第4話『沈黙する白花』
遠くで水が揺れているような感覚があった。
けれど、それが現実の音なのか夢の残り香なのか、判別がつかない。
何かが、ぬくもりとして、そっと触れている。
額に。指先に。心の奥に。
その感触を探すように、シアノはゆっくりとまぶたを開いた。
光が差していた。まるで水の底から見上げたような、やさしい光。
目が合った。
――イーヴだった。
彼の顔が近くにあって、そして……泣いていた。
「……シアノ……」
その声はかすれていて、震えていた。
次の瞬間、シアノの身体は強く、けれど壊れ物を抱くように、抱きしめられていた。
何も言わず、ただ彼の腕が包み込んでくる。あたたかく、切なく、揺れるように。
「……戻ってきてくれて、ありがとう……」
その一言が、胸の奥に染み込んでいく。
聞いたことのないイーヴの声だった。張り詰めた糸が切れたような、抑えきれない感情がにじんでいた。
「……そんなに……心配してくださったのですか……?」
それは、問いというより、呟きに近かった。
でも、イーヴはしっかりと頷いた。
少しだけ距離をとって、彼女を見つめる。その目が、濡れていた。
「……当たり前でしょう。……でも、本当は……」
彼は言いかけて、少し視線を落とす。
「本当は、こうして抱きしめる前に……話さなければいけないことがあるんです」
その声音は、どこまでも誠実だった。
だが、それ以上に痛々しくて、触れたくなるようなものだった。
「あなたの今のお立場について……制度のこと、陪花申請のこと……」
「本来なら、僕は……感情を差し挟むべきではない立場なんです」
けれど、と言葉を切るイーヴの手が、わずかに震えていた。
その手は、シアノの手をずっと包み込んでいた。
「……それでも、あなたの気持ちを何よりも優先したい。
制度でも、僕自身の意志でもなく――あなたの心を、一番にしたいんです」
沈黙が落ちた。
けれど、それは怖い沈黙ではなかった。
波の音のように、優しく、胸の奥で響いていた。
やがて、シアノはふっと息を吐いた。
そして、笑った。
微笑というには、少しだけ泣き顔に近い、やわらかい表情だった。
「それでも……イーヴ様の声が、こうして聞けて……ほんとうに、よかったです」
その一言が、すべてだった。
イーヴは答えなかった。
ただ、彼女の手を、もう一度だけ強く握った。