2人の距離は縮まらない
「あれ。叶夜ちゃん怪我したの?」
「えっ、大丈夫?」
私と雪兎。二人が上げた声に、叶夜ちゃんは「はい」と頷いた。
「えっと。その」
「俺のせいでちょっとね」
申し訳なさそうに俯く叶夜ちゃんの声を、巳山先輩は優しく遮る。
それから空いてる手の人差し指をそっと口に当てて、いたずらを隠すような顔をした。
「峰くん。狗神起こすなよ?」
「うん」
素直に頷いた雪兎に頷き返し、包帯をテープで留めた先輩は「はいできた」と叶夜ちゃんを立たせ、救急箱を片付ける。
「歩いても大丈夫?」
叶夜ちゃんは確かめるように足首を動かして、こくりと頷いた。
「少し、捻っただけなので。無理をしなければ問題ない、と思います」
「湿布も念のためだしね。痛みも引いてるようだから、大丈夫だと思うよ」
先輩もそう言ってるし、何より怪我した本人が大丈夫と言うなら安心。とはいえ、やっぱり心配なものは心配だ。
「痛かったら教えてね」
手伝えることがあるならやるよ、と言うと、叶夜ちゃんは「ありがとうございます」とふんわり笑い返してくれた。
部室に戻り、席に着く。
「先輩先輩。未来ちゃんなんで怪我したの?」
職員室危なかった? と、雪兎が救急箱を片付け終えた先輩に問いかけていた。
ちょっと声が控えめなのは、狗神先輩を起こさないようにだろう。
私も状況は気になるから、席に着いたまま話に参加する。
「室内は安全だったんだけど、手前の廊下に溝があってさ」
片足ハマるくらいの。と手でノートくらいの幅を示す。
「そこに未来ちゃんが?」
「いや、ハマったのは俺だったんだけどな。咄嗟に足を引いたらバランス崩しちゃって」
いやー。危なかったよ。と先輩は苦笑いする。
「あれ、結構深めだったし、落ちてたら多分片脚やられてたな」
「え。溝なのにですか?」
巳山先輩は一瞬不思議そうな顔をしたけど、すぐに「ああ、そっか」と、何か納得したように頷いた。
「えっと。セキュリティが強化されてるって話はしたよね」
「はい」
「セキュリティ、ってまとめて便利な言い方したけど、実際はそれじゃ済まないこともあるんだ」
「……?」
首を傾げる。先輩の言ってることがよくわからない。
「ぶっちゃけトラップだったりすることもある」
「トラップ」
「そう。落とし穴だったり、上から何か降ってきたりはかわいい方かな。センサーに引っかかったら、薬仕込んだ針とかレーザーが飛んでくることもある」
「……学校なのに、ですか?」
「そう。学校なのに」
困るよな、と先輩は苦笑いしてたけど。笑ってられるものじゃないというのは、その言葉に混ざったため息で分かった。
さっき見てきたばかりの校内が思い出される。
あの中にもあったのだろうか。一歩間違えれば怪我とかしてたんだろうか。いや、怪我じゃ済まないこともあるんだろう。
胸のあたりがなんだか息苦しい気がして、きゅっと胸元を摑む。と、叶夜ちゃんが「大丈夫ですか?」と覗き込むように声をかけてくれた。
ああ、心配かけちゃったなと反省する。この事態に怯えてばっかじゃいけないんだ。と肩の力を抜く。
「叶ちゃんはね。そういうのを見つけたり、気付いたりするのがすごく上手いんだ」
彼女の“特性”だね。と、先輩は軽く付け足す。
「だから、新しい場所にはよく付いてきてもらうんだけど、今日は俺が――」
先輩の言葉がピタリと止まった。
どうしたんだろう、と思った瞬間。
「どうした百瀬。話、続けていいぞ」
狗神先輩の声がした。
寝てると思ってた先輩が、いつの間にかロッカールームの入口に立っていた。
ヘッドホンを首元に下ろした先輩の視線がこっちを向く。
目は少し笑っているような気がするけど。口は結ばれてるし、視線は直視できない。思わず目をそらした。
「いや。これで終わりなんだけどね?」
「そうか」
狗神先輩は自分の席について、改めて巳山先輩の方を見た。その目はなんか呆れてるみたいだし、話をさっきので終わらせるつもりはなさそうに見えた。
