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 実際にキジは、その後数日に渡って桃太郎の前から姿を消した。そしてもう山を訪れることもなかった。

 一日半かけて自分の里へ帰り、自らの仕えている主君にかかる状況の報告を行い、また一日半かけて戻って来たキジは今、秋に桃太郎が交換のために訪れていたあの町にいた。キジはこの町で、以前からここに潜伏している数人の仲間と接触した。これらの仲間には、キジの配下として長く付き従っているものもあれば、この町の元々の住人でキジの仲間に加わったものもあった。全員が、この町の生活に何らかの形で溶け込んでおり、何か任を受けて特別の動きをするのでなければ、その存在は町の住人そのものであった。これら仲間たちはキジとの接触ののちまた町の中へと散って行ったが、キジにはまだ、待たねばならない別の仲間との合流があった。そして待つ間に、里での主君とのやり取りをキジは思い出していた。


 主君。それはキジの故郷を含むその地方一帯の、全ての村や町を統べる支配者であった。名を志摩というこの男は、父親の代から二世代に渡って、その勢力の拡大を果たしてきた。それは現在もなお続いている。キジがその名によって動いているところの主、志摩とは、このような自らの支配の輪を押し拡げて止まない一個の野心的存在であった。キジが目下鬼首を討とうとしているその目的とはつまり、鬼首が手に入れたものの奪取、これであった。その首尾を、すなわち計画の実行を、キジは志摩に伝えた。

「長らくお待たせしました。手筈が整いました故、戻り次第、動きます。」

「そうか、ようやく始まるか。お前に限って間違いはないと信じているが、これだけ時間をかけたのだ、しっかりとな。」

 いかにも満足そうな様子で志摩は言った。そしてその満足そうな様子のまま、こう続けた。

「お前のことだ、一たび行動に移れば必ず成功させるものと、わしは思っている。思っているからこそ言うのだが、キジよ、今回のこと、慎重を期すためとは言え、時間をかけ過ぎたのではないか。ここの兵を動かして、さっさと潰してしまうことも出来ただろうに。鬼首など、調子付いてはいてもその兵は所詮、有象無象。そうであろう。」

「いえ、これだけの用意は必要でした。私は今回のことを極力、無血で為したい。強大な武力は不要です。仰る通り、鬼首の兵の力など問題にはならない。問題なのは鬼首の、ただ私欲を満たすだけが望みのあの男の、炎のような横暴が、あの地で生み出されていたはずの実りを片っ端から灰に変えていることです。ただでさえ貧しかったあの地を、今や死期を早められ、未来を待たずに最後の一滴を搾り取られようとしているあの地を、鬼首の手中から奪うことで私が我が主に差し出すことが出来る利とはどんなものか。町にいる一部の人間、自分たちの支配者が誰なのかを知っている人間たちにとって、我が主が第二の支配者ではなく救済者となることが、また自分たちを翻弄している運命について何一つ知らないでいる百姓たちにとって、我が主が最初の侵略者ではなく庇護者となることが、あの地を得ることの利を大きくするその程度とはどれだけなのか。私はいつも、遣いに行った先から出来るだけ大きな土産を主のために持ち帰りたい。ただ成功させるのではなく、得られる成果を最大のものとするために、これだけの用意が必要だったのです。」

 ずっと例の満足を絶やさずに聞いていた志摩だったが、もはやそれを顔面にたたえるだけでは足りず、「うふふ」という笑い声を口から漏らした。そして言った。

「どうやら、全く無用の口出しであった。ただ黙って果報を待つことが、わしのすべきことのようだ。」

「信頼には働きをもって、必ずや。」


 志摩が二十年も前に支配圏に加えたある里に、甘んじて支配下に置かれるよりも、むしろ進んで、突如現れたこの支配者に与することの方を選んだものがいた。これが現在のキジであった。キジは、その時まで不可変のものと受け入れまた諦めてもいた、自分の生まれや家や財産と自分自身との結び付きを、人間が自由に壊したり、ねじ曲げたり、他者のそれをかすめ取ったりすることが出来るのだという実例を、志摩によって目の当たりにした。人の生きる道は予め決まっているのではなく、自分で決めることが出来る。だからこそ人は、それを自分で決めなければいけない。このことが、この時以来今日までずっと、キジという人間の精神の中心を占めてきた。

