不吉な振動を耳がとらえているー幽霊
〈まうよ〉はマジでやる気マンマンだ。
夜が明ける前の一番暗い時刻に実家へやって来た。
そっと忍び込んで、工作機械の埃を拭き取り、可動部分の数か所へ油をさした。
〈まうよ〉は都合の良い女だから、鍵はかかっていないのも同然である。
昨日、位牌を探している時に見つけた、作成途中のグラスを分かりやすい場所に移しておく。
縁が欠けているが用途的に問題はないはずだ。
そして〈まうよ〉の希望で古着屋さんに来ている。
母さんがずっと愛用していた紅色の作務衣に、似ているものを欲しがったからだ。
紅色の作務衣は数が少ないのだろう。何軒もハシゴをしなくてはならなかったため、見つけた時はもう夕方になっていた。
再び俺の実家に着いたのは、もう夜と言って良い時間になっていたと思う。
「〈かつとし〉、なんだお前は。 約束を破ったな。 ずっと待ってたんだぞ。 お前は子供の時からそういうヤツだ」
父親はあからさまに機嫌が悪そうだ。けど俺の知ったこっちゃねぇよ。
「はぁ、約束どおり来てやっただろう。 時間までは約束して無かったよな」
「病気女の子供なんだから、頭が病んでいるんでしょう。 高価なグラスを盗んでいったらしいわね。 警察に訴えてほしくなかったら、百万円払いなさいよ」
もう50歳も後半のくせにケバケバしい化粧をした父親の元浮気相手で、今は後妻に収まっているビッチだ。
自分の年を考えてない、セクシーってものを大きくはき違えた、下品でみっともない服を着てやがる。
胸元が大きく空いているせいで使い古しの黒いブラジャーが見えているし、老廃物が蓄積したセルライトで凸凹の太ももがミニスカートから覗いているんだ。
吐きそうになるから勘弁してほしい。
節制も努力もしていないくせに、若者の服は無理なんだよ。
どうして自覚が出来ないのだろう。
一度で良いから己の下劣な姿を鏡に映して見ろよ。
〈叡行管理不動産〉の安藤会長の情報では、今も70歳の老人を誑かして年金を巻上げているらしい。
若い時から今でいうパパ活で手軽に金を得てきたんだろう。
現在ではそれがジジ活に変わっているって事だ。
「ほぉ、その人が〈かすとし〉の嫁か。 ふふっ、本当に良い女だな。 〈まうよさん〉がここで僕と会ったのは運命なんだよ。 僕が必ず幸せにしてあげるね。 今直ぐ〈かすとし〉と別れて僕の元へ来なよ」
さすがは本当の親子だけはある。〈清人〉もどギツイ化粧をした売れないホストみたいだ。
ハーフだけあって元の顔は良いのだが、心の卑しさが顔に滲み出てきている。
ちょっと鷲鼻ぎみだからゴブリンに近づいている感じだ。
「グラスの代金の百万円はもう払っているぞ」
「はん、子供の時から嘘ばかりを吐くね。 領収書でもあるのかしら」
「そう言うのなら、グラスを俺が盗った証拠もないんじゃないか」
「ふん、ろくに高校も出てない無能のくせに。 こっちは賞を二回もとったことがある人間国宝並みの職人なのよ。 警察がどちらの言い分を聞くか、簡単に分かるでしょう」
「もちろん、俺だよ。 俺は社会的な地位がある社長だぞ。 良い給料をもらっているから、グラス1個に百万円が迷わずに出せたんだ」
「えぇー、社長なの。 嘘でしょう」
少しハレンチ婆の口調が変わったのは、俺が社長なら金になるんじゃないか、と頭の中で悪い計算をしているんだと思う。
「〈かすとし〉が社長なんて嘘だ」
〈清人〉が耳ざわりな悲鳴みたいな声をあげやがる。キィキィとうるさいな。
【いいえ。 〈かっくん〉は立派な社長ですよ】
「〈まうよさん〉は〈かすとし〉に騙されているんだ。 僕しか君を幸せには出来ないのが分かるよね」
自分のやったことを棚に上げて良く言えるな。お前が女性達を騙したんだろう。
【分かるはずがないでしょう。 チンケな男のくせに、バカバカしいことを言わないでね】
「〈まうよさん〉それは間違っているよ。 僕を信じてほしいんだ」
チンケとまで言われたくせに〈清人〉はまだ諦めないのか。根拠がないこの自信で騙された女性もいるのだろう。
【しぶといわね。 こんなのに、つき合っていられないわ】
そう行った直後に〈まうよ〉はパッと消えてしまった。
「あっ、いなくなった。 〈かすとし〉は本当に悪いヤツだ。 〈まうよさん〉をどこに隠したんだよ」
「チンケな男がウザいから帰ったんじゃないのか」
「なんだと僕の悪口を言ったな。 許さないぞ」
「ほぅ、どう許さないんだ」
【殺してやる】
低い声で呟いた、囁くような小さな声だけど、不思議なことに作業場全体に長く響いて消えない。
いつまでも続く不吉な振動を耳がとらえているのだろう。
紅色の作務衣を着た女が、いつのまにか切子細工の工作機械を音もなく操作している。この呪いがこの女の口から発せられたことは疑いようがない。
「ひぃ、奈々子が化けて出た」
父親は青い顔をしてブルブル震えている。さすがに怨みをかった自覚があるのだろう。
「えっ、あんた誰なの。 悪戯は止めな」
ビッチ婆はまだ強気だ。 しかしバカでもある。
この狭い作業場にどうしたら、誰にも気づかれずに人が入れるんだ。
自分も気づかなかった事実をどう解釈しているんだろう。服装のチョイスと同じで自分勝手な思考しか出来ないんだと思う。
「うわぁ、嘘だろう」
〈清人〉は…… 。どうでも良いか。
工作機械はまだ動いたままだが、〈まうよ〉はもう消えて俺の横にすました顔で立っている。
紅色の作務衣から、最初に着ていた黒いワンピースへ着替え済みだ。
改めて見ると喪服のようにも見える。そう言えば俺にも黒いジャッケットを選んでくれたな。
「うっそ。 消えた」
「ママでも、機械はまだ動いているよ」
ビッチ婆がママか。誰か分からないため、パパと呼んだことは無いんだろうな。
「奈々子が怒っているんだ」
「あれ、そこにグラスが落ちているぞ。 それも売れるんじゃないかな」
俺はここで追撃をかけることにした。
「本当だ。 こんなところにグラスなんかあったかな」
「なんか字が刻んであるよ。 許すまじ、ってママどういう意味なの」
「ひぃー、奈々子だ。 決して許さないって言っているんだ」
「どうして私が怨まれなくちゃならないのよ」
【股がガバガバの女め。 私と子供によくも地獄を見せてくれたね。 今度はお前が地獄へ行く番だ。 恥知らずな夫と父親も分からない不義の子と共に今直ぐ落ちろ】
「ぎゃー、また出たわ」
「ママ怖い。 幽霊が出る家にはいたくないよ」
「奈々子、僕は悪くないんだ。 全部この女にそそのかされたんだよ」