豚
夕食のパスタの店でも、若い女性の店員は俺を見て顔をしかめたりはしなかった。
愛想よく微笑んでくれたんだ。
前の俺なら〈汚らしいブ男のおっさんがこんな店に来るな〉と露骨に軽蔑されていたと思う。
んー、パスタ専門店なんかに入ったことも無かったな。
定食屋のおばさんにさえ、「ちっ、小汚い男だ」と見下されていたんだ。
〈ファッションセンス〉も効いているが〈実践空手〉で体のバランスや姿勢が良くなり、動きにぎこちなささが無くなったのも、かなり影響していると思う。
〈まうよ〉が五月蠅いからお風呂に毎日入って清潔さを保っていることと、何よりも自分に自信がついたのが顔と動作に出ているのだと思う。
もう俺はオドオドとはしていない。暗い顔で俯いてもいない。卑屈な中年じゃないんだ。
「このままじゃダメだ。 ホテル暮らしはもう続けられないよ。 直ぐにお金が無くなってしまうぞ」
【そうですね。 住み込みの仕事を探したらどうですか?】
「そうだよな。 それしかない」
ハローワークに行き、自分に出来そうな仕事を検索してみた。
学歴も資格を何も持っていない俺には、ろくな仕事が無いことは初めから分かっている。
その中で俺は〈夜間工事警備〉の仕事を選んでみた。
前にもやった事があるし、真夜中でキツい仕事だから徹底的に人気がないんだ。
そのため俺でも採用される可能性がかなり高いと思う。
誇れるものが何も無い情けない履歴書を汚い字で書いて、駅の近くにある証明写真機で撮ったものを貼りつけた。
パッンと頬を両手で叩いたのは気合の入れ過ぎだ、と自分でも笑いそうになってしまう。
超簡単な面接をされた後、俺は無事採用となった。
当然ながら正社員ではなく、アルバイトと言うか日雇いである。
賃金はまあまあ良いのだが、無事なんて思うのは危険だとも思う。
あまりにも面接が簡単すぎたからだ。
誰でも良いから採用しているんじゃないかな。
次々と辞めているのかも知れないぞ。
この会社はかなりヤバイんじゃないかな。
警備員の詰め所に行けと言われて、工事をしている直ぐ横にあるプレハブのドアを開けてみた。
「へぇー、誰だと思ったら、お前はカスの〈かすとし〉じゃないか」
げぇー、悪い直観がもう当たりやがる。
想像以上に悪いぞ。
最高に嫌なヤツがいやがった。
最悪の人間に再会してしまったよ。
この男は、前に〈工事警備〉のアルバイトをしてた時の上司だ、日雇いをまとめる仕事をしていたんだ。
まとめると言うよりは、ただ無茶な命令してただけだったし賃金のピンハネもしてくれた。
名前はたしか、〈橋本〉だったな。
ブクブクと太った五十前のおっさんだ。
「うわぁ、本当だ。 〈かすとし〉のクセにまだ生きていたのか」
こいつも知っている。
副主任的な仕事をしてたヤツだ。
〈森川〉だったと思う。
〈橋本〉と一緒になって俺をさんざん虐めてくれた男だ。
歳は三十代らしい。
その割に額がかなり後退してしまっているようは若ハゲだ。
おまけにこいつも運動不足の豚のような腹をしてやがる。
ブウブウと毎日、俺に文句を言ってくれたよ。
何でだ、疑問が頭に浮かんでくる。
嫌な思い出のある会社は、当然避けていたはずだ。
そうか、会社の名前を変えやがったんだ。
きっと大きな不祥事か、人が亡くなるような重大な事故を起こしたのに違いない。
これはマズいを通り越して、賃金がもらえないとか、命の危険もあるぞ。
逃げてしまうおうか。
「おい、〈かすとし〉、返事はどうした。 前のように〈ワン〉と返事をしろよ」
強烈に嫌なことを思い出したぞ。
俺はこいつらに犬のように扱われていたんだ。
クズでのろまでバカだからと、人として認められなくて、〈ワン〉と言わされていたんだ。
俺はなんて情けない男だったんだ。
殴られても蹴られても、人だろう〈ワン〉とだけは鳴くなよ。
【〈勝利さん〉、我慢なんかしないで、サクッとやっちゃいましょう】
〈まうよ〉に言われなくても、ぶわっと湧いてくる怒りをぶつけないでいられない。
「はぁー、〈ワン〉だと。 俺は変わったんだ。 もう一度言ってみろよ」
「ぐぐぅ…… 」
〈橋本〉の顎を鷲掴みにして、低い声で脅してやった。
声が出せないほど驚いているらしい。
「〈かすとし〉のクセに生意気だぞ」
〈森川〉が俺の後でスコップを振り上げたから、俺はタプタプの腹に後ろ蹴りをめり込ませてあげた。
「ぐぅう」
汚い声で鳴きながら、汚らしい反吐を盛大に吐いてやがる。
汚物としか言いようがない。
続けて〈橋本〉のブクブクの腹にも、軽くパンチをくれてやれば、こっちも盛大に吐きやがった。
少しは我慢が出来ないのか、この豚どもが。
「俺はあれから、空手を習ったんだ。 才能があったみたいでな。 メキメキと上達して、今じゃ段持ちなんだぞ」
大嘘だが〈実践空手〈中級〉〉が黒帯なのは確実だと思う。
ゲロに気をつけながら〈橋本〉と〈森川〉の足や背中を小突き回してやったら、泣きながら許しを求めてきた。
「あぁ、許してください。 もう言いませんから。 言うことは何でも聞きます」
「うぅ、殴るのはもう止めてくれよ。 もう恨みは晴れただろう」
〈森川〉がまだ生意気な口を聞くので、腹に蹴りを入れてやった。
「豚の〈森川〉よ。 敬語が使えないほどバカなのか。 ブタ語で返事をしてみろ」
「ぶぅ、許してください。 ぶぅ、どんな事でも従います」
へぇー、思ったより素直なんだな。
【まだ服従はしてませんよ。 反撃する機会を狙っている目です】
「そうなんだ。 〈まうよ〉、ありがとう」