(面白い。)間近に迫っている大きな仕事を前に、キジは思った。(一体、こんな風に面白いことがあちこちで、しかも時を同じくして起こり得るものなのか。めいめいが自分の勝手を押し通し、押し拡げていく。そして彼我のそれが出会う時、残ることが出来るのはどちらか一方のみ。もう一方は踏み潰されて消えなければならない。鬼首よ、お前は自分と同じようなことをしている人間が自分のほかにもいることを気付いていないだろう。それが主な原因となって、お前は負けるのだ。だがお前が、勝手を通す側の人間であるはずのお前が、この世で今まさに起こっている、勝手と勝手のぶつかり合いまた潰し合うこの騒ぎを知らずにいるのなら、こんなに面白いことを知らずに消えていくお前は、敵ながら一個の人間として実に気の毒だ。)

 キジはこのようにして、楽しんでいた。志摩によってその存在を知って以来、本人がそう呼ぶところの「この騒ぎ」に、キジという男は魅入られているのだった。何をしても良いのだ。そうキジには思えた。何もせずにいてはいけないのだ、決して。キジはまたこうも考えたのだった。志摩との出会いによってキジが発見したものとは何らかの形の自由であったが、キジを実際に魅了したのは自由そのものの尊さではなく、それを可能にする能力の尊さであった。これを楽しむやり方はキジにとって、主のもとでいかによく動き立ち回るか、ということが主であった。そしてこの楽しみの範疇で、行く道の傍らに、今一つキジの注意を惹いた「面白い」ものがあった。すなわち、桃太郎である。

(桃太郎、今という時は厳しいぞ、何ものにもなり得ぬものが、誰からも貪られずにいることの出来ないこの時を、お前は自らの生を自らのものとして生きることが出来るか。あるいはそれを自分ではない誰かに明け渡してしまうのか。自分自身であるために必要な最初のもの、そうありたいと欲する心を持つこと、どうしても自分自身で行わなければならないそれを、お前はすることが出来るか。)

 こう考えながらキジは、だんだんと薄暗くなってくる中、少し先にある通りから小路をこちらに向かって曲がって来た人影を見た。人影は五つあった。そのうちの一つはイヌで、ほかのものと比べて一回り大きな体を、ほとんど揺らすことなく滑らかな動きでこちらへ歩いて来る。そのすぐ隣を歩いているのが、桃太郎であった。


 ◆


 キジの言いつけを守って桃太郎が数日を過ごしたのち、イヌがやって来たのが今日の昼のことであった。イヌは現れるなりすぐに出発するのだと言って、そうして二人は山を下りた。

「お婆さんとのあいさつは、あんなものでよかったのですか。一応、あなたは今晩死んでしまってもうここへは戻れない可能性もあるのですよ。」道中、こうイヌが聞いた。別れを簡素なものにした原因は、その時間を短くした点でイヌにあるはずだった。しかし桃太郎の言葉はその時間すら余らせる程のもので、「では、行ってきます。」とただそう言っただけだった。桃太郎はイヌの方を見ることなく、言葉だけを返した。「大丈夫です。話をする時間は、今日までにありましたから。」


 実際、時間はあった。少なくとも媼の方には、その時間を話をするために活用する意図も見られた。しかし媼がかけた言葉に、それはこの後桃太郎を待ち受けているであろう危険に対する心配から来るものが主であったが、それらの言葉に桃太郎は正面から向き合うということをしなかった。

