった。
分かりそうなものだけど、分かっていなかったんだ。
口の中を舐めるってことは、キスするってことだ。
それもかなりディープである。
普通の四十歳手前のおっさんならば、これほどの衝撃は受けなかったと思う。
なぜならば、これが俺のファーストキスだからだ。恥ずかしいけど真実である。
女の子とか、女の人とは、まともに話したことも無い。
〈まうよ〉の唇は柔らかいと思った。
ふんわりと良い匂いもする。
金が無かったから風俗に行ったこともない。
だから正真正銘の初めてなんだ。
少しクラクラしてしまったよ。
【少し照れますね。 だけどこれだけは言っておきます。 これは治療ですからね。 キスじゃありません。 ファーストキスは、もっとロマンティックにしてほしいのです。 一度しか無いのですから、当然でしょう】
「でも今のが、ファーストキスだろう?」
【ううん、ノーカウントでお願いします。 気の持ちようで何とでもなります】
「そうしたいなら、それで良いよ」
俺はファーストキスだと思ってしまったが、こんなことで争ってもしょうがない。
【うふふっ、もう一度舐めますね】
嬉しそうな声で笑っているな。
治療するが嬉しいのか、少し疑問を感じる。
離れた後も、俺の唇は〈まうよ〉の唇の感触を覚えていた。
しばらく消えそうもない。
久しぶりに銭湯に入っている。
ネットカフェのシャワーと違って、広いお風呂は素晴らしい。
手足を伸ばしてユラユラだ。
ゆったりと体も解れていくようだ。
リラックス出来て、心も喜んでいるぞ。
【へぇー、ここが銭湯なんですね。 いつか私も入ってみたいです】
「うわぁ、〈まうよ〉なんだよ。 裸を見るのは止めろよ」
そう言いながら俺は、おかしいことに気がついた。
口だけの〈まうよ〉は目が無いのに、どんな原理で見ているんだろう。
妖魔だからと言えばそれまでだけど、変じゃないか。
【番だから良いのです】
「他の人のも見ているじゃないか」
【ふふっ、社会勉強ですよ】
何の勉強なんだか、俺は独り言を言っているヤバいヤツと思われたんだろう。
他の客が俺から逃げるように離れていった。
〈まうよ〉と会話する時は、声を出さないように気をつける必要があるな。
お湯の上に浮かんでいる口は、なんだか滑稽こっけいでもあるし、出来損ないの玩具みたいだ。
〈まうよ〉の好きにさせておくしかないか。
〈まうよ〉に慣れたんだろう。俺はなんだか面白いと思ってしまっている。
銭湯の大きな鏡で見た俺は以前の俺じゃなかった。少しだけだが精悍になったと思う。
これも〈まうよ〉のおかげなんだから、少しくらいのことは許してやろう。
銭湯に入ったからか、朝の目覚めは爽快だった。
ただそれは布団の上に起き上がるまでだった。
「…… 」
起き上がった俺は、正真正銘の怪奇現象を見てしまったんだ。驚きすぎて声も出せない。
【うふふっ、〈勝利さん〉の負の感情を沢山食べられましたから、私はこのとおり成長しました】
プカプカと浮いているんだ。
若い女性の頭だけが、俺にニヤッと笑いかけてきている。
化け物が直ぐ横にいるんだ。
首から下が無いことは、俺の心をざわつかす。
あるものが無いことは、俺の心を不安におとしいれる。
かなり気持ちが悪い。いいや、とんでもなく気味が悪いぞ。
口だけの時よりも、遥かにインパクトがある。
人間の形へ近づいたため、より違いが鮮明になったせいだと思う。
異様さがより強調されたんだ。
〈まうよ〉の声がその頭からしてくるので、勇気を振り絞り、なんとか俺はその頭から逃げることを踏み止まった。
ナイフで刺そうとちょっぴり考えたぐらいだ。
「成長したのか」
俺はやっとのことで、声を振り絞った。声は震えていたと思う。
【ふんだ。 私のことを怖がっていますね。 番なのに失礼だと思いますわ】
「まだ慣れていないだけだよ」