卵
「おい、おっさん、いい加減にしろよ。 こんなことも、まともに出来ないのか。 おばさんの方が百倍役に立つわ。 お前なんか、今直ぐクビだ」
俺は四十歳近くの中年のおっさんだ。何をやっても上手くいかない。
違うな。何をやっても上手く出来ない、の方が正しいと思う。
やっと見つけた清掃のアルバイトを情けなくクビにされる場面だ。
俺にとっては修羅場である。
十歳も年下の正社員からボロクソに言われている。俺の顔は屈辱に歪み、怒りで真っ赤になっているはずだ。
家賃を滞納したためボロアパートを追い出され、今はネットカフェで寝泊まりしている状況でもある。
清掃のアルバイトをクビになったら、今日の夜からもう野宿するしかない。食べ物を買うお金すらないんだ。
詰んでしまう。
「あぁ、〈高橋主任〉、ちょっと待ちなよ。 俺は悪くないんだ。 トイレ掃除を全部押しつけた方が悪いんじゃないか」
「けっ、いつも言い訳ばかりだな。 出来もしないくせに、出来ないと最初に言えば良いじゃないか。 お客さんから社長にクレームが入って、僕はむちゃくちゃ怒られたんだぞ」
トイレは五十個もあるから一人で一日じゃとても無理なんだ。それは〈高橋主任〉も分かっているはず。
「清掃計画どおりなら、やれたはずだ」
「はぁ、お前が出来ると言ったんだろう。 女子トイレもチーフの〈山本さん〉にやらせてほしいと言ったらしいな。 この変態の中年が」
俺はチーフの〈山本さん〉をビックリして見た。元ヤンキーの〈山本さん〉は俺をギロリと睨んでいる。
その目は本当のことを言えば暴力を振るうと言っている。もう何回も振るわれたこともあるんだ。
俺は弱くてビビりだから元ヤンの〈山本さん〉には逆らえない。睨まれただけで怖いんだ。恐怖で体が固まってしまう。
顔を叩かれたことも、足を蹴られたこともあるから、その恐怖は本物なんだ。
「ふん、変態のおっさんは早く出てけ。 トイレの五十個くらいパパっとやったら誰でも出来るんだよ。 無能はいるだけでムカムカする」
「痛えぇ」
〈山本さん〉のパシリをやっている、シングルマザーの〈沢村さん〉が俺の足を蹴ってきた。
いつも俺のことを「汚い」と言っているから手で触りたくないのだろう。
「土下座して迷惑料を払ったら、許してやるよ。 辞めたくないんだろう」
ここの清掃チームを実質的に支配している〈お米さん〉が、少し焦った感じで、俺を助けるような事を言ってきた。
トイレ掃除をやらせる人間がいなくなるのはマズいと思ったのだろう。
嫌なことを自分達でしなければならないからな。
あんたがトイレ掃除を俺へ押しつけるように裏で動いていたのは分かっていたぞ。
俺は〈お米さん〉の言葉を無視して薄汚れた控室を出た。土下座は簡単なことだが迷惑料が払えない。
トボトボとあてもなく歩いているけど、それにしても腹が減ったな。
カップラーメンを食べたのはいつだったかな。
丸一日以上たっているな。昨日と今日の分のアルバイト代はもらえなかったな。
クビになるにしても俺は賃金を払えとなぜ言えないんだ。もうあの場にいたくないしか、考えて無かった。
今日寝る場所はどうしよう。百円も持っていないぞ。
道にお金が落ちていないか、と探しながら歩いていたのが失敗だった。
ドンと歩いていた人にぶつかってしまったんだ。
「あぁ、すいません」
「はぁ、すいませんで、すむかよ、おっさん。 痛てて、骨が折れちまった。 慰謝料を払ってもらおうか」
運の悪いことにぶつかったのは、見るからに暴力団ふうの男だった。体も大きくて派手なシャツから刺青が見えている。
「…… 」
俺はブルブルと震えて何も言えない。怖くて仕方がないんだ。
「けっ、おっさん、謝りもしないのかよ。 俺を舐めているな。 返事が出来るようにしてやろう」
「ぐわぁ、痛い」
顔面を殴られて俺は鼻から血をダラダラと流している。股間からは小便も流れている。
痛くて恐くて仕方が無かったんだ。
「うわぁ、このおっさん、ちょっと殴っただけで漏らしやがった。 情けない野郎だ」
「うぐっ」
「がぁっ」
「靴が汚れるからこれぐらいで許してやるよ。 もう堂々と道を歩くな。 キモいおっさん」
何回も体を蹴られて俺は道に倒れている。うめき声をあげていたが誰も助けてはくれなかった。
それどころかゴミを見るような目をして、人々は通り過ぎて行っただけだ。
何時間たったのか分からないが俺は痛む体を我慢してのろのろと立ち上がった。
生まれた瞬間からひどい目にあっているが、今日はその中でも10番目くらいにひどい日だな。
「あっ、なにか握っている」
不思議だったからか思わず独り言を言ってしまう。俺は時々独り言を言ってしまうんだ。話す相手がいないせいだと思う。
握っていたのは古くて見た事もない硬貨だった。五百円玉と同じくらいの大きさだ。
外国の硬貨だろう。
鳥が翼を広げた絵が書いてあるだけで、金額が書いてないから硬貨じゃないのかも知れない。
だけど俺は路地の隅にあった木製の自販機にそれを入れてみた。
五百円玉と大きさと重さが同じだから、試してみる価値があると思ったんだ。
木製って初めて見たな。どうせ返却されるだろう。
殴られて蹴られたから、俺の精神はおかしくなっているんだと思う。
ゴロンと出て来たのは、迷路みたいな細い線が、金色で殻に描かれた大きな卵だった。
「えっ、卵。 大きいな。 ニワトリの倍はある。 何の鳥なんだろう」
俺はヨロヨロと公園へ行き水を飲んで顔も洗った。少しかび臭い匂いがする。
もう夜になった公園には誰もいない。壊れたベンチに座り「はぁー」と長い溜息を吐くしかない。
明日からどうしよう。
「生だし、気持ち悪い模様だけど、この卵を食うか」
俺はベンチの角に卵を打ちつけた瞬間、この卵は珍しいからお金になった可能性もあるな、と激しく後悔した。
たけど直ぐに思い直した。どこで買い取ってくるんだ。そんなところを俺は知らない。
殻に描かれた迷路が粉々に砕け散り、俺の体に張りついた。
白くてブヨブヨした物が、俺の全ての穴から侵入し始める。
眩い黄金の光が俺の目を射貫く。
「ひゃぁ、眩しい」
目を開けて見えたのはやっぱり誰もいない公園だった。塗料がはげたスベリ台が見えるだけだ。
俺の体に何の変化も無かった。汚い作業服を着たおっさんだ。股間はまだ濡れたままになっている。