 桃太郎がキジの仲間になることを申し出た時、その決心にはまだ動揺があった。桃太郎は冬の間、剣を振る日々を送りながら何とかこのぐらつきを取り除こうとして、最後にはそれに成功していた。桃太郎は、自分の現状と自分を待っているであろう未来とを、自らの選択の結果と見た。そしてこの、苦心の末に行った選択には、自分の運命に対して自分がとった初めての能動的行為として、特別の価値を与えた。自分は今、自分で選んだ道を歩んでいる。いつしかこう考えるようになった桃太郎には、現に剣術に打ち込んでいる自分の生活も、自らの行った選択に起因するものと見なされた。すると、時間の経過とともに上達していく剣の技術も、この道を選んだ自分の正しさを根拠付けるもののように思われるのだった。

 一方で、同時に、自分の選択が必ずしも老夫婦の賛同を得られていないことに、桃太郎は気が付いていた。それが限界でもあった。自分が大きな価値を認めている自分の行った選択と、自分が敬意と感謝と愛情とを向けて止まない老夫婦がこの選択に示している静かな反感という、斥け合う二つのものを前に、桃太郎は何も出来ず、結局、何かしようともしなかった。桃太郎は自分と老夫婦の間にごろりと転がる不調和を見た。そこに自分の選択の結果を認め、しかし、もうそこにどんな選択肢を見出すこともしなかった。翁の死が桃太郎のこの姿勢を決定的なものにした。死別は、桃太郎から翁に歩み寄る機会を永遠に失われたものにしてしまった。(どうすることも出来ないこともある。それを思い悩むことが、この道を選んだ先でしたかったことなのか。)桃太郎は考えた。考えて、まだ何とでもする余地のあったはずの媼に対しても、完全に、手を引いてしまった。

 こうして桃太郎の決心は完成し、最後に開いていた弱点を塞いだその時から、媼の声は桃太郎には届かなくなったのだった。


 冬は、終わり際に何日かおきの雨を降らせた。イヌと桃太郎、獣道を下る二人の足元は今、湿った落ち葉で覆われていた。地面は、その上を踏んで行く足をちゃんと受け止めずに、ずるずると滑って怪しかった。二人は足元に注意を向けて無言でいたが、桃太郎の頭の中ではイヌの質問によって刺激された、自らの選択にまつわる考えがにわかに沸き立っていた。外見的なものを何一つ示してはいなくとも、桃太郎の内部は、確かに興奮の状態にあった。(一つ選んだら次がある。選んで。また選んで。こうしてずっと繰り返していくんだ。)周囲の光景に馴染みのないものを感じて、桃太郎はそれが何か考えた。答はすぐに思い付いた。桃太郎が山を下りるのはいつも交換のためで、季節は秋と決まっていた。今のような春先に山を下りて村を目指すのは初めてのことであり、道中の、草や木や地面に至るまで全てのものが、何らかの形で現在の季節を反映しているその光景は、確かに桃太郎が今日までに見たことのなかったものであった。(これも、この道を選ばなければきっと見ることもなかった。)風景の、時期さえ一致すればこの山のどこででも見られそうなそれら一つ一つが、桃太郎の目には何か尊いもののように映った。

 ふと、桃太郎は自分が一人でいるのではないことを思い出し、前を歩いているイヌに話しかけた。その出し抜けな質問に、イヌはたいして動じもせずに答えたのだった。

「イヌは、自分の道に不安を覚えることはありますか。」

「不安、ですか。そうですね。不安はない、と言っておきましょうか。というのも、不安とはあって当たり前のものと考えるからです。」

 桃太郎が、「それは、つまり不安は避けられないものと受け入れている、ということでしょうか。」と聞くと、イヌは調子よく、鼻歌でも歌うように語りだした。

「不安はある、そのつもりで避ける用意をしておくということです。あなたはちょっと例外的ですが、人は皆、人と人に挟まれるようにしてその中を生きているのです。自分のほかにも人はいる。沢山いる。その一人一人に思惑というものがある。それが互いに影響し合い邪魔し合っている。人の間で生きるというのは、こういう場所で生きていくということです。他人のおもちゃに成り下がるのは簡単です。しかしこういう場所で、自分の道を行くことの難しさがそこに不安はないと言い切ってしまうことの危うさが、分るでしょう。」

