八
その後、桃太郎が山へ戻ることはなかった。そして戻らないまま年月が過ぎた。山の中では媼が一人、暮らしていた。一人になった媼はもう、村へ下りることもなくなっていた。それまで暮らしてきたのと同じ暮らしを、媼は繰り返した。自分以外の人間との一切の接触を持たず、それまでずっとそうしてきたのと同じ生活を、そこに暮らすものが自分一人であるということのみを新たな点として、変わらずに送っているのだった。
そうして何年も経った。経過した時間を媼は数えなかった。しかし、ある時不意に、媼のもとへ一人の人間が訪ねて来たのだった。
それは梅雨のことだった。その日、何日も続いていた雨は明け方に止み、空はその青がどれ程濃く、どれ程鮮やかであったかを、地上のものたちに思い出させていた。久しく姿を見せていなかった太陽が、濡れた草木と地面とに光を浴びせかけていた。木々や草の葉はそれらを照らす光を遮る雲がなくなったことで、にわかに本当の緑を取り戻していた。それらの大部分がまだ纏っている水のしずくが、葉の曲面の上を滑走するそのたびに発せられる、そうして瞬くことを役目としてこの世に存在しているかのような光の無数のきらめきの中を、対照的に暗くなっている木々の間から、その人物は姿を現したのだった。まだかなり若く、ほとんど少年のようなその来訪者は、「やあ、本当にあった。」と言い、媼の姿を認めると「なるほど、あなたが。そしてここが。」と、さも嬉しそうに納得を示した。
「私の名は彦三郎といいます。私は須羽の国の兵です。この場所も今は須羽の国に含まれるはずですが、徴税はどうしているのだろう。」
媼には彦三郎の言ったことの意味は分からなかった。媼は、目の当たりにしている事実、自分以外の人間がそこにいるというただそれだけの事実が与える衝撃から、まだ脱することが出来ないのだった。あまりにも若く見えるこの彦三郎の、もし年齢が見た目の通りであるならば不釣合いなその言葉遣いも、柔らかく落ち着いたその態度も、媼の注意を惹くことはなかった。注意する余裕を、媼は持たなかった。
「ああそれよりも、キジという男を覚えていますか。私はキジに言われて来たのです。キジが私にこの場所を教えました。私は、桃太郎のもとにいました。桃太郎は、死にました。私はそれを伝えにここへ来たのです。」
彦三郎には、媼の理解に歩調を合わせようという様子はなかった。その主が未だ当惑のさなかにあるのをよそに、家へと上がり、かえって彦三郎の方が媼に座るようにと促すのだった。
「今でこそ須羽の国で兵として生きていますが、私は元々はこのふもとの村の出で、家は百姓でした。桃太郎と出会ったのは私がまだ小さい頃、村にいた時のことです。戦に行った父が骸となって帰って来て、そこに偶然居合わせただけのキジと桃太郎が父の弔いをしてくれた。それが私の桃太郎との出会いでした。」
好き勝手に彦三郎は話を始めた。そこに語られたのは桃太郎の、媼が最後にその姿を見た日から今日までの、彦三郎の言及したところの最期それに至るまでの、日々のことであった。
「キジから聞いたところでは、桃太郎は初めての戦いのためにここを出て行った時から、ここへは戻っていないそうですね。あの日、桃太郎たちはふもとの村から町へと入り、そこにいた鬼首の手下を排除すると、この里を須羽の国へと加えました。この時にもう一人、山居という人間を殺したのですが、これは桃太郎がその役を担ったそうです。初手柄、ということですね。
キジはその後も続けて、この辺りの里を順に、次々と制圧していきました。最初の里こそ少人数での行動としていましたが、キジは実は初めから、本国の軍を呼んで控えさせていたのです。最初に落とした里が入り口となって、この軍が導き入れられました。初めて目にする大規模な、戦闘を専門とする集団を前に、以降どの里においても抵抗は見られませんでした。それには、最初の里で討ち取った二人の人間の首も役に立ちました。抵抗するもの、将来の平和に仇なすものには容赦をしないが、そうではないものをむやみに脅かしはしないのだというはっきりとした態度が、相手にもまた即座の、はっきりとした決断を促したのでしょう。それぞれの里には鬼首の手下が配置されていましたが、いずれもすぐに降伏するか、さもなくばすでに逃げ去った後でした。そしてどうやら勝ち目がないということが分かると、鬼首自身も手下と共に逃亡して、どこかへと身を隠してしまいました。
