「第33話」
変な話だ。
適当なものを食べさせたくなかったし、適当な場所で寝かせたくもなかった。
どうせただの普通の人間なのに。
理由はなかった。正直、自分でもよく分からない。そうしたかっただけだ。だからこそ、用意するものも増えるし、かかる費用も倍になってしまう。問題なのは、お金がかかることだけだった。
「いつ出発するんですか?」
「明日」
できることなら今すぐ荷物をまとめて出かけたかった。だが、レイゲルにも準備の時間は必要だろうから、今日は待つことにした。
「結構早く出発するんですね」
「のんびりしているわけにもいかないからな」
「急ぎの用事なんですよね?それなのにヒエリに立ち寄っても大丈夫ですか?」
「それくらいなら構わない」
どうせヒエリとカンツはそれほど離れていないからだ。
「師匠は、よく旅をされてきたんですよね?」
「君から見れば、そうかもしれないな」
長く生きてきただけに、一か所に留まらず、あちこちを転々としてきたことも多い。ましてや、人々が避ける魔女ではないか。単にあちこち移動しただけでも、それを旅と呼ぶなら、間違いではないだろう。
「では、帝国の外にも行ったことがあるんですね?」
「ない」
きっぱりとした返事に、レイゲルは瞬きをした。どうやら意外だったらしい。
「師匠はそんなに長生きしたのに、他国には行ったことがないんですか?どうしてです?」
「自分の自由だ」
何でもないように短く言った。本当は全くそうではないのに。心の片隅に残った小さな未練が足を引っ張っていた。この地を離れられなかった理由だった。そう、私はまだ捨てきれていなかったのだ。
「いつかは行ってみたいものだな」
それは、私の小さな願いのひとつであった。
「初めての旅だけど、師匠と一緒だから嬉しいです」
「嬉しいことだとは思わないんだが」
「すごく楽しみです」
レイゲルがにっこり笑った。ふっと上がった口元は、他人が見ればそのまま惹かれてしまいそうな笑みだった。
楽しみな旅、か……
心からそう思えたら、どれほど楽だろう。透き通るように感情を見せるレイゲルの姿を見ていると、落ち着かない気持ちが湧き上がる。あまり見せたくない感情だった。暖かい笑顔に、わざとそっけなく視線を送った。『準備は自分でやれ』とだけ言い残し、外に出た。時の流れはあっという間で、いつしか周囲は暗くなっていた。顔を上げれば、ぎっしりと並んだ星々が鮮やかに瞬いている。
「……外さねばならないな」
手を上げ、目を覆う布に触れた。レイゲルと出会ってからずっと外さなかった布だった。そよ風に髪が揺れる。
髪が揺れるたびに、思考も深まっていく。
***
翌日。
水霧が立ち込める早朝。レイゲルを連れて外に出た。前がよく見えないこの時を狙った。
「師匠?」
レイゲルは不思議そうにしながらも、文句を言わずについてきた。少年を後ろに置き、数歩進んで振り返り、立ち止まった。
「……見せたいものがある」
「見せることなんですか?」
普段と違う声色だからか、レイゲルの顔にわずかな緊張が浮かんだ。私は返事の代わりに、手を上げて目を覆う布に触れた。
「あっ、それは……」
さすがだ。何を意味するかすぐに察した様子だった。
「絶対に見せるつもりはなかったんじゃないですか?」
「元々はな」
見せるつもりはなかった。見せたくもなかった。布を握る手に力が入り、ぎゅっと握りしめる。
「じゃあ、急にどうして……なんですか?」
「君がここを離れずにいるからな。しかも、私の用事に付き合うと言ったんじゃないか」
「何の関係があるんですか、それ」
あった。しかも、かなり大きな関係が。
「これが魔導具だってことは、もう知っているんだろう」
「ええ。師匠が教えてくれましたから」
「普通は、物に宿る魔石と使用者のマナの反応で作動する」
今は違うが、昔はマナはすべての生命に宿っていた。魔法を使えない者でも魔導具を扱えるのは、そのためだった。一方、私は生まれつきマナが流れない体を持っている。生来、魔導具を扱えない体ということだ。それでも問題なく使えていたのは、すべて彼のおかげだった。マナの反応がなくても、魔導具自体がマナを供給できるように作られていた。製作者がドラゴンだったから可能だったのだ。
「普通の魔導具と違い、この布はマナの供給源が別に必要だ。昔なら空気中にマナが漂っていたから問題なかったが、今は違う」
「魔法がない時代だからですね」
そうだという意味で、頷いた。人々が単に魔法の知識を失ったために扱えなくなったわけではない。魔法の源であるマナそのものが、まるで最初から存在しなかったかのように消えたため、扱えなくなったのだ。
「ここはマナが豊富だから問題ないが……」
「この外は違うんですね」
「そう。布に宿るマナがすべて失われれば、本来の機能を失う」
「前が見えなくなる、ってことですね」
外に出ると、布に宿ったマナがいつ尽きるのかは分からなかった。どれだけ耐えても、いずれ布を外す時は必ず来るのだ。
「魔力を失った布を使い続けるとしても……あちこちにぶつかることになるんですね」
「そうなるんだろう」
レイゲルは、見なくても分かるような目で私を見た。認めたくはないが、同意せざるを得なかった。この少年ほど身体能力が優れていれば別だが、私は全くそうではないから。
「だから、今見せるっていうんですか?」
「必要な時に使うために、マナをできるだけ温存しておく必要があるからな」
前置きは長くなったが、結局は今解く決意をしたということだ。布を握る指に力がなかなか抜けなかった。レイゲルはもちろん、長い間誰にも見せなかっただけに、緊張するのも当然かもしれない。
『見てはいけない。呪われるぞ』
『人の目なのに、どうしてあんなに不気味な形をしているのかしら』
『あれが、神に見捨てられた証だろう』
黒い髪とともに、黒い瞳は不幸を象徴していた。姿を隠して生きてきた今にしても、耳元で時折鮮やかによみがえることがあった。レイゲルは幸運にも私の髪を美しいと言ってくれたが、目についてはどうだろう。たぶん、難しいと思う。
やはり、一人で行くのが……
そんなことを考えていた時だった。
「その布、僕が解いてもいいですか?」
――この瞬間、すべてが変わるのかもしれないと感じた。