 どこか近くで鳥の鳴く声がした。木の枝のどれかに止まっていたのが今飛び立ったことも、聞こえてくる音で分かった。それを聞いていたためか、イヌはこう続けた。

「私は鳥のことはよく知りませんが、梢の間を縫って飛ぶなら、その体は小さくあるべきでしょう。人と人との、思惑と思惑の絡み合っている間を、引っかからないようにするためには、人の道も小さく簡潔であるべきだというのが、私の考えなのです。」

(選んで、選んだ道のその先でまた、選ばなければならない時が来る。何もせずにいても、誰かの思惑に引きずられて、どこかへ連れて行かれる。いつでも、自分で選んでいる、そう言えるかどうかだ。一つ一つ、受け身にならず選んでいく。これだ。)

 桃太郎はイヌの言葉を耳では聞いていたが、頭の中ではこんな風に考えが浮かんでやまなかった。それでも、イヌが話を区切ったのを感じると、桃太郎はこう質問した。

「イヌにとっての道とは、何ですか。」

「おや、とっくに理解してもらえているものと思いましたが、これはとんだ思い上がりでしたね。」

 イヌにこう言われて、桃太郎は考えを巡らせたが、分らなかった。それは探す場所を間違えているのだった。イヌは確かに、桃太郎がすでに見て知っているもののことを言っているのだった。

「では、はっきりと言葉にしておきましょう。私の道、それはすなわち剣の道です。」


 山のふもと、村のはずれにつくと、イヌは町の方へ向かう道から外れてどこか違う方向を目指して行った。少し歩いたところに古い、使われているのか打ち捨てられているのか分からないような小屋が立っていた。小屋の前には人がいた。男が三人、身なりからして百姓らしかった。思わず桃太郎はイヌに「あの人たちは何ですか。」と尋ねた。百姓の顔に、何となく見覚えのあるような気がしたのだ。

「この村の百姓の中で、キジの呼びかけに応じて仲間となったものたちですよ。誰もここへ近付けていませんね。物を確かめましょうか。」

 この後半の言葉は百姓たちに向けられていた。百姓たちはうなずいて、小屋の戸を開けた。中には、何やら背負子に載せた荷物が二つ、置いてあった。単にわらを束ねて積んだだけのものに見えるそれを、イヌは百姓たちに指図して背負わせた。その時、荷物を背負っていない一人の、ほかの二人よりも年寄りの百姓が桃太郎に話しかけた。桃太郎に見覚えがあるように思われたのはこの男であった。

「お前、桃太郎なんだな。こんなに大きくなって。」

 百姓は桃太郎の手を握った。そうすることをついに我慢出来なくなった、という様子であった。

「お前のおっ母が死んだ時、わしらどうしてやることも出来なかった。みんなが貧しくて、誰もお前を見てやろうとしなかった。わしもその中の一人だった。あの後、息子が戦に行って死んで、わしも孫たちも、悲しむよりも、その働きを埋め合わせることで一杯だった。キジのだんなが来てわしらに、わしら百姓は見も知らない他人を肥やすために命を落としているのだと教えてくれた。そしてお前のことも教えてくれた。お前の話を聞いて、山で不自由なく暮らせたはずのお前が戦おうとしている、しかもこの村の子らのためにそうするのだと知って、わしにはもう、何もせずにいることが出来なかった。わしは年寄りだが、お前のいくところへ、今度はわしもついて行く。お前だけで行かせることはもう、お前にばかり、おお」