こうして、鬼首の支配の及んでいた全ての地域が、須羽の国へと併合されたのです。そこに住まうものたちにとって、これはもちろん平和の訪れを意味するのですが、実際にはこれからのことが大切で、須羽の国の役人を配置したり、税を改め、鬼首のずさんな統治で傷付いた村々の力を回復しなければいけませんし、今後の脅威に備えて兵力を整えておく必要もあるのです。今や、世に国というのは須羽の国だけではないのです。須羽の国の末端はすでにほかの国のそれと接してしまっています。ある国の輪郭は隣合う国との境となっていて、もはやどこの国にも属さない土地はどこにもないのです。そしてそれぞれの国が今ある姿に満足し続けるという保証はありませんから、誰かがこの境を踏み越えて来るということを、いつでも念頭に置いておかなければいけないのです。現に、規模の大小はあれど戦いは常に至るところで起こっています。その中を桃太郎は戦い続け、生き残り続けていました。それはすなわち勝ち続けてきたということです。やがて桃太郎は、若いながらにその強さと戦場での活躍によって、自分の隊を持ちそれを率いるまでになったのです。
ここまでが、キジやほかの人間から私が聞いた、桃太郎の、戦いの中で過ごした最初の日々のことです。私が彼に再会した時には、彼はすでに兵を率いる立場にありました。」
彦三郎が語るのを、媼はただ黙って聞いていた。ほとんどうずくまっているような格好で頭を垂れ背を丸めている媼の姿を、彦三郎は目で見てはいてもほとんど意識していなかった。聞き手の理解など考慮せず、単に発語することのみを目的に話しているかのように、彦三郎は雄弁を振るい続けた。
「私が兵となったのはキジの手引きがあったからでした。そうでなければ、私は今も村にいて百姓として暮らしていたはずです。キジは、今でもそうですが、常に方々を忙しく飛び回っていて、近くへ来た時には必ず私のところを訪ねて来るのでした。私はキジから、戦のことや桃太郎の隊のことを話に聞きました。剣術の稽古をつけてもらったこともあります。もちろん、遊びのようなものでしたが。キジが私にそのつもりがあるかと聞いた時、私は自分の中に、桃太郎に対する恩や憧れのようなものを感じていましたし、村にいても暮らしの良くなる見込みはありませんでした。それで私はすぐに、兵となることを決めたのです。と言ってもあまりに年の若い私は戦に出ることは出来ず、いつも留守番で、見習いのような、雑用のような形で隊に入ったのです。隊のものは皆よくしてくれて、私のことを『彦猿』とか、単に『サル』とか呼んで可愛がってくれました。ここの兵たちは皆、その境遇に似通ったものを持っていました。戦によって何かを失っている。そして桃太郎を慕っている。実際、自身が戦で傷付いた過去を持ち、戦で傷付いたもののために戦おうとしている桃太郎は、私たちにとって英雄的な存在でした。その名声は須羽の国の中だけではなく敵対する勢力のもとまで轟いていました。
私は最初からあだ名で呼ばれていて、そのためか桃太郎は初め、私に気が付いていませんでした。しかし私は桃太郎に、私があの時の少年であるということを知って欲しかった。なので機会を待って、自分から名乗り出たのです。私が、自分がその父親を埋葬したあの子供であるということ、あの彦三郎だということを知って、桃太郎はとても驚いたようでした。私はもっと、喜びのような反応を期待していたのですが、桃太郎のあれは、意外のような、何かに打たれたような、とにかく、驚いていました。
それからすぐ、鬼首の残党を狩るために桃太郎たちは出かけていきました。そしてこの戦いで桃太郎は命を落としたのです。私は戦いについて行くことを許されなかったので、そのことは後から聞かされて知りました。桃太郎は狙われていたのです。敵は策を用い、桃太郎を孤立させて、少数になったところを一気に大勢で攻めました。味方が追いついた時にはもう、桃太郎は殺されてしまっていました。
