自信や余裕が皆無だったー圧倒
「課長代理か何だか知らないけど、勝手なことをして、社長に言いつけてやるわよ」
〈笹本〉もケチだな。
コーヒーくらいで社長に告げ口をするのか。
そう言えば自分の事以外は社長もケチだったな。
「就業規則にも何にも、派遣社員の方がこのウオーターサバ―を使ってはいけない、規定などありません。 バカみたいなことは止めて、自由に飲んでいただきます。 まだ反論されますか?」
俺は〈斎藤〉に至近距離まで近づいて、目から視線を外さないで、こう言ってやった。
「〈斎藤さん〉よ、誰がバカなんだ。 もう一度言ってみろよ」
強盗ともやり合ったことがある男だ、俺は。
こんなブクブクと肥えた豚なんて声だけでも圧倒出来る。
ぜい肉をミンチにするつもりの声で言ってやった。
「えっ、あっ、ちょっと」
俺の圧力に負けて一歩下がってやがる。
次は〈佐々木〉だ。
「〈佐々木さん〉よ、クズって聞こえたけど、もう一度ハッキリ言ってみろよ」
「うぅ」
俺の圧力負けて俯きやがった。
最後は〈笹本〉だ。
「〈笹本さん〉よ、社長に告げ口するのか。 こんなみみっちいことで、社長に告げ口って、なんか特別な関係でもあるのか?」
俺のいた頃にも、この女は結婚をしているくせに、社長の愛人っていう噂がたったことがある。
その噂は直ぐに消えたが、本当だったらしいな。
「へっ、そんなの、あるわけないじゃん」
「ふーん、それなら、まず課長に言うのが普通だろう。 いきなり社長って、本当に不思議だね」
「いい加減ことを言わないでよ」
「まあ、良いか。 言いたいなら言えば良いさ。 正しいことを言っているんだ。 何も問題はないからな」
また俺は営業課の部屋をシーンとさせてしまった。
派遣の人達まで、気まずい思いをさせたのは、反省しなくちゃいけないな。
俺はそれからパソコンを操作して、業務の資料を出来るだけ読み漁った。
【うーん、この発注記録だけど、ちょっと変な気がするわ。 ちょっと見ただけだから、確証はないけどね】
〈まうよ〉はそう言ったのだが、俺には良く分からなかった。
こんな時にはクズだとかカスと言われていた過去が蘇ってしまう。
だけど俺はもう昔の俺じゃないはずだ。
就業時間をすぎると〈斎藤〉〈佐々木〉〈笹本〉の三人はそそくさと帰っていった。
三十分後には〈植草課長〉も退社した。
前の三人もそうだけど、帰りの挨拶もしないのか。
礼儀以前の社会人としてどうかと思ってしまうな。
派遣の三人さんも今日の分の伝票を書き上げて、帰っていった。
この人達はまともだから、俺と〈木本さん〉にちゃんと帰りの挨拶をしてくれたぞ。
これが正しい常識だよ。
その後、一時間過ぎても二時間経っても〈木本さん〉が帰ろうとしない。
まだ二十代の若い女性なのに、どういうことなんだ。夜道は危険だよ。
上司である俺がもう帰るように言うべきだな。
「〈木本さん〉、どうかな。 まだ仕事は終わらないのかな?」
「課長代理さん、すみません。 もう少しかかりそうなんです」
〈木本さん〉がパソコンへ入力しているのは、良く見れば派遣の人達が書いていた伝票らしい。
ついさっき書かれたものじゃないか。三人分もあれば、残業となるに決まっている。
「〈木本さん〉、それは明日じゃダメなのかい?」
「今日中にしないと怒られるのです」
〈木本さん〉の答えからは、入力の完成は明日でも問題が無いように聞こえるな。
ウオーターサバ―の機械が壊れたわけでもないんだ。それほど急ぐ必要はないのだろう。
どうでも良い事で怒るのはあの三人に間違いない。
〈木本さん〉でストレスを発散しているだけじゃないのか。虐めることが楽しいだけだと思う。
俺もそうされたから、よく分かっているんだ。
ほとんどの仕事を〈木本さん〉にさせているんじゃないか。
どこまであいつらは怠け者なんだ。
このままじゃ決して済ませないぞ。
〈木本さん〉と昔の俺では月とスッポンだけど、〈木本さん〉の生真面目な顔が、カスなりに頑張っていた昔の俺とちょっぴり重なるんだ。
月みたいに青白い〈木本さん〉の顔を明るい太陽のようにしてあげたいと思う。
「〈木本さん〉、入力を少し手伝うよ」
「えぇー、課長代理さんに手伝っていただくなんて、そんな。 申し訳ないです」
「いいって、いいって」
それほど難しい入力でもないから、二人でやれば直ぐに完了出来る。
「課長代理さんって、入力が早いですね。 初めてなのにすごいです」
若い女性に〈初めて〉〈すごい〉と言われると、心にグッとくるものがある。
【〈勝利さん〉は、早いです。 浮気心になるのが、すごく早いですね】
〈まうよ〉に〈早い〉と言われると、心にグサッとささるものがある。
「はははっ、これでも〈木本さん〉の二倍近く生きているんだよ。 経験ってヤツさ」
本当は〈IT知識〈下〉〉のおかげだけど、もう俺のスキルなっているのだから、経験とほとんど変わらないはずだ。
〈木本さん〉と会社を出た時には、もう俺達が最後だったようだ。
〈木本さん〉を先に帰して、俺は玄関近くの警備室に声をかけることにした。
入退室は電子管理システムを導入しているため、声をかける必要はないのだが、つい先日までビル警備をやっていたんだ。
仁義を切るのが筋ってもんだろう。
自動販売機で缶コーヒーを買っておこう。5本もあれば足りるかな。
「お疲れ様です。 〈KM環境〉は私が最後となります。 缶コーヒーで良かったら、飲んでください」
「あっ、どうもです。 お疲れ様でした。 わざわざ、ご報告ありがとうございます」
警備員室で待機していた若者は、気の良いヤツのようだ。言葉づかい丁寧だった。
コンビニ弁当を食べて缶酎ハイをプッシュと開ければ、今日あったことが思い出される。
あの三人のことだから明日も何かやってくるだろうな。
お風呂は〈まうよ〉が五月蠅いから、すでに入った後だ。
風呂上りは汗をかくためパンツ一枚でいたいのだが、これも〈まうよ〉が五月蠅くダメ出しをしてくる。
普段から、あまりにもだらしないと、性格までがそうなってしまうって言う理屈らしい。
ふふっ、まるで母親の小言みたいだな。
しょうがないから、短パンとランニングを着てくつろいでいる感じだ。
俺はまるで夏休みの少年のようでもある。
あぁー、あの夏の日の俺を思い出してしまう。
とれもしない新規顧客を求めて、俺は両足に豆を何個もこさえていたな。
派遣でド素人の俺は、何のノウハウも教えてもらえずに、炎天下のオフィス街をただ彷徨っていた。
出来ることと言えば、「お願いします」と頭を下げ続けることだけだ。
「なめているのか」と罵倒されるのが日常だったな。
ろくに商品説明も出来ないのだから当たり前だ。
どうして自分で商品の特徴なんかを調べ無かったのか、なぜ〈お願いします〉以外のセリフを出せなかったのか、今じゃ不思議に思うが、そこまでだったんだ。
それが過去の俺の限界だったんだ。
少しだけでも応用が出来る、自信や余裕が皆無だったのだと思う。
視野が狭すぎて何も見えていなかったんだ。




