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「人前でお戯れになるのはお控えくださいませ。政敵も多い中、付け入る隙をお与えになってはなりません」

「皇太子様、フリでも良いのです。剣術や勉強を少しでもお学びになる姿勢を民にお見せ下さい。これでは道化と言われても仕方がありませんわ」

「少しは表情をお引き締めになったらいかがです。いつまでも腑抜けた顔では軍事会議に支障が出ますわ」


きりり、とした表情で、キラキラと光る金髪をたなびかせて。まるで天使が調合したかのような薄桃色の瞳に鋭さを滲ませてこちらを射抜いてくる婚約者____ルナ=フェンガリ。ぱし、と青い糸で刺繍をちりばめられた扇を口元に当て、彼女は険しい表情で目の前の男を激しく叱責した。


「聞いておりますの、皇太子様」


返事がない。今日はまだこれから剣術の稽古があるというのに、朝から政治の話を聞いて疲れているのに。自分よりもずっと長く休んでいるはずのこの男が、自分に対して疲れているなどと言うのならば。ルナは今すぐにでもドレスを引きちぎってしまいそうな程激情に燃えるだろう。ただでさえ釣りあがった眉毛をさらにぎり、とよせて、彼女は自分よりも遥かに高い婚約者の顔を見上げた。


それからぱちり、と瞬きをひとつ。


「…クロエ、ジュリア、アビィ。それから皇太子様のお付の方々。わたくしは皇太子様に申し上げることがございますわ。少し席を外して頂けるかしら」


ソファの背後で控えていたそれぞれの側近に声をかけて、彼らが部屋を出ていくのを見届けて。ルナはぱたり、と扇を閉じて懐に仕舞う。綺麗にウェーブがかった髪をさら、と片耳にかけて、彼女はふ、と表情を弛めて笑った。


「どうかいたしましたの、イーリス様。今にも泣きそうではございませんか」

「だ、だってぇ…!ルナがいつまでも怖い顔してるんだもの…!!」


先程からずっと黙っていたのは涙をこらえるためか。そんな単純なことにすら思い至らなかった自分を心の中で叱責して、彼女は彼の頬にそっと手を添えた。側近たちがいる中で泣き始めなかったのはまだマシである。


「いけませんわ、イーリス様。わたくしがいつでも守ってあげられる訳ではございませんのよ」


まるで母のような優しい笑みを浮かべながら、彼女はぽろぽろと彼の頬を滑り落ちる涙を拭ってやった。爪の先まで美しく整えられた婚約者に、イーリスはうう、とその紫色の瞳にさらに涙を浮べる。


「いやだ、嫌だよルナ。僕は国のことなんてどうでもいいんだ。君がそばに居てくれれば、それで」

「何を…ああ、今はお説教はいりませんね。ええ、存じ上げておりますとも。けれど、この国は今や権力が蠢く魔窟。貴方様が権力を握った上で正しく国を導かなければ、わたくしどもは共に過ごすことすら叶わぬ夢と成り果ててしまいますわ」


ぎゅ、と彼の剣など1度も握ったことがないかのような白い手を見て、ルナは手を引っこめた。幼い頃から木刀を振り続けてきた、とても淑女だなんて言葉すらおこがましい醜い手。いくら目の前の愛する男を守るためとはいえど、彼女は自身の醜い手が好きではなかった。たとえ白いレースの手袋に身を包ませていようが関係ない。どれだけ厚手のものを被せたからと言って、自身の豆だらけの手などひと目で醜いとわかる。その美しい顔にすこしの翳りが見えて、イーリスはぱちぱちと目を瞬かせて彼女の手をやさしく包み込んだ。


「ねえ、ルナ。ぼくは国王になんてなりたくないんだよ。君も知ってるだろ、ぼくよりフォンセの方がずっと優秀だし、きれいな婚約者もいるじゃない。あの子が王位を継がない理由なんて1個もないんだよ」


彼女の手をにぎにぎと揉みながら、彼は俯いたままそう言った。彼が幼い頃からずっと王族教育から逃げ回っていることは知っているし、そのせいか彼は庶民が身につける教養程度の知識しか無い。剣術は勿論、立ち振る舞いだって美しいものとは言えない。テーブルマナーや茶会の作法はルナが徹底的に叩き込んだから政敵に付け込まれる事はそうそう無いけれど、確かに彼個人の能力だけを見れば 王の器には相応しくないだろう。


「…存じ上げておりますわ」

「ねえ、ルナ。ぼくの為に君が頑張ってくれていることは知ってるよ。でもさ、駄目なんだよ、ぼく。ぼくが仮にこのまま王位を継承してもさ、ぼくは君が全部何とかしてくれると思ってるんだ。君は格好良いし、綺麗だし、頭も良いし。いっその事君が王様になるのはどうかな? 国民も納得するよ」

「そんな愚行を口にするものではありませんわ。女の国王なんて前代未聞です。それにわたくしは…イーリス様があの玉座に座るところを見たいのです」


彼がこんな風におっとりしているから、その婚約者であるルナは誰よりも気を引き締めておかなければならない。誰よりも信頼出来る執事長に毒を飲まされたことも、まるで兄のように接してくれた騎士団団長に首を跳ねられそうになったこともある。それらは全て第二王子派によるものだ。高熱を出して寝込む姿に、首周りに包帯を巻いて泣く彼の姿に、ルナはただ泣く事しか出来なかった。

けれど、今は違う。解毒の知識も、政敵の知識も腐るほど叩き込んできた。全ては目の前の愛する男を守る為に。本人が望んでいないくせに、まるでそれが正義とでも言うかのように 彼の名を掲げてイーリスを討ち取らんとする悪魔のような存在が、彼女は心の底から嫌いだった。


「わたくしはそろそろお暇致しますわね。この後少し用事がありますの」

「そっかあ、残念。もう少しお喋りしたかったんだけど」

「イーリス様はいつもそう仰いますね。わたくしも寂しいですわ」


席を立ちながらふふ、と微笑めば、彼はきっかり3秒経った後に その白い頬を赤く染めあげた。指で頬をかくその仕草に、ルナはさらに表情を緩める。


「えっ、本当に!? えへ、嬉しいなあ。愛してるよ、ルナ」

「わたくしも、お慕いしておりますわ。イーリス様」


最後に彼の頬にそっと唇を落とし、彼女は部屋の外で控えていた侍女に声をかける。次に向かう部屋はイーリスの自室があるところから随分と離れているけれど、それでも歩けばすぐにつく距離だ。それでもわざわざ見送ってくれる彼が愛おしくて、彼女はつい顔を綻ばせそうになる。人前であることを考慮して、何とか無表情で乗り切ったけれど。


この国が好きだ。明るく優しい国民も、美しいレンガ調の街並みも、国花が咲き乱れた緑の広場も。国民たちがみんな笑顔でいられる、この太陽の国が好きだ。確かに出来は良くないかもしれないけれど、誰よりも心の優しい彼が治めるこの国を、ルナは間近で目にしたい。

その為ならばどんな努力も惜しむつもりは無い。たとえどれだけ外野が騒ぎ立てようと、第2王子派の貴族に足をかけられようと。彼女はそんなことを気にするつもりはなかった。


「あらぁ。ルナ様、ご無沙汰しておりますわぁ」

「…フィーア様」


にこにこと優しげな笑顔で、水色の髪を編み下ろした彼女は笑った。雪のように白い腕の先に隠すような黒い手袋に、真っ赤な薔薇模様のドレス。自分よりも幾分か身長の高い彼女を見上げるような形で、ルナは恭しく挨拶をした。


「イーリス様に会っていらしたのかしらぁ? わたくしも先程、フォンセ様とお茶会をしておりましたの」

「それは素敵ですね。本日は天気も良い事ですし、きっと素敵なひとときを過ごされた事でしょう」


くすくす、と優しげに笑う彼女に、ルナも強ばっていた表情を弛めた。

第一皇子の婚約者である自分は、名義上はフィーアの「姉」だ。けれど、実年齢は彼女の方が上である。むしろ、ほぼ変わらないとはいえ 第一皇子より歳上である彼女は、一人っ子のルナにとって姉のような存在だった。いつもにこにこと優しく微笑んでいる彼女と違って、いつも仏頂面な自分。皇太子様がのほほんとしているから貴方はそのままでいいのよお、と笑う彼女に、今までどれだけ救われたことか。


