「第6話」
名前を呼ばれることに、どんな意味があるのだろうか。
「魔女と呼べばいい」
「そ、それは……」
「なら、薬師でも構わないが」
何も考えずに口をついた言葉に、レイゲルはおどおどして戸惑いを隠せなかった。その様子からして、とても素直に受け入れるとは思えなかった。呼び名なんて何でもいいはずなのに、どうしてそんなに気にするのか、私には理解できなかった。
――たかの呼び方なのに。ほんの少しだけ思案してから、私は再び口を開いた。
「師と呼ぶのも悪くないな。好きにするがいい」
「では、師匠と……」
「勝手にしろ」
――やはり、こうなるか。半分は予想していたかもしれない。こうして、レイゲルとの生活が始まった。
***
レイゲルは、私が見立てていた年齢よりも一歳ほど若かった。
食事の心配もなくよく食べて育ったに違いないし、話によると剣術も習っていたらしい。背が高いのも納得がいった。
あの死んだ男が先生だったと言ったか。
正確に言えば、護衛兼剣術の師という立場だったらしい。本人は血まみれになって命を落としたが、レイゲルはかすり傷一つで済んだ。
――そのことを見ても、男がどれほど必死に役目を果たして命を落としたのかがよく分かる。
今では、その傷すらもないし……
私が作った薬を使ったから、当然の結果だった。その間、レイゲルの家の事情も大まかに聞いた。
(応接間で、セイランド叔父が……)
いつものように、死んだ男から剣を習っていたある日だったという。稽古が終わって屋敷に戻ると、叔父と呼ぶ男が血塗られた剣を手にしていた。視線の流れに沿って、レイゲルの目に映ったのは、倒れた両親の姿と、その周囲に広がる血だまりだった。どうしてこうなったのかは見ていなかったとしても、子供にも何があったかは一目で分からざるを得なかった。その後の流れは、予想通りだった。男と共にこの森に足を踏み入れたのだから。でも、それは予定外で起きた出来事だった。
(本当はここに来るつもりじゃなかったんです)
レイゲルたちが本来向かうはずだったのは、この森とは正反対の方角にある、母方の実家の地域だった。だが、その叔父とやらが抜かりなく準備していたせいで、行きたくても行けなかったのだという。仕方なく、この森を選択し、向かったという話だ。男は血まみれになりながらも何度も迷ったというが、結局はどこに行っても同じだと考え、ここを目指したそうだ。その男は命を落としたが、レイゲルは生き延びて私の弟子にまでなった。
――そう考えれば、その日の判断は間違っていなかったのかもしれない。
この話を聞いただけで、昨日はもう終わったっけ。
そして今日は、レイゲルが私の弟子となった、初めての朝だった。
「起きなさい」
慣れない場所で寝付きが悪かったのか、私の声にレイゲルはぱちりと目を開けた。
「し、師匠……?」
まだ眠気が残っているのか、声がかすれていて聞き取りにくかった。レイゲルはぼんやりとした目で窓の外を見つめていた。
「まだ夜なのに……」
「夜明け前だ」
太陽はまだ昇っていなかったが、空に微かに青みが差し始めていた。薬草を採るにはちょうど良い時間帯だ。
「弟子になりたいと言ったのはお前だ。だから、やるべきことはやるしかないだろう」
私の言葉に、レイゲルは瞬きを数回した後、首を大きく振った。そして自分の頬をぴしゃりと叩いた。
「起きっ……ました」
「昨日は熱を出していたとはいえ、本来は遅く起きていたようだな。私の一日は、お前のそれより早く始まる。慣れなければならないだろう」
レイゲルは返事の代わりに、顔をうなずいた。このまま出かけようとしたその時、机の上に置かれた紙とペンが目に留まった。
「頭は良いか?」
「……良いと思いますけど」
「なら、私の言ったこと、覚えておけるか?」
「内容次第です」
私がこれから何かを教えるつもりだと察したようだ。どうやら、察しの悪い方ではない。
「字は書けるか?」
「書け、ます」
貴族出身とはいえ、この年齢の子どもならまだ読み書きを学んでいる最中でもおかしくはない。だが、自信ありげな口ぶりからすると、どうやら頭は悪くなさそうだ。
文字から教える手間は省けそうだな。
私は机の上にあった紙とペンを取って、レイゲルに渡した。
「必要になるかもしれないから、持っておけ。質問があればいつでも聞いて構わないが、同じことを二度は言わない。だから、集中しなければならないだろう」
私も必要な物を持って家を出た。空気を吸い込むと、冷たい空気が肌をなでるように通り過ぎた。やがてそれは肺の奥深くまでしみ渡り、心地よい爽快感をもたらしてくれた。
――ざっ、ざっ。
歩き始めてしばらくすると、目の前には白く濃い霧がかかる境界が現れた。振り返れば、遠くに我が家が見えるほど視界は澄んでいたが、霧の向こうは一寸先すら見えないほどに濃かった。私の家と森を分ける『結界』だ。
「見えるか?」
「うん……あ、は、はい」
「ここが境だ。これからお前が覚えるべきことは、すべてこの向こうにある。しばらくは一緒に動くが、いずれは一人で動けるようにならなければならない」
そう言って、決して勝手に離れてはいけないと注意した。レイゲルは口先では軽く分かったと答えたものの、表情は硬くこわばっていた。無理もない。この場所は、村の者でさえ足を踏み入れたがらない場所なのだから。どうするか少しだけ迷ったあと、私は手を差し出した。レイゲルは私の手と顔を交互に見てから、おそるおそる手を取った。
「では、行こう」
これからはレイゲルにとっても何度も通う場所になるだろう。できるだけ慣れておけるよう、私はゆっくり歩きながら説明した。レイゲルが書き留める時には足を止め、書き終えるまで待ってやった。
「見ての通り、一定の時間が過ぎると道が変わる。何も知らない者には、すぐに迷い込んでしまう」
「ルールはありますか?」
「ないことがルールだ」
レイゲルは紙に書く手を止め、顔を上げた。青い目が『何それ、意味が分からない』と言っているようだった。
「だが、『パターン』はある」
「パターン……ですか?」
「ちょうど五十通りだ」
「……五十?」
レイゲルの口がぽかんと開いた。つり上がった目が、『どうしてそんなに種類があるの』と問いかけているようだった。
「道はその分だけ覚えればいいだろう。その中で無作為に切り替わるから、順番で覚えるよりも、それぞれの道の特徴を理解しておいた方がいい」
そう話しているうちに、風が吹き、足元の景色が一変した。教えている最中ですら道は変わる。それがここの常なのだ。あまりにも不規則に変化するため、何も知らぬ者には道を失いやすい危険な場所だ。
「師匠が作ったんですか?」
「全然」
嘘をつく気はない。
正直に答えると、レイゲルの澄んだ青い瞳がまんまるに見開かれた。