味方はしかし、士気を落とすことも、怒りに我を忘れるようなこともありませんでした。悲しみも、怒りも、戦いが終わるまでは待たせておく。そうするすべを、桃太郎の兵は知っています。味方は敵を完全に殲滅しました。敵を指揮していたのはかなり若い男で、これがどうも、桃太郎が初めての戦いで討ち取った、あの山居の息子だったようです。人質に取られて鬼首のもとにいたのが、父親の死んだ後も敗走する鬼首と行動を共にしていたのです。そして鬼首の入れ知恵で、桃太郎を父の仇と恨んでいた。そして実際に桃太郎を討ち果たしてしまった。当の鬼首はと言えば、どうやら早々に姿をくらませたらしく残党の中にはいませんでした。」
多くのものがもたらされていた。彦三郎の話す内容は全て、媼が自力では決して知り得ないものばかりであった。それは遠い世界の情報だった。そしてこれらの情報のほぼ全てについて、その意味を解する能力を、媼は持ち合わせていなかった。彦三郎と媼。二人は、差し向いに座っていながら同時に、全く異なる場所にいた。二者を隔てている長大な距離は、二人の話す共通の言語によって埋まるものでもなかった。言葉は素通りしていった。言葉を放つ彦三郎も、取りこぼす媼も、それに気付くことはなかった。
「形見は隊の皆で分けて残りは亡きがらと一緒に埋めました。桃太郎の亡きがらは、私たちが暮らす町の戦死者のための墓地に葬られています。私たちにとっての帰る場所と、同胞たちの眠る場所とは一致している必要があるのです。ですが物や体よりもさらに重要なのは、桃太郎の魂は私たちと共にあるということです。私たちの中に桃太郎は生きている。これからも変わらず戦い続け、変わらずに桃太郎を慕うものであり続ける、私たちの中に。まだ何も終わっていない。終わらせなければいけない。鬼首は必ず討ちます。あの男の生を終わらせるものが、復讐以外の何かであるなど、許されない。」
語り終えると彦三郎は去って行った。媼は、家の裏手へと回った。そこは翁を埋葬した場所だった。墓標はなく、草で覆われた地面だけがあった。
もうすぐ、梅雨は終わるはずだった。晴れ間だった。空には太陽があった。その軌道の変遷が頂点に達するこの時期のほとんどを雨雲の向こうに姿を隠し過ごしている太陽が、今は自らが昇りつめた高みの程を、地上の全てに対して見せつけていた。梢を切り裂くようにして、真っ白な光線が地面にまともに突き刺さっていた。もうずいぶん前から青々としたもので辺りを塗りつぶしている草の葉が、その光沢のある表面に、日の光を白くぎらぎらと反射しては、あらゆる方向に向かって滅茶苦茶にばらまいていた。
雨雲が、地上を日が照らすのを妨げるためにどれ程の執拗さをもってしたところで、地上の生命の、すでに走り出してしまっている勢いを、止めることも減じさせることも結局は出来ないらしかった。全ては動いていた。立ち止まっているものは何もなかった。この地上にただあって、ただ生きる、ただそれだけのために、これらの生きているものの持つ力の、うねるような、爆発しそうな凄まじさに、まだ染まっていないような空白はもはやどこにも残っていなかった。何もかも、生きている何もかもが、その生きることの忙しさに追われ落ち着きがなかった。
その下に翁が眠っているはずの地表を埋め尽くしている草や虫たちは、どれ一つとして例外なく、今この瞬間を生きるという目標に突進するほかには何ら考慮するものを持っていないのだった。持てる力の全てを生きることのみに注ぐものの放つ鮮やかさと瑞々しさが、そのことを証明していた。
生きているものの存在と活動とが占拠する世界で、もう生きてはいない、すでに死んでしまっているものの存在を現在につなぐものは、それを忘れずにいる人間の記憶のほかには何もないのだった。
媼はそこへしゃがみ込むと言った。
「お爺さん。桃太郎が帰って来ましたよ。」
この場所で行われている、生命の、その力を思うまま振りかざす静かな喧騒の、その一部を成すもののように、媼のつぶやく声は周囲の空間へと溶けていった。(終)