「そうなのよぉ。ルナ様が前くださった、セバディ王国のお茶を頂いたの。流石だわ、本当に良い香りだったの」

「喜んで頂けたようで何よりでございます。…立ち話もなんですし、テラスでお話致しませんか? バタークッキーを焼きましたの」

「ううん。素敵なお誘いなんだけど、これから街へ行く予定があるのよぉ。また誘ってくれる?」

「はい、もちろん。お気をつけて」


じゃあね、とひらひらと手を振る彼女に小さく会釈をして、ルナはカツカツとヒールを鳴らして歩く。剣術の稽古があるのは本当だけれど、フィーアと茶会をする程度の空き時間はあった。それでもイーリスの誘いを断ったのは、今現在 ルナが真っ先に話をしたい人物が居たからだ。


「失礼致しますわ!」


目当ての部屋について、人前では到底しないような豪快な扉の開け方をして。彼女は少し息を切らしてそう言いながら扉を開けた。


「…び、びっくりした。そんなに急いでどうしたんですか、義姉さま」

「フォンセ! 隣国との外交はいかがでした?」


イーリスと同じ銀色の髪を後ろで結び、鋭く尖った瞳でこちらに目をやった第二王子__フォンセ=ルクス=ラハルーチェ。その目つきの悪さから誤解されがちだけれど、ひどく優しい心の持ち主であることをルナは知っている。

様々なものから逃げ続けてきた兄とは違い、彼は幼い頃からずっと努力を重ねてきた。第二王子派が彼を王にしたいと担ぎあげる気持ちも分かるけれど、彼は王位継承に全く興味は無いことも知っている。剣術の稽古をする中で、幾度か彼と手合わせしたこともある。勉強や稽古であまり友人と呼べる友人が居なかった中、彼はイーリスやフィーアとは異なる 心の支えだった。


「シラヌスの海は綺麗でしたよ。人魚たちが出迎えてくれて、美しい髪飾りを頂きました。フィーアにも贈ったのですが、一応。義姉さまにも」

「ありがとう、大切にするわ」

「人魚だけじゃなくて、国民たちは皆魚と話すんです。犬や猫のようにではなく、ひとりの友人として。だから街中にいくつも穴があって、海に落ちることもしばしば」

「素敵ね、とても楽しそう。いつか行ってみたいものだわ」


くすくすと笑う彼女に、フォンセも口元を緩めた。それから侍女が用意したケーキをひとかけら口に運んで、彼は何かを思い出したように彼女に話しかける。


「そうだ。私が居ない間に、何かありませんでしたか。兄様に危害が加えられたりとか、毒を盛られたりとか、暗殺者を送り込まれたりとか」

「大丈夫よ、問題無いわ。私も無事よ」

「ああ、良かった。本当に良かったです。誰に支持されているのかが分かれば、私の方から一言言えるのですが」


心の底から安心しきったような表情に、ルナも同じように溜息を吐く。

第二王子派の厄介な所は、決して姿を見せないところだ。イーリスが命を落としかけた場面はこれまで沢山見てきたけれど、なんの痕跡も残そうとはしない。それでも現在に至るまで、イーリスが殺されかけたことは何度もある。逆に、フォンセが危害を加えられたことは無いのだ____今まで1度も。ルナがその度に泣いていたのはもちろん、兄思いのフォンセも涙を零していた。


「…私は、兄様をサポートしたいのです。私のような悪人面よりも、優しいあの人の方が王に相応しい。努力は出来ないかもしれませんが、それよりもずっと素晴らしいものが兄様にはある。私は、あの人が好きなのです」


