猫をみつけて
「……」
目を覚ました。
いつの間にか泣き疲れて寝てたらしい。
そこから動く気力がなくて、ぼんやりと時間が過ぎる音を聞く。
本の内容が受け止めきれないし、頭が理解を拒否する。なのに、あれはなんだったのかと考えてしまう。
しばらくぐるぐると考えてると、「ああ、明日がくる」ってなんとなく思った。
それなら制服を整えておこう、と。ふらふらした頭のまま、身体を起こした。
時計を見ると日付が変わっていた。テレビをつけようとしたけどリモコンがない。探さなきゃと思うけど、やる気が出ない。
シャワーでも浴びたら少しはすっきりするかな。いや。とりあえずは制服をハンガーにかけよう。明日シワになった制服で先輩に会うのはちょっと嫌だ。どうでもいい心配だけど、そんなことでも考えてないと気が滅入る。
ベッドの端に放り投げてたジャケットを引き寄せると、ポケットから、白い何かがはみ出ていた。
「?」
それは、丁寧に畳まれたメモ用紙だった。こんな紙を持ってた覚えはない。
なんだろうこれ。と、力の入らない指で広げてみる。
「猫をみつけて」
手のひらサイズの小さな紙には、パソコンで出力されたらしい無機質な文字で、それだけ書いてあった。
「猫……」
巳山先輩が話していた猫だ。
運営を乗っ取り、この学校を隔離し、私達を殺そうとしてるという猫。
「でも、みつけて、って?」
それは、どういう意味だろう?
意図も何もわからない。今の私には、なんの判断もできない。
だって、私は何も知らない。話を聞いて、ファイルを読んだ。それだけだ。この学校の。私たちを取り巻く状況を知らない。見ていない。
なのに。みつけて、だなんて。
この差出人が猫だとしたら。
この状況を作ったのは自分のはずだ。なんでそんなことを言うんだろう。
そもそも、どうしてこんなことになってるんだろう。
なんで。
「なんで、私達なんだろう……」
くしゃ、と手の中の紙が音を立てた。
私に分かることは、とても少ない。
私ができることも、きっと今はない。
ただ寝て、明日を待つだけだ。
だから。明日。
先輩に相談してみよう。
□ ■ □
朝。
もそりと布団から這い出す。
正直寝た気はしなかった。目を閉じるとファイルの内容が浮かんできて目が覚める。眠ったとしても夢に出てきそうだったし、暗闇を見つめているとそれはそれで思い出しそうで、灯りを消すこともできなかった。
メッセージを送るにも夜はもう深くて。アプリのチェックをしながら気を紛らわして。ようやくの朝。
身体は重く、頭は変に冴えている。
これ以上眠れる気もしなくて、のろのろと身支度を整える。
時計はまだ早朝だぞと主張してるけど、私は部室へと向かうことにした。
昨日ような獣がでたらどうしようという心配もある。それ以上に、誰かがいると分かってる場所に行きたかった。
今の私には、そこだけが安心できる場所のように思えたから。
□ ■ □
「おはよう、ございます……」
朝の部室はとても静かで暖かかった。
たまたま朝早く到着した教室のように、誰も居なくて、明るくて、でも、静かなのが不思議な部屋。
私はそのまま昨日座っていた椅子に腰掛ける。鞄を床に置いて、ぼんやりと部屋を見回す。
暖房が動いている。先に誰か来たんだろうか?
