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「第10話」

 レイゲルは、普通の子ではなかった。

 いわゆる『天才』だった。いや、もしかするとそれすら足りない表現かもしれない。『一を聞いて十を知る』という言葉があるが、それ以上の表現が必要だと思えるほどだったからだ。


「この本は何ですか?」

「基礎書だ」


 レイゲルに、この森で生きていくための知識を一つずつ教えていたある日のことだった。家の中をきょろきょろと見回していたこの子の視線が、部屋の隅に置かれた本棚に止まった。薬草や薬の作り方、それに扱い方まで──そういった知識をまとめた専門書ばかりが並んでいる本棚だった。長い年月をかけて少しずつ集めてきた結果、いつの間に本棚がいっぱいになっていた。レイゲルはそのうちの一冊を手に取り、ざっとページをめくってみた。


「全部、知らない文字で書かれてますけど」

「今では使われていないから。あなたにとっては『古代語』になるだろう」


 文字の骨組みは同じだった。この国、この地にかつて存在していた文字の形だった。けれど、時代が流れる中で少しずつ形を変え、やがては原型を失ってしまった。今の文字には、その痕跡すら残っていなかった。そうして、忘れ去られていったのだ。


「読めなくても気にするな。どうせ、あなたが生きていくうえで知っていておけばいいことだけ教えていくつもりだから」

「魔女がそんなふうに教えてもいい?……んですか?」

「では、むやみに教えろというのか」

「いや、そうじゃなくて……」


 レイゲルは唇を動かそうとしたが、口をつぐんだ。伏せた瞳が、手にした本の表紙に落ちたまま、静かに言った。


「この文字、教えてください」

「古代語を?その時間を森に慣れることに使った方が効率的だと思うが」

「うっ……」


 レイゲルの顔がしかめられた。森の地形を覚えるのに苦戦しているからだろう。


「形は五十個しかないのに、組み合わせが多すぎると思い?……ませんか?」

「だから、もっと時間をかけなければならないだろう」


 森について学ぶことと、古代語を覚えること。どちらがレイゲルにとって重要なのか、比べるまでもなかった。刹那と言っていいほど短い人生の中で、古代語を使う機会などどこにあるんだろうか。知ったとしても何の役にも立たない知識だった。将来、考古学者にでもなるつもりなら話は別だが、そんな夢を抱くとは到底思えなかった。やらなければならないことが他にあるとわかっていたからこそなおさらだった。


「基本だけでもいいんです。道は必ず覚えますから」

「当然のことをまるで交渉でもするみたいに言うのか」


 最後まで断ろうとしたが、レイゲルは一歩も引かなかった。その粘り強さに根負けして、結局紙一枚に基本的な構造を書いて渡した。


「これ以上、ごねるなよ」


 それが全てだった。それ以上は教えなかったし、干渉もしなかった。それが、たった三日前のことだった。


「……何をしている」

「本を読んでいますけど?」

「読めるのか?」

「読めなかったら、持っているはずがない……ですよ」


 レイゲルは堂々と本を広げて、黙々と読み進めていた。時々単語の意味を尋ねることはあったものの、内容がわからなくて途方に暮れるような様子は、一度もなかった。それだけではなかった。


「これが何なのか覚えてるか?」

「ミスランですね」

「そう」


 内心、『弟子の役割は割としっかりやっているな』と感心していたものの、その次の言葉を聞いて思わず凍りついてしまった。


「師匠が作る解熱薬の主要材料ですよね。葉や花には効果がないので、必ず実だけを使うべきです。注意しなければならないのは、一定の基準量を超えると嘔吐を誘発する可能性があるため、必ず配合を調整しないといけない。……そうですね?」

「……」


 薬学書を小脇に抱えているのは知っていたが、教えていない部分までスラスラと話すとは思わなかった。誰がどう見ても、何ヶ月もこればかり暗記に打ち込んだ人間にしか見えない。だが、実際には勉強を始めて一週間も経っていなかった。


 ……本当に何だろう、この子。


 ふと、目の前の子が『人』ではなく、何かの『怪物』なのではないかとの考えも長くは続かなかった。




 ****




 二週間ほど経った頃には、レイゲルの私に対する態度も自然なものになった。どこかぎこちなかった話し方も、今ではすっかり落ち着いていた。

 今、私は近くの岩の上に座って、レイゲルが渓谷で魚を捕ろうとしている様子を見守っていた。


 道だけは、まだ覚えられていないって言ったから。


 妙な話だった。古代語どころか、家にある本を全部頭に叩き込んだあの子が、ただの道を覚えられないって?疑わしいにもほどがあったが、大人として子どもの言葉を疑ってかかるのもどうかと思い、結局、今も森へ行くときは一緒にいる状況だった。


 元気だな。


 ちゃぷんちゃぷん。

 魚を捕ろうとしているのか、ただ水ではしゃいでいるのか分からないほど、四方八方に水が跳ねていた


「あんなに食べたかったのか」


 私は小さく呟いた。レイゲルが魚を捕ろうと必死になっていたのも、魚を食べたかったからだった。『ウサギ肉はもう飽きた』と、そう言いながら。


 どうやら、水の中は違うのだろう。


 レイゲルは渓谷のあちこちを歩き回った。そのせいで、着ていた服はもちろん、髪までびしょ濡れだった。残念ながらこれといった成果はなかった。それでも、彼は疲れを見せなかった。眉ひとつ動かさず、ただひたむきに魚を追い求めていた。もちろん、捕まえられるかという瞬間も何度かあった。だが、全部滑りやすい鱗のせいで手をすり抜けてしまった。


 でもすぐ慣れるだろう。


 レイゲルは頭が良いだけではなかった。身体の動きも抜群だった。運動などとは無縁の私が見ても、感心するほどの才能があった。最初の頃にはウサギ一匹すら捕まえられなかったが、今では一人でも簡単に狩ってくるようになった。おかげで最近の食卓にはウサギの肉が消えることはなかった。


 今度は何日かかるかしら。


 レイゲルと過ごすうちに、心の中で驚くことが一度や二度ではなくなっていた。おかげで、普通なら『有り得ない』と言われることにも、もう慣れてしまった。そもそも、私自身が『普通』とは距離があるじゃないか。だから、慣れられないはずがなかった。


「師匠!」

「呼んだ――」


 ざああっ。

 言い終わるや否や、予想外の水しぶきがこちらに降りかかった。

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