分かりますか、とルナに同意を求めるフォンセに、彼女は強く頷く。幼い頃からずっと言い続けてきた彼の言葉に、疑う所なんてひとつもない。いつもにこにこと笑う太陽のような彼の笑顔は、きっとこの国を明るく照らしてくれる。フォンセのような堅実な王もきっと素敵だ。けれど、当の本人が望んでいないし、彼は兄が適役だと考えている。それを第二王子派に知らしめれば良いだけの話だ。


「貴方も、同じでしょう。ルナ」


『義姉さま』では無い、昔の呼び方。懐かしい友のそれに、ルナは目をきらきらと輝かせて頷いた。それから不意に壁にかかった時計に目をやって、そのまま驚いたように立ち上がる。


「すっかり時間を忘れていましたわ。わたくし、剣術の稽古に行かなければなりませんの。それでは失礼致します、フォンセ様」

「ええ、お気をつけて」


白いドレスをひらめかせて、彼女は慌ただしく去っていく。 あと数日で自分の成人式が執り行われるけれど、皇太子妃として必要な知識はまだまだ足りない。時間があれば、と何度祈ったことか。周りの侍女たちにはもっと休め、と口酸っぱくいわれるけれど、国母として立ち振る舞う以上 半端者はすぐに弾かれる。そうなれば、イーリスに迷惑がかかるのは間違いないのだ。


「…嫌よ、そんなの。絶対に嫌」


ぱん!と両頬を叩いて、彼女は足早に訓練場へ向かう。彼との結婚、及び次の王が発表されるのは 自分の成人式の日だ。イーリスもフォンセもお互いが王に相応しいと明言しているけれど、現王は既にイーリスに王位を継がせる意思がある。彼がどれだけ駄目な男でも、周りにはこれだけ有能な味方がついているのだ。その有能な仲間の筆頭になるために、ルナは努力を重ねるしかない。


「待っていてね。イーリス様」


ぼそり、とそう呟いて、 美しい金髪をギュッと結んで。淑女はにやり、と口角を上げた。



* * *


「まあ、ルナ様!なんてお美しいのかしらぁ、天使が舞い降りたのかと思ったわぁ」

「ありがとうございます、フィーア様。フィーア様もとてもお綺麗ですわ」


はにかみながら顔を赤らめるルナに、フィーアも優しく微笑む。いつものシンプルな白いドレスではなく、紫色のスパンコールが散りばめられたシックなそれは、少女から大人の女性へと変化するその瞬間を示す様だ。暫く顎に手を当てて考え込んでいたフィーアが不意にあ!と声を上げ、すすす、とルナに耳打ちする。


「もしかして、イーリス様の瞳の色をイメージしたの?」

「そ、そうなんです…あっ、わたくしではありませんわ!侍女たちが勝手に…!!」


声を荒らげるルナに、フィーアは優しげな笑みをさらに綻ばせた。素敵ねえ、と心の底から祝福するようなその笑顔に、ルナはうう、と顔を真っ赤に染め上げる。近くにいたボーイが手にしていたお盆からドリンクを半ばひったくるようにして取り、そのまま一気に飲み干す。ぶどうの風味が感じられるそれが、幾分か今の気持ちを落ち着かせた。


「皇帝陛下のご入場です!」


美しい音色が響き渡り、門が大きく開かれる。銀髪に紫色の瞳の初老の男性の背後に控えるイーリスとフォンセ。王が王座に座り、婚約者のルナとフィーアもそれぞれ彼らの隣に控えた。王族を慕う国民たちが歓声を上げている姿に、王は優しく微笑む。