ホワイトボードには、昨日の説明の跡が残っている。
学校の説明図の跡。時間割が映し出されていた場所。
消されずに並んだ名前。6人分。
「みんな……死んじゃった……」
ぽつり。と口にしてみる。実感はない。
だって、私は目を覚ましてから、線で消されてしまった人達に会ってない。
昨日とか一昨日とかは生きていたはずだ。教室で、部室で、学校のどこかで。話して、挨拶して、すれ違っていたはずだ。なのに、もう居ないだなんて信じられる訳がなかった。
巳山先輩はそんな冗談を言う人じゃない。それは分かってるんだけど。
校内を。寮を。敷地内を。どこかを歩いてたら、見かけたり会えたりするに違いない。なんて。根拠もなにもない希望を、私はまだ捨てきれずにいる。
ホワイトボードをぼんやりと眺めていると、ドアが開いた。
「あれ、子津ちゃん。早いね。ひとり?」
「巳山、先輩」
おはようございます、と頭を下げると先輩はすぐ近くまで寄ってきて、じいっと私の顔を覗き込んできた。
その視線があまりに真っ直ぐで、動いてはいけないような気がする。呼吸まで止まりそうなのに、顔ちゃんと洗ってきたよね……なんて、正直どうでもいい不安も湧いてくる。
「あ、あの」
「目が赤い」
「えっ」
思わず指先で目頭を押さえる。でも、先輩はそれを笑ったりせず、ただ一言「眠れなかった?」とだけ聞いてきた。
「はい……実は、あんまり」
「それは。あれを読んだからかな」
「…………はい」
こくりと頷く。あのファイルの中身は、思い出したくないのに鮮やかに蘇ってくる。
「ん。ちゃんと読んできたんだね。えらいぞ。――それで、どうだった?」
「どう……」
どう、と言われてもすぐに答えられなかった。
先輩もそれは分かってるんだろう。
「無理に答えなくて良いよ。その感情は覚えといて。とりあえず、あったかいもの飲みな」
緑茶でいい? という先輩の言葉に頷く。
私が淹れます、と言おうとしたけど、先輩は「そこで待ってな」と手を振って、給湯室へ入って行ってしまった。
「先輩」
給湯室でお湯を注ぐ先輩に声をかける。
「うん?」
「いくつか、質問があるんですけど」
「うん。何?」
先輩の返事は昨日と何も変わらない。私にとって変化が大きかった昨日でも、先輩にとっては変わらない一日なんだろう。
「あれは、本当……なんですか?」
「あれ、って。ファイルの内容?」
「はい」
「んー。どうだろうな」
「えっ」
思った以上にふわっとした回答に戸惑っていると、先輩はマグカップを私の前にそっと置いた。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
ほこほこと湯気が上がっている薄緑色の水面が、ひどく暖かいものに見えた。
「俺達に、あれが真実かどうかを知る術はないんだけど」
先輩も昨日と同じ椅子に座る。
「俺達に記憶がないのは確かで、それを補足するようなことがあのファイルには書いてある。子津ちゃんのにもなかった? 自分しか知らないような情報とかさ」
自分しか知らないような情報。
その一言で頬がかあっと熱くなる。
「書いて、ありました」
「うん。そんな風に、ちょっとした事だけど、その人には事実だと分かるような情報が書かれてる。だから、俺達はその内容を真実だと……信じたい所だけでも良いけど、真実だと認めてる」
「……はい」
「うんうん。子津ちゃんは聞き分けがよろしい」
先輩は機嫌良く頷いて、お茶を一口すする。
「それから因子とか特性とかも、なんとなく分かった?」
「いえ……それはちょっと……」
理解が追いつかなかったというか、分かってしまうのが怖いというか。
曖昧に首を横に振ると、先輩は「そうだよな」と息をついた。
「簡単に言えばその動物の要素かな。それが俺達には埋め込まれていて、その因子によって引き起こされる能力を”特性”と呼ぶ。うまく使えば強力だけど、危険性もある。んー。意図的に見せられないものもあるけど。例えば――昨日の若くん。見ただろ?」
「はい」
ノートのページを破るように背もたれを引きちぎったのを思い出す。
「あんな能力は分かりやすいね。それから、俺の目もそう」
そう言って先輩は自分の方を見るように促す。
昨日のような冷たい目の緊張と、目を合わせるという状況にドキドキしながら、そっと見てみる。
少し切長な赤茶色の瞳。冷たくない。少しほっとする。
前と同じに見えるけど。
「瞳孔の形がな。ちょっと違うんだ」
「ああ……そう、ですね」
確かに瞳孔は縦長だ。あんなに先輩の視線で固まってたのにそこに気付かないなんて、どれだけ直視できてなかったんだろう私。ちょっと反省をする。
「見て分かるものだとこんな感じ」
「見えないものもあるんですか?」
