口
コンビニの弁当は涙が出るほど美味しかった。
三週間ぶりに腹一杯になった。
一年ぶりの缶酎ハイは心にまで滲みるようだ。
「君はいつ食べたんだ?」
【旦那様の暗い感情が私の食事です。 あの男をやろうとした、ぞろりとした黒さが美味しいのです。 私は旦那様の負の感情が大好物なんですよ。 まだ成熟していませんので今はそれしか食べられないのですわ】
「へぇー」
妖魔は俺の感情が美味しい、と熱く語ってくれたが、そんなの分かるはずがない。
それよりも俺はその情熱的でツヤツヤした声に心を奪われそうになる。
吐息が湿った熱を持ち、俺の体のあちらこちらへ吐きかけられたように感じたんだ。
【うん、もう。 旦那様はつれないです。 ちゃんと私の話を聞いてますか?】
まるで恋人のように話してくれるな。
「君は妖魔って言ったけど、名前はなんて言うんだい?」
【名前は無いのです。 旦那様がつけてくれますか?」
急に自信なさげになり、声も小さくなったな。
もしかして、俺がどう反応するのかが不安なんだろうか。
そう思うと俺の胸が変なことになってしまう。
少しだけ締めつけられるように痛むんだ。
「そうだな。 うーん、〈まうよ〉はどうかな?」
【はい、良い名ですわ。 いつか旦那様の前で、舞えって、ことですね。 楽しみにしておいてください】
〈まうよ〉は単純に〈ようま〉を逆にしただけだ。
それにしても声で舞うって、どうするんだろう。
そんなことはどうでも良いか。
それよりも〈まうよ〉が喜んでくれたのでホッと出来たな。
これがとりつかれたってことか。
「旦那様も良いけど、俺の名前は〈勝利〉って言うんだ」
【おぉ、ビクトリーってことですね。 〈勝利様〉か〈かっくん〉か、どちらで呼べば良いですか? 】
なんだよ。この二択は親密さに差がありすぎだろう。
それにビクトリーか。
意味はそうだけど俺は負け犬だから、改めて言われると悲しくなるだけだな。
「それじゃ、真ん中をとって、〈勝利さん〉で良いよ」
【あはははっ、真ん中が〈勝利さん〉って面白いです。 あはははっ、ギャグのセンスがありますね】
ギャグのセンスがあると言われたのは、生まれて初めての経験だ。
今のもセンスはないと思う。
〈まうよ〉が陽気に笑うから、俺まで顔が緩んでしまう。
誰かを楽しくさせたのも、生まれて初めての経験だと思う。
俺はずっと陰気で暗かったし、引きつったようにしか笑えないからだ。
俺はその夜、柔らかいベッドで手足を思い切り伸ばして、久しぶり熟睡することが出来た。
【お休みなさい。 私の〈勝利さん〉】
それにしても、ぐっすり眠ったな。
良く考えると暴力団員らしい男をやったんだ。
普通は仕返しとかを恐れて、すごく心配になるはずだ。
傷害と強盗をしたんだから、警察に捕まるのを不安に思ってもいいはずだ。
だけど俺は平気だ。
ネガティブな感情が欠けてしまったみたいだ。
【おはようございます】
「おはよう。 えっ、なんだそれは」
俺は驚いて腰を抜かしてしまった。
ホテルの部屋に床にパンツ一枚で座りこんでしまっている。
空中に、女の口がプカプカと浮かんでいるんだ。
怪しいってもんじゃない。
怪奇現象そのものじゃないか。
【ふぅん、そんなに驚かないでくださいよ。 私です。 〈まうよ〉ですよ】
女の口と分かったのはぷっくりと小振りで、薄いピンクにツヤツヤと光っていたからだ。
「〈まうよ〉は、口だけの妖魔だったのか?」
最初はビックリしたが、俺はそれほど口だけの〈まうよ〉が怖くないらしい。
〈まうよ〉の唇から覗く可愛らしい小さな白い歯と、チロチロと動く濡れた赤い舌に、俺の視線が集中していたせいかも知れない。
【違いますよー。 〈勝利さん〉の負の感情を食べたら私は成長するんです。 口だけがお嫌ならもっと食事を奢ってくださいよー】
口だけが甘えた声を出している。
かなり現実感がない状況だな。
俺は絶望のあまり狂ってしまったのかな。
まぁ、それでも良いか、そんなに差はない。
「その口は、他の人にも見えるの?」
【それは自由に出来ます。 ただ今は止めた方が良いでしょう。 大騒ぎになりますよ】
へぇー、自分の異常さは自覚しているんだ。
生まれたばかりなのに、どうしてこんなに知識があるんだろう。
「〈まうよ〉は賢いんだな。 赤ちゃんなのに、どうしてなんだ?」
【賢いについては、褒めていただき、ありがとうございます。 だけど私は赤ちゃんじゃありません。 若くても雌なんですよ。 誤解しないでほしいものですわ】
「あっ、ごめん。 そうだよな、赤ちゃんじゃないよな」
確かに、こんなに色っぽい唇が赤ちゃんについていたら、気味が悪いよな。
空中に浮かんでいる唇の方が、まだマシと思っている俺の感情も、気味が悪いな。
【分かっていただけたのなら良いのです。 そして卵から孵化したばかりなのに、少しだけ私が賢い理由は卵のままで知識を吸収出来るからです。 〈勝利さん〉に出会うまで、長い長い時間、あてどなく彷徨っていたのですよ】
「俺に出会うまで?」
【そうですよ。 うふふっ、〈勝利さん〉は私の運命の雄なんです】
〈まうよ〉の唇から零れる声は俺をゾクゾクさせる。
運命だなんて。
俺が女から一生言われるはずのない言葉だ。
例え嘘であっても気分が高揚してしまうのは止められない。