 百姓は桃太郎の手を握って、握ったままその場に崩れて泣いた。桃太郎は何も言うことが出来ず、ただ百姓の手を強く握り返していた。

 五人は歩いて村を抜け町の外れまで来た。そこでキジが待っていた。キジは、桃太郎の顔を見ると意地の悪い笑みを浮かべた。そして言った。

「これより先は後戻りが出来ん。降りるなら今だぞ。」

 キジはわざとこんなことを言うのだと、桃太郎には分っていた。ただ、この瞬間の桃太郎には、真剣な言葉を返すことが全てだった。そのための言葉は、用意していたもののように口をついて出た。

「連れて行って下さい。そこで自分の、出来ることをしたいのです。」


 何も作戦という程のものもなく、行動は単純だった。桃太郎たちはキジを先頭にして、目指す場所へと町の中を歩いて行った。イヌと桃太郎が村へ入った時、すでに夕刻であったが、キジと落ち合ったあたりで完全に日が暮れた。どこの家の中からも食事を囲んでいるらしい気配がしていた。出歩いている人間はいなかった。「もはや訓練ではない。だがお前はまだ学ばねばならない身だ。イヌのそばにいて、どうするかよく見ておくのだ。」そうキジに言われた桃太郎は、キジの後ろを歩くイヌのそのすぐ後をついて行った。

 目的の場所へはすぐに着いた。そこは町の中心だった。大きな、祭礼のための広場があり、その奥に穀物を貯めておくための巨大な倉庫が建っていた。倉庫のそばには住居らしき建物が何棟かあった。それは、この巨大な倉庫の内容物とそれを生み出した土地の、両方を所有する人間の住まいであった。この場所は確かに、辺り一帯の経済と権力の中心に違いなかった。

 イヌは百姓たちに背負わせていた荷物を解いた。それはただのわら束ではなかった。中には鉄剣が何本も隠してあったのだ。イヌとキジは剣を持ち、百姓たちにも持たせた。イヌは百姓たちに「渡してはおきますが、今晩ここで人を斬るようなことは、ないものと思って下さい。」と言った。剣はこれで全てではないはずだったが、イヌは桃太郎には剣を持たせずに、荷物の残りをまた百姓に背負わせた。そしてまたキジを先頭にして静かに、かつ足早に、住居らしき建物の方へ近付いて行った。何棟かある中で最も大きな家の、地上から少し高くなっている床に梯子段が渡してあるその入り口まで来ると、中で人の、何かにぎやかにしているのが分かった。キジは梯子段に足をかけ、中へ入って行った。その時、桃太郎の耳にはイヌの「さて、と」という声が聞こえた。それは独り言に違いなかった。ささやくような、耳打ちするような声であった。


 家の中には男が数人、女も二人いた。男たちは酒を飲んでいて、女には酌をさせたり、踊りを踊らせたりしていたようだった。場は盛り上がり、今も誰かが言った言葉が笑いを引き起こしていたようであったが、突然入って来たキジたちを見て、全員が楽しげな様子を引っ込めた。「何だ、何だお前たちは。」と男の一人が言った。結んでいない長髪を無造作に肩へ垂らしているその男は、言いながらそばに置いてあった鉄剣を手探りでつかみ当て、立ち上がった。

「あれがそうですね。おや、剣を持っているじゃあありませんか。」イヌが言った。

「お前たち、一体何だ。何しに来た。」

 男の顔は赤く、目つきにはとろけたようなものがあった。キジはその姿と口調を観察していたが、「酔っているな。まあいい。」とつぶやいた。そして続く言葉を、今度ははっきりと相手に向けて言った。

「鬼首の手下のフギというのはお前だろう。おれたちはお前を殺しに来た。命乞いは無用。抵抗もまた無駄、大人しくするがいい。」

 そこにいたものたちは皆ざわついた。特にフギと呼ばれたその男は、明らかに激した様子で何かをわめいていた。キジは、それまで自分の後ろにいたイヌが一歩二歩と前へ出て、視界の端に現れたのを認めると、反対に自分は後ろへと下がった。下がったキジのすぐ隣に桃太郎がいた。こうして先頭に立ったイヌが一人、相手と対峙する形になった。