「…私も長い間王としての務めを果たしてきた。この国も栄え、隣国との関係も問題なく続いている。この国は100年、200年先も、ずっと平和に生け続けるだろう」


しっとりとした、心に染み渡るような優しい声。どんな凶悪な犯罪者だって涙を流してしまいそうなその声が、国民たちは好きだ。


「しかし、私もこの席を退かなければならない時が来る。それが今日だ。本日をもって、私の息子__イーリス=ルクス=ラハルーチェに、王位を継承する」


あまりにも穏やかな声でそういうものだから、国民たちの歓声が遅れたのは言うまでもない。当然だわ、と鼻を鳴らしているルナの横で、イーリスはええ!?と眉毛を下げた。


「ど、どうしよう…! ルナ、ぼく…!」

「堂々と致しなさい。何も問題はございませんわ、このわたくしがついておりますもの」

「そ、そうだよね!」


アワアワオタオタしているイーリスにぴしゃりとそう告げれば、彼はとたんに背筋を伸ばした。頭上から降ってくる「イーリス」と名を呼ぶ声に、彼は頼りなさげな瞳をルナに向ける。そんな彼に呆れたように笑って、ルナは彼の手を取って壇上へと上がった。


「イーリス様。考えなくて良いのですわ。貴方様の今のお気持ちを、国民にお伝えくださいませ」


優しく微笑むルナに、イーリスはぽっと顔を赤くした。それから「やってみるよ」と小さく呟いて、期待の籠った視線を向けてくる国民に顔を向ける。


「ぼ…私は、皆が望むような王にはなれません」


ぐ、と拳を握って、彼は震える声で話し始める。一歩後ろに控えているルナにはなんの口出しも出来ない。彼が、彼自身の言葉で。国民たちに示さなければならないのだ。


「シラヌスの様な聡明な王にも、エディオラワの様な頼りがいのある王にもなれません。ですが、この国を愛する気持ちは…何処の誰にも負けるつもりはありません」


この国には有能な民が居る。明るく、心の優しく、そして技術に長けた民が集まるこの国は、そんな王など求めていない。


「私には、助けてくれる家族がいます。もっと言うなら支えてくれる国民がいます。平和で明るいこの国を、末永く繁栄させて行きたい」


初めはか細かった彼の声は、段々と意志を伴って力強く響いていく。心優しいこの国の王に相応しいのが誰かなんて、この国の民たちはみんな分かっている。


「だから、情けないこの私に…皆さんの力を貸してください。ぼくは…この国が大好きなんです」


顔を真っ赤にして、ぶるぶると拳を震わせて。それでも懸命に言葉を紡ぐその男に、国民たちは優しい笑みで手を鳴らす。ほ、とため息をついて、イーリスは後ろで控えていたルナに笑いかけた。素晴らしい演説だった、次の王には彼こそ相応しい。ぱちぱちと再度彼の目の前で拍手をすれば、彼は途端に目を輝かせて照れたように笑った。


「…?」


ふわ、と一瞬誰かに髪を持たれたような気がして、ルナは自身の後ろを向いた。今日はお祝いの場だからと、いつもは下ろしている髪を纏めているから、そんなふうに髪を引っ張られる可能性はほとんどないはずなのだけれど。それでも確かに1束だけ抜かれた髪がその証拠だった。


「…固め剤が足りなかったかしら」


自信にそう言い聞かせるように呟いて、彼女は前を向く。誰よりも愛する人間の晴れ舞台だ、その隣に居るべき自分が暗い顔をしていてどうする。

きりり、と再度表情を引き締めて、彼女は前を向く。いつも完璧な彼女ではあるけれど、それでも今日ばかりは緊張していた。


だから、気づかなかった。気づくことが出来なかった。誰よりも近くにいたはずの、その男の裏切りに。


「……ひッ…いやあああああああああッ!!」


先程までにこにこと幸せそうにこちらを見ていたはずの愛する国民たちが、その笑顔を無くして悲鳴を上げている。顔を真っ青にして、涙を流して。耳をつんざくようなその悲鳴に、彼らの視線の先に目を向けた。


「……こ、うて…い、へい…か…?」


先程まで穏やかに笑っていた王が、優しく国民たちを導いてくれた国父の首が、どこにも無い。力なくだらりとぶら下がった手はピクリとも動くことは無い。ただ首より上から真っ赤な血が流れていくのを、ルナは見ていることしか出来なかった。


「…何を…何をしているの!? その手を止、め"…ッ!?」


姉のように慕っていた女性が、口から血を吐いている。腹から突き出た銀から目を離すことも出来ず、ルナはただ呆然とその光景を眺めていた。目の前で何が起こっているのか分からない。瞬きする度に視界に移る赤の存在が信じられなくて、ルナはただはく、と息を揺らすことしか出来なかった。


「ふぃ、あ…フィーア様…ッ!!」


国民たちの悲痛なその声に、ルナははっと我に返った。そのまま横たわっているフィーアの元へ駆け寄る。口からごぽり、と血を吐き出しているフィーアの目は虚ろで、もう彼女の美しい黒色に ルナを移すことはなかった。


「嫌…嫌!フィーア様、どうか…!!」


顔を真っ青にしながら彼女の手を握るけれど、だらりと力の抜けた手は既に冷え始めていて。いつも優しく手を握ってくれた優しい笑みはもうどこにも無い。ルナはひ、と小さく声を上げて、もう返事をすることの無いフィーアの名を呼び続ける。


「駄目、ルナ!危ない!」


彼女の名を呼ぶ男の声も、今のルナには届かなかった。もう動くことの無い腕を掴んで声を張上げる彼女が痛ましい。当然、そんな彼女____「皇太妃」を、敵が放っておくはずもなく。


「ルナあああああああッッ!!!!」


突如耳に飛び込んできた、彼女の名を呼ぶ声。その声にハッと顔を上げれば、底には遠くからこちらへ走りよってくるイーリスの姿があった。未だ彼の身体が無事なことに泣きそうな程に安心して、彼女は彼の言葉に答えようと口を開きかける。


「イーリ」


彼がやたらと焦った顔をしているものだから、何よりもその身を案じなければならないはずの彼に早く逃げろ、と言いかけて。不意に首に走った鮮烈な熱さに気がついた。


「…あ、れ…?」


段々と視界が回っていく。煌びやかな天井が、隣国から寄贈された美しいカーペットが目の前に見えて。それから最後に、自分を覗き込む愛しい男が 涙を零しているのが見えた。












「_____ッ!!!!」


酷く長い夢を見ていた気がした。


肌触りの良い絹のシーツの上でもぞもぞと足を動かし、太陽の光を浴びてキラキラと光る金髪を揺らして。ルナははあはあと荒い息を吐きながら、そうっと首筋に手を当てる。


「わたくしは…一体、なにを…」


どくどくと未だ収まることの無い呼吸を繰り返して、ルナは止まらない冷や汗に気が付く。公爵令嬢としてあるまじき行いだ、とても人に見せられたものでは無い。1度落ち着こう、と侍女に水を持ってきてもらい、それを一気に飲み干した。


「…はあ…」


鏡の前に立って身支度をする。朝食までまだ時間はあるものの、今日は父の古い友人が遊びに来るらしいから。いつもよりも慎重に、丁寧に支度をする必要があった。てきぱきと髪を飾りつける侍女たちに、ルナはねえ、と声を掛ける。


「どうかいたしましたか、お嬢様」

「本日いらっしゃるお客様に、私は心当たりがないのだけれど。貴方たち、何か知っていて?」

「いいえ、それが…我々も何も聞いていないのです。ああ、でも…お嬢様と同じくらいの歳の方もいらっしゃるようですよ」

「そうなの? お友達になれると良いけれど」

「本当ですね。お嬢様、ドレスはどちらにされますか?」


透き通ったペリドットのヘアバンドを付けて、ボリュームのある髪の毛をふたつに結い上げて。ルナは目の前に出されたドレスをじっと見つめた。


「…そうね…」


片方はピンクのふりふりのドレス、もう片方は黄色の少し落ち着いたドレスだ。どちらも普段から自分が好んできているものだけれど、今回ばかりはあの人に会うのだから あの人が好きそうな白いドレスが好ましいだろう。


(___あの人…?)


不意に頭の中に過ぎったその言葉に違和感を覚える。今まで好みを変えてまで人に合わせるような性格だっただろうか。突如黙り込んでしまった少女に、ドレスを手にしていた侍女達は顔を合わせて困ったような表情を浮かべる。


「…なんでもないわ。そちらの黄色いドレスにするわね」

「! かしこまりました」


柔らかな手触りのそれに手を通して、首元にきらきらと輝くシトリンを添えて。父たちの待つテラスへと歩みを進める。そこには既にティーセットが置かれており、どうやらルナが最後だったようだ。席に着いていた客人に恭しく頭を下げ、彼女はこちらをじいっと射抜く視線に少しだけ眉をひそめた。


「…あの…?」

「…イーリス・ルクス・ラハルーチェ。初めまして。ねえ、僕と結婚してよ。必ず皇帝になるからさ」


にこ、とわらってこちらに手を差し出してくる彼に、ルナはぱちりと瞬きをした。こちらを見てくる紫と白の瞳に、彼女は先程と同じような違和感に襲われる。


「……お戯れを」


それでも、初対面で失礼なことを言われたのは事実だ。ただでさえつり上がった瞳に傾斜をかけて、彼女は冷たくそう言い放つ。ただでさえ勘違いされやすいこの悪人面だ、きっと彼もたじろぐだろう。それでも彼は、ルナの言葉に まるで泣きそうな顔で笑った。


「__うん、ごめん。ごめんね」


色の異なるふたつの瞳からぼろぼろと涙を零して、彼は笑った。何よりも幸せそうに素敵な笑みを浮かべて、笑ったのだった。














目の前で、何よりも愛しいひとが首を落とした。


最後に自分に手を伸ばして、綺麗な桃色の瞳を輝かせて。その鈴のなるような綺麗な声で、自分の名前を呼びかけて。そのまま首を切られて、彼女は呆気なく死んでしまった。


自分のために、あんなにも。何よりも強くて、賢くて、美しい自分の婚約者が。こんなにも呆気なく死んでしまった。


なんて愚かだったのだろう、なんと愚鈍だったのだろう。何もかもから逃げて、逃げて、周りの人間にどれだけ迷惑がかかろうが知らないふりをして。そうして逃げ続けてきたこの人生のうしろに隠れた、何人もの苦しみに気づきながらも、自分は見ないふりをした。


何も守ることができず、ただ目の前で死んだ愛する人を見て、ようやく気づいた。なにもかも遅すぎたのだ。全国から讃えられる優しさを誇るこの国を信じすぎた自分の愚かさに、ほとほと嫌気がさす。何年も近くに居たのに、その笑顔の裏に隠れたどす黒い感情に気が付かなかった自分自身に。


「…絶対に、死なせない」


10歳程だろうか。子供特有の吸い付くような頬に手を添えて、柔らかな髪の毛を梳いて。鏡の前で佇むちいさな子供とじっと目を合わせ、イーリスはふう、と息を吐く。父と弟と同じ、紫色のふたつの瞳は そのうちのひとつがすっかり色が抜けてしまった。先程医者を呼ぶと騒がれたけれども、時が戻った代償のようなものなのだろう。それよりも今は、記憶の中に残る ルナを殺した人間を必ず葬り去ると決めたのだ。


ルナだけじゃない。父を、愛する国民たちを殺した、あの人間を。その為には、今迄のように逃げてばかりの人生ではだめだ。剣も知識も全てを完璧に身につけて、来たるあの日に備えなければならない。


王の座が欲しいのなら、喜んで差し出そう。第一王子という立場が欲しいのなら、入れ替わったっていい。そもそも自分自身を疎んでいるのなら、ルナと共に隣国へ逃亡したっていい。そう思えるほどに愛していたのだ。どれだけ酷いことをされても、心から憎むなんてことができるはずもない。


「__解決するんだ。ぜんぶ、ぼくひとりで」


なにか理由があるに違いない。だって、あの子は何よりも優しくて、賢くて。兄思いの素敵な子なのだ。あの子がなんの理由もなく、あんなに大勢の人間を殺すだなんて、そんな恐ろしいことをするはずがない。


脳裏に浮かぶ襲撃犯__フォンセ・ルクス・ラハルーチェがルナの首を落とすその瞬間が、未だ彼の脳裏に焼き付いていた。

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