一度だってこんな顔をしたことがないー希望
社長と同じで全社員が説明が出来やしない。あははっ、会社の一体感がありまくりで嬉しくなるよ。
ただ気をつけなくてはならない事がある。
あまり親しくなり過ぎて〈木本さん〉と〈優香〉に手を出せば、社長の地位だけじゃなく何もかもから俺は転げ落ちてしまうだろう。
〈まうよ〉も失ってしまうんだ。
浮気を憎悪している感じだから、決して許してはくれないだろう。
「〈まうよ〉、チューチューしようよ。 社長秘書ゴッコをしたいんだ」
【ふぅ、目の前にある大量の書類が気にならないの。 それを片づけてから言いなさいよ。 それまではお預けだわ】
ゴッコなのに本当の社長秘書みたいに言うなよ。
ただ良く考えれば本物の社長秘書でも良いんだ。その方が燃えるってことか。
〈まうよ〉社長秘書とオフィスラブが叶ったのは3日後だった。
どれだけ書類が溜まっていたんだ。俺も溜まってしまったじゃないか。
今後は課長でも決済が出来るよう、社内規定を抜本的に見直す必要があるな。
そして迎えた休日に俺は、意を決して実家に向かうことにした。
幼い頃の植え付けられたトラウマがある俺にとっては、地獄のような場所だから、とても勇気が必要なことなんだ。
虐められた同級生へ復讐を果たし、〈真田〉をやっつけていなかったら、二度と行こうとは思わなかっただろう。
俺の心を絶望と恐れで縛り続けている。真っ暗でのたくった世界をぶっ壊しに行こうぜ。
〈まうよ〉を得て変わった後の俺なら必ず出来るはずだ。目を見開いて良く見てろ。
【〈かっくん〉は恐れているみたいだけど。 私が一緒なのを忘れないでほしいわ。 一人で立ち向かうんじゃないよ。 二人なら怖いものなど無いでしょう】
「そうだよ。 俺達は番なんだろう」
【いつもそう言っているでしょう。 悲しい事も嬉しい事もなにもかも共有するのよ。 〈かっくん〉の人生が私の人生なんだからね】
勇気をもらった俺は〈まうよ〉と腕を絡ませながら、実家の前の通りを歩いている。
駅前の和菓子屋さんで購入した高級な菓子折りは紙袋の中だ。
腕を絡ませれば当たってしまう、大きなおっぱいを今日はあまり感じない。緊張しているし、いつもより真剣なんだと思う。
〈まうよ〉は水色のレースワンピースを上品に着こなしているし、俺は空色の軽量ジャッケットでたぶん爽やかだと思う。
道行く人がみんな振り返って、義務のように〈まうよ〉の顔を見て目を丸くしているぞ。
次に俺の顔を見て目を細めるのはどうしてなんだろう。
この夫婦は釣り合っていないと思っているんじゃないよな。
遺憾な。
〈コモド滝〉があった土地は基礎のコンクリートだけが残っていた。警察が張った黄色のテープが人を拒んでいるだけだ。滝のように流れ出た家具やゴミは証拠品として押収されたんだろう。
後にあるマンションが急に目立ってしまったので、白い壁が戸惑っているみたいに粉をふいている。
黄色との対比のためか、やけに白く見える。
ペンキの看板が忘れたようにかけられている、実家をガラス戸越しに覗くと埃が厚く積もったガラス細工の工作機械が見えた。
母さんが俺の顔をあの機械で描いているのを不意に思い出して鼻の奥がツンとしてしまう。
「なんだ。 あんたたち、家に用でもあるのか? 」
俺の父親が外から帰ってきたんだ。
埃が積もっているくせに藍の作務衣を着ているな。
手に酎ハイのロング缶を二本持っているのは、まだ午前中なのにコンビニで買ってきたのか。
手が細かく震えているのはアルコール依存症の可能性が高い。
まだ65歳くらいのはずだが80歳でもおかしくない見た目だ。しょぼくれて全体的に年をとったって感じに見える。
「覚えてないのか。 〈かつとし〉だよ」
「ふん、お前は中学を卒業したら直ぐにいなくなったからな」
良く言うよ。
住み込みで働かせて、俺が必死で稼いだわずかな給料の半分をピンハネしてたくせに。
それが我慢出来ずに俺は夜間高校をなんとか卒業出来た5年後にその店から逃げたんだ。
卒業に5年と一年多くかかったのは、早朝から働かせられて眠たくてどうしようも無かったからだ。
「母さんの位牌にお参りをしに来たんだ」
「ふん、お供えも無く手ぶらでか? 」
【私が持っていますわ。 このお菓子を供えさせてください】
「おぉ、なんて綺麗なんだ。 この人はお前と関係があるのか? 」
もうすでに耄碌しているのか。お供えをしたいと言っているんだ。
妻か婚約者と考えるのが常識だろう。
ただし、非情な仕打ちに耐え切れずに親子の縁はこっちから断ち切ってやったんだ。
非情な父親が非常識なのは当然なんだろう。
「母さんの位牌にお参りをするためここに来たんだ。 俺の妻に決まっているだろう」
「お前がこんな美人とか。 とても信じられないが、まあ、中へ入れよ」
切子細工の作業場があるため、実家の居住スペースはあまり広くは無い。
その上に脱ぎ散らかした服や食べ物の残骸が放置されているため、足の踏み場もない状態で、汚すぎて座る気にはとてもならない。
テレビで見た事があるゴミ屋敷そのものだ。
「母さんの位牌はどこにあるんだ? 」
「んー、作業場かな」
位牌をコンクリートの土間になっている作業場に置いておくなんてどういうつもりだ。
家の中心とまでは言わないが、もっと良い場所に置いておくべきだろう。
俺と〈まうよ〉は作業場を一時間以上探し回りやっと見つけることが出来た。
位牌と水を供えるグラスがガラス屑に埋まっていたんだ。
母さんの写真もあったはずだけど、それはいくら探しても見つけられなかった。
捨てられたのかも知れない。
この男ならそんな罰当たりなことも平気な顔でしそうだ。しても何も不思議じゃない。
「この位牌とグラスは俺が引き取るよ」
「おぉ、探してたんだ。 そのグラスはそんなところにあったのか。 位牌は安く売ってやるが、そのグラスは高くなるぞ」
母親の位牌を実の息子に売るという感性が大きく狂っている。
感性とは違うか、考え方っていうか、倫理感がバグっているが、良く考えればこの男は昔からこうだったな。
このようなモンスターはどうすれば発生するんだろう。不思議だとしか言いようがない。
「このグラスは母さんが作った物じゃないか」
母さんは切子細工の職人では無かったから、このグラスは見よう見まねで作った物である。
切子細工をする技術を持っていないため、グラスには絵を描いてあるだけだ。
だから、切子細工のグラスではない。
素人が作った装飾グラスにすぎないと思う。
独学のためグラスは少し歪んでいるし、色鮮やかでも無い。
母さんは色をつけることも出来なかったんだ。
歪で透明な単なるグラスでしかないため、こんなものは普通なら売り物にはとてもならないはずだ。
ただしグラスに描かれた子供の顔が生き生きとしているんだ。
母さんがグラスに描いた俺は、心の底から楽しそうに笑っている。
未来への希望に溢れているんだ。
俺は一度だってこんな顔をしたことがない。それなのに母さんはどうして描けたんだろう。




