皮をそいでやった
「おっ、お前、刃物を出すなんて卑怯だぞ」
「おい、〈松下〉。 簡単にやれるって言うから来たんだぞ。 こいつは、ヤベェ狂人じゃないか。 ニタニタしながらナイフを出しやがったぞ」
「そうだ。 こんな危ないヤツのは、十万円もらっても割にあわないぞ」
「ちっ、こんなカスのおっさんに、びびらないでよ。 十万円の代りに後でやらしてあげるから、二人とも頼むね」
「はぁ、なんだと。 お前は俺の女じゃないのかよ」
「はっ、そう思うなら、早くやってよ。 自分の女が恥をかかされたのよ。 仕返しはしてくれないの? 」
「くっそ、分かった。 やってやる」
元ヤンキーで現土木作業員の〈松下〉が、何も考えずに俺に飛びかかってきた。
少し考えているのは、腹に巻いていた車のチェーンを右手に巻き直したことだ。
チェーンとはまた古風な。伝統を重んじる性格なんだろうか。
チェーンでナイフの刃が欠けたら嫌だな、そう思った俺は左にかわした。
そして〈松下〉のほほに刃を当てて薄くそいでやった。
骨に当てるのも嫌だったんだ。
かつお節のように薄く削れなかった。
練習量が足りていないんだと思う。結構な量の肉が皮についてしまった。
「ぎゃー、痛い、痛いよ」
〈松下君〉は頬を削がれるのに慣れていなかったみたいだ。
血が流れる頬を押さえて涙目になっているな。
「急に飛びかかってくるからだよ。 でも薄く削いであげたから、そんな大げさにするなよ。 次はチェーンを巻いていないお腹で良いかな? 」
「うわぁ、この人はプロだよ。 頬の肉をこんなに薄く切るなんて、とんでもないナイフの技量だ。 俺は帰らせてもうらうぞ。 ついて来いって言われただけで、あんたにはなんのうらみもないし、これからも絶対にからんだりしないから、許してくれよ。 ごめんなさい」
「ひゃぁ、ごめんなさい。 頼まれただけなんです。もう帰りますので、怒らないでください」
「ち、ちょっと。 まだ何にもしてないじゃないの。 ちょっと顔の皮がむけただけでしょう。 コイツは本当に意気地無しの弱い男なのよ。 私を抱きたくはないの? 」
助っ人に呼ばれた二人の男は、すでに走り出している。もう脱げ出しているってことだ。
五十メートル以上離れた場所から、元ヤンの〈山本〉へ怒鳴り返している。
「誰にでも股を開く女なんか、いらねぇよ」
「同じだ。 性病も怖いからな」
現土木作業員の〈松下君〉も頬を押さえてまま、ノロノロと二人の男の後を追おうとしているぞ。
えっ、もう終わりなんだ。
「ちょっと、あんた、まさか帰るんじゃないでしょうね。 このまま帰ったら、男じゃないわよ。 私と別れることになっても良いの? 」
「お兄さんが強いのは良く分かりました。 もう何もしませんから、勘弁してください」
「あぁ、何を言っているの。 やっちゃいなさいよ」
「うるせぇな、この浮気女が。お前とはもう別れるよ」
「えぇー、なんでよ? 」
「俺の目の前で、他の男に抱かれても良いって言ったよな」
「それは言っただけだから、誤魔化すつもりだったんだから、あんたまで本気にしないでよ」
「えぇーっと、お取込み中、申し訳ないですが、もう行ってもいいですか? 」
「あっ、すみません。 どうぞ、どうぞ」
ケンカとも言えないケンカが終わったらしいので、早くアパートへ帰ろう。
「なんなのよ。 私の何が悪いっていうの。 この気持ちをどうしたらいいのよ」
「俺はもう帰るわ。 今までありがとうな」
背中に聞こえてくる別れ話を聞いていると、土木作業員の〈松下君〉はなかなか良いヤツだったんだ。
別れる女に礼を言うのは、なかなか出来ない事だと思う。
このことは俺も見習らわなくっちゃいけないな。
ただ気になっていることがある。
サングラスのことだ。もう必要ないってことか。
これからは女を色眼鏡で見ないってことなのか、深いようで、なんにも深くない気もする。
単に忘れているだけだろう。
【はんっ、私は絶対に別れませんよ。 どこまでも、いつまでも離れませんからね】
〈まうよ〉はストーカーだったみたいだ。俺も離れたいとは全く思っていない。
主任の仕事を夢中でこなしていると、給料日がやってきた。当たり前である。
その金額は俺が受け取ったお金の中で、最高金額であった。それがどうした。
実際は現金じゃなくて、銀行振込だったのだが、そんなことどうでもいい。
ビックリしたんだ。
俺はお金持ちになってしまったよ。
この金額が毎月もらえるんだぞ。ボーナスもあると聞いている。
「〈主任〉、給料が上がりませんね。 いつも生活がギリギリなんです」
えっ、中堅の〈小津さん〉が文句を言っているぞ。
俺と違って主任でもなく、子供が産まれたばかりだから、お金がかかるからなんだろう。
「本当にそうですね」
独身の〈大井〉青年もそうなのか。
「警備じゃこの会社はまだマシのようです」
ベテラン〈柴さん〉までがそう言うのなら、そうなんだろうな。
俺の給料感覚は他の人とかなり差があるんだな。今までがひど過ぎたんだと思う。
【良くなったのなら、それで良いじゃないの。 うふふっ、私があげまんってことなのですよ】
下半身が無いのに、あげまんって、変だなと俺は強く思う。それに古い。
副主任を長くやっている〈相馬〉という、四十歳代の男の様子が変だ。
主任になれなかったため、俺と会社に不満を持っているのは分かっているが、それ以上に様子がおかしいような気がしている。
特定の日日の勤務に、こだわっている気がするんだ。
この日だけは絶対に勤務すると言い張るのは、勤務表を作りにくくして俺を困らせるためかと思っていたが、どうも違っていたようだ。
【〈相馬副主任〉は、なぜか大安の日ばかり選んでいますね】
「へぇー、どうしてなんだろう。 縁起の良い日に勤務がしたいのかな? 」
【仏滅の日に当たっても、そのことでは嫌な顔はしていませんでしたよ】
はぁ、違うことでは嫌な顔をしてたってことか、鬱陶しいヤツだな。