「で。お前がトラップにかかって?」
「叶ちゃんに怪我させましたごめんなさい」
「……叶夜」
巳山先輩には何も答えず、狗神先輩は叶夜ちゃんを呼んだ。
心なしか、声が低い。
「はい……っ」
呼ばれた叶夜ちゃんはというと、背をぴっと伸ばしていた。
表情がとても硬い。涙目だ。これは怖がっている。
どうしたらいいんだろうと雪兎を見てみる。「あー……」と聞こえてきそうな苦笑いをしていた。
牛若君も表情は普段通りだったけど、何も言うまい、みたいな目だ。
つまり。私達は見守るしかない。
「あのっ。足は。大丈夫です……歩けますし、痛みも」
言葉の途中で先輩がため息をついた。
叶夜ちゃんの声が止まる。一瞬だけど呼吸も止まった気がした。胸元で握られた手にぎゅっと力が入るのが分かった。
何を言われるんだろう、という不安が隣から伝わってくる。私も一緒にドキドキしながら次の言葉を待つ。
先輩は目を伏せ、ため息をついた。
「痛みは少ないんだろ。なら、そこは別にいい」
「はい」
「自分の役割を自覚しろ。それを全うしろ。後悔しないよう動け。いつも言ってるよな」
「はい……」
「どうせ、百瀬が確認怠って動いたのに声をかけるのためらったんだろ? 百瀬なんだから足払いかけても怒らねえだろ」
「叶ちゃんの足払い」
「うるさいぞ百瀬。いいな、叶夜」
「……はい」
しょんぼりとした返事に、狗神先輩は苛立ったように息をついて。
「あと、痛みはなくても動くな。悪化して他を巻き込んだら目も当てられねえ。今日明日は子津の後ろにでもくっついてろ」
そう言って私を視線で指した。
「へ。私ですか?」
なんでだろう、と聞き返しても先輩は頬杖をついただけで、何も答えてくれなかった。
代わりのように巳山先輩が「そうだね」と続いた。
「子津ちゃんはまだ事情も分かってないところあるしね。ホントは俺が付いてあげられたらいいんだけど。叶ちゃん、フォロー頼んだよ」
「は、はい」
「ってことでいいか? 狗神?」
狗神先輩の返事は「お前が判断をミスるからだろうが」という一言だった。
□ ■ □
放課後の情報共有をして、今日は部室で夕飯を食べようということになった。
こういう風に集まって食事を囲んでも、出てくる話題は学校のことだ。
外に出られないから当たり前ではあるんだけど。
でも、暗い話ばかりではなくて。
「狗神がこの間俺の部屋に泊まりにきてさ」
「えっ、先輩達お泊まり会? いいなあ」
「よくねえ。充電器が死んだんだよ」
「つぅちゃんも起きたし、またみんなで天体観測したいなあ」
「……雪兎が全員叩き起こしたやつか」
「あはは、あれは眠かったな」
「だって、見回りしてたら星が綺麗だったんだよ」
「そういえば売店っていつも開いてるの?」
「7時半に開いて7時に閉まるけど、基本的には開いてるよ」
「そうなんだ。……品切れとかしないの?」
「品数はだいぶ減ってるから、時々あるけど。気付いたら補充されてるかな」
「食事は、ちゃんと確保されてるみたいです」
「へえ……」
なんてことない話をしながら、食事をするのはとても楽しかった。
自分が置かれた状況も少しだけど忘れて話してたら、いつの間にか放課後終了のチャイムが鳴る時間。
それじゃあここでみんなで寮に帰ろう――とはならなかった。
「それじゃあ先輩。あとはよろしくお願いします」
「ん」
牛若君の声に応えた先輩二人。巳山先輩は私達と同じように入口まで来たけど、狗神先輩は見送るように視線を向けただけだった。
「あれ。先輩は部屋に戻らないんですか?」
「ああ、うん。今日は夜当番なんだ」
夜当番。と繰り返す。
そういえば昼間もその名前を聞いた。
何をするのかは分からないけど、私が知らないだけで色々やることがあるのかもしれない。
ふと、昼間に眠ってた狗神先輩の姿を思い出す。
そうだ。牛若君と狗神先輩は仮眠を取っていて。って、あれ? つまり先輩は昨日も夜当番だったってこと? 2日連続で徹夜は結構辛いのでは?
むむ、と考えてるついついと袖を引かれた。雪兎だ。
「どうしたの?」
「いや。夜もやることあるんだなあって」
「そうだね。やることは少ないんだけど、何かあるといけないから念のためね。それで、交代で寝るの」
でも、と雪兎が続ける。
「女子は未来ちゃんしか居なかったから、4人で回してたんだ」
「あー……なるほど」
叶夜ちゃんを夜当番にひとり放り込む組み合わせを考える。
危ない。色々と。私だったら許可しない。うん。
「うん。まあ。私ならまだしも叶夜ちゃんはねえ」
「あはは、つぅちゃんでもひとりはダメだよ」
「ダメかあ」
ダメだねえ、と雪兎は笑った。
「でも、女子2人になったから先輩達も考えてくれてると思うよ。だからさ、眠れる時にいっぱい寝とこう」
「うん。そうだね」
「と、いうわけでお疲れ様でしたー。先輩、また明日」
「うん。また明日」
□ ■ □
とっぷりと日が落ちた道を4人で歩く。
街頭に照らされた渡り廊下は、冷たい空気が時折拭き過ぎていく。
「ところでさ、雪兎」
「なに?」
ちょっと気になったことがあって、私は雪兎に聞いてみることにした。
「狗神先輩って、目を覚ましてそんなに経ってないの?」
「狗神先輩?」
もし、狗神先輩が目を覚ましたのが最近なら、叶夜ちゃんとの関係もまあ納得かなと思ったんだけど。
「うーん? そうでもないよ?」
雪兎の返事は期待とは違った。
「そうなんだ?」
「狗神先輩は僕と同じくらい。未来ちゃんはそこから1年くらい経ってて……何月だっけ?」
「あ、えっと。6月、です」
話を振られた叶夜ちゃんが答えてくれる。
むしろ狗神先輩の方が早かった。
つまり。叶夜ちゃんが目覚めてからだとしても、半年くらいこんな感じらしい。
「いや、お昼前に叶夜ちゃんと話してたこと思い出して。狗神先輩はずっとあんな感じなの?」
雪兎は「ああ」と呟いた。分かってくれたようだ。話が早い。
「うん。先輩ずっとあんな感じかな。だよね。歩君」
「そうだね。あんな感じ。元からああだと思ってたんだけど、違うの?」
「んー。ちょっと違ったかなあ」
雪兎も過去の関係については明言を避けるつもりらしい。ふんわりとした答えに、牛若君は「そうなんだ?」と不思議そうな顔をした。
二人の問題だからあんまり気にしない方がいいんだろうけど。と考えてると、雪兎が何かを思い出したように「ふふっ」と笑った。
「雪兎? どうしたの?」
「ん? 未来ちゃんと狗神先輩は仲良くなれるはずだから、早くそうなるといいのにな、って思って」
「仲良く、なれますか……?」
叶夜ちゃんが、不安げに雪兎を見上げ。
「うん、なれるよ」
雪兎はすっぱりと肯定を返した。
「狗神先輩、あんな態度だけどね。未来ちゃんのことすごく気にかけてるの、見て分かるもん」
やっぱり見て分かるよねそうだよね。と、目を伏せて心の中で頷く。
「未来ちゃん。先輩の方、怖くてあんまり見れてないでしょ」
「……はい」
「だよねえ。そこがこう、二人のすれ違いって感じ」
雪兎は空を見上げて、大仰にため息をつく。白く煙った息が、澄んだ空に霧散する。
「先輩がどうしてあんな感じなのは分かんないけど、あんまり近付き過ぎないようにしてると思うんだよね」
「ああ、叶夜さんが落ち込んでる時に、慰める役をさりげなく他の人に任せて、自分は距離取ってるなって思ったことがあるなあ」
牛若くんも雪兎の言葉に同調する。
「つまり、あの距離感は意図的、ってこと?」
「多分そう」
牛若君が頷く。
「叶夜さんの特性も考慮してるんだと思うよ」
「そうだね。未来ちゃんの特性があるから近付かない。自分が怖がらせてるのも分かってる。先輩が怒ってるように見えるなら、この辺かも」
なるほど。狗神先輩は、叶夜ちゃんが怖がる原因が自分自身であることに気付いた上であの態度を取っている。
それはつまり、先輩から距離を縮めるということはあんまり期待できないということだ。
雪兎を見ると、私の考えを読んだように頷いた。
「うーん。それは……」
前途がずいぶん多難だな、という言葉は飲み込んだ。
「未来ちゃんはどう? 狗神先輩と仲良くしたい?」
「え……その」
雪兎の問いかけに、叶夜ちゃんはもじもじと毛先を少し弄って。
「できれば。仲良くできると……嬉しい、です」
暗くて顔色はよく見えないけど、少し力強い声で頷いた。
その答えを聞いて、3人で視線を交わし、頷いた。
「よし、じゃあ頑張ろう。未来ちゃん」
「私達も手伝うよ」
「がんばって、叶夜さん」
「えっ。は、はい……」
三人は頑張ってほしいと思っている。