「うん。身体の一部を自分の意思で変化させたり、直感とか感覚的なものだったり、味覚だったり。見た目からじゃ分かんない物の方が多いかもな」
「……私にも、そんなのが?」
「うん。多分ある」
そっかあ。と考える。
特にこれと言って変わったものはないように思えるけど。どうなんだろうと、ファイルの最後にあった一覧を思い出す。
「あ」
「うん?」
「あの、特性の一覧ってあるじゃないですか」
「あるね。諺みたいなのがあった?」
「それもあったんですけど、最後が黒く塗りつぶされてて」
「塗りつぶされてる……?」
先輩の声が少し変わった。視線の温度が少し下がったような気がする。
「ファイル、持ってきてる?」
「はい」
鞄から取り出し、そのページを開いて見せる。
「読めないな」
「そうなんです。塗った後にコピーしてあるみたいで」
「そうか……」
ふむ。と先輩は少し考えてるようだったけど、小さく首を横に降った。
「そんな例は聞いたことないな。猫にとって都合が悪い物なのかもしれないけど
今は情報がない、と先輩はファイルを閉じ、カップに口をつけた。
「調査対象に入れとこう」
「はい」
やっぱり分からないよね。と、カップを持つ手をじっと見ていると、先輩が何かを思い出したような声をあげた。
「ああそうだ」
「?」
「昨日は3人で帰したから言い忘れてたんだけど。明日からは誰かと来るようにしてね」
「ああ……はい」
「夜も基本的には出歩かないように。最近はだいぶ良くなったし、寮とか売店くらいならある程度安全なんだけど、他は分かんないから。慣れないうちは、ひとりは極力避けたほうがいい」
「はい」
「もし、夜眠れなかったら、誰かの部屋に泊まってもいいと思う。昼間なら部室で寝ててもいいよ。一応仮眠室もあるけど」
誰か傍に居た方が安心かな、と先輩は切れ長の目を柔らかく細めて笑い――はたと何かに気付いたような顔になった。
「でもアレか。あまり知らない人が居ると逆に眠れない?」
「あ。ああ……」
確かに先輩達の前だと緊張して眠れないような気がした。
というか、巳山先輩に寝姿を晒すとか、ちょっと勇気がないどころか無理だよ無理。寝不足を見つけられたのだって不可抗力とはいえ不本意なのだ。
「そうだな。叶ちゃんとか峰くんなら安心?」
「そうですね。その二人なら、たぶん」
「じゃ、眠いかもしれないけど、二人が来るまでもう少し我慢してな」
「はい」
「それまで眠気覚まし代わりに少し話をするか。何でも良いけど……えーっと」
先輩は背もたれに体重を預け、腕を組んで天井を見上げる。話題を考えているらしく、とん、とん、と指先が腕を叩いている。
昔。実感はちっともないけど、昔に。先輩は委員会で一緒だった時も、こんな風に話題を考えてくれたことがあったのを思い出す。
記憶にある自分は今の自分と違うんだって言ってたけど、やっぱり先輩は変わらないんだな。と、少し安心する。
皆がくるまで雑談に花を咲かせたくはあったけど、先輩と話すべきことは他にもある。
「――あんまり」
「うん?」
「あんまり、楽しい話題じゃないですけど、いいですか?」
「うん。いいよ」
何? と腕を解いて頷いてくれる。
私はポケットから取り出した紙を先輩に差し出した。
「これ、私のポケットに入ってたんです」
「メモ?」
「多分。いつから入ってたのかは、分からないんですけど」
先輩は紙を受け取って、ぺらりと開く。
さっきまで穏やかに笑ってた切れ長の目が、すうっと鋭さを増した。
「――猫を、みつけて?」
「はい」
他の人も持ってるのかと思ったけど、この反応を見るにそうじゃないらしい。
「これまた直球な……、なんだろうな。挑戦状?」
うーん、と先輩は天井を仰ぐ。
「見つからない自信があるのか、それともそうせざるを得ない理由があるのか……どれにせよ、これだけじゃ真意がわからないな」
「そうなんですよね」
先輩はそのままの姿勢で考え込んでいるようだった。受け取った紙がぴこぴこと揺れている。
しばらくして。ふと、その視線が降りてきた。
「ねえ子津ちゃん。これ、皆に見せてみても?」
「あ。はい。いいです、けど」
私は少しだけ言い淀む。
「その。それは――大丈夫、なんですか?」
先輩はうん? と少し不思議そうな顔をして、すぐに「ああ」と気付いたように頷き、笑った。
「子津ちゃんは優しいね」
私が気にしているのは、ひとつの可能性だった。
みんなが持ってる物じゃないのならば、これは私に宛てて意図的に渡された物だ。
昨日、起きてからこの紙を見つけるまで。会った人は少ない。
ポケットに最初から入っていたのでなければ。
そんなことができるのは、この部の人達しかいない。
つまり。
この中に。部員の中に「猫」が居るという可能性があるってことで。
そしてそれは、先輩も気付いている。
猫か関係者か分からないけど、この中にいる。