 相手、すなわちフギは、長髪を振り乱しながらこちらも一歩ずつ前へと歩み出していた。手に持った剣を前へ突き出しキジの方を指しながら、フギはしきりにわめき続けていた。その内容は、背後にいる鬼首という、その命によって自分をここへ配置している人物の、いかに恐ろしく強大であるかということ、その鬼首に仇なすキジたちを待っている運命がいかに悲惨なものかということ、であった。酒に酔ったこのフギの扱うことの出来る語彙と語法はごく単純なものに限られていたが、話者の感情の昂りを表現することには、少なくとも成功していた。しかし、一緒に酒盛りをしていたものたちを含め、この男のわめく言葉を真剣に聞いている人間はこの場に一人もいなかった。

「桃太郎。」

 突然、イヌが大きな声を出して桃太郎を呼んだ。それはまるで歌でも歌うような、この場にいる人間に呼びかけているとはとても思えない声であった。その声の響きの異様な豊かさに、桃太郎もほかのものたちも何事かとイヌの方を見た。しかし当のイヌは自分の行動にいかなる不自然さも感じていない様子で、その伸びやかな声によって周囲の空間を思うままに振動させながら、一歩ずつ、前進して行った。フギは近付いて来るイヌに、「何だお前、何だお前は。」とわめいた。イヌは、フギの声はおろか姿さえ目に入っていないかのような無関心さで、ただ桃太郎に向けてしゃべり続けた。

「一度しか教えることが出来ないので、一度で覚えて下さい。相手を倒す、という行為を三つの段階に区別します。一つ、相手を無力化する。」

 イヌは剣を両手で握ってはいたが、切っ先は下に向けたまま、どんどん相手の方へ歩いて行った。その姿はあたかも攻撃を意図するものでないようにさえ見えたが、結局フギは、この不気味な接近者に対して普通の、ごく素直な反応を示したのだった。フギが「わああ」と叫び声を上げて剣を振り上げたのと、がちん、という音がしたのが同時のことだった。その音は、フギの剣の柄にイヌの剣の刃が叩き付けられた音であった。刃が柄に達する前には柄を握っているフギの指があるはずだったが、斬るというよりも引っ叩くようなイヌの一撃によって、その指は今、中途半端に引きちぎれて落ちたりぶら下がったりしていた。フギは剣を取り落とし、その場にうずくまって「いいいあああ」とうめき声を出した。そして負傷した自分の手を抱くようにうずくまっているフギの背後に、イヌは立った。

「ひとまず、相手は戦うことが出来なくなりました。この傷は軽いものとは言えませんが、かと言って命に関わるものでもありません。」

そう言いながらイヌは、うずくまっているフギの背中を左手でぐっと押さえ付け、右手だけで持った剣を、そこへ突き刺した。フギの体は剣を刺された時に大きく動き、それを抜く時にもまた動いたが、感じているであろう激痛を思わせるようないかなる苦悶の声も聞かれなかった。そのため桃太郎にはこの一撃が相手の命を奪ったものと思われたが、イヌの言葉がそれを否定した。

「二つ、致命傷を与える。今度の傷は深く、内臓に達しています。これはどう手当てをしても助かりません、死にます。それでも今はまだ、生きている。」

 こう言うと、イヌは剣をまっすぐ、自分の頭の上に振り上げた。そしてその格好で静止した。桃太郎は、イヌが自分で致命傷を与えたと言い切った相手に対して剣を振り上げたことよりも、むしろこの不自然な静止のために、注意を惹かれてイヌの方を見た。すると、イヌの方でも桃太郎を見ていたので目が合ってしまった。実際にはこの静止も視線の交換もほんの一瞬の出来事であった。桃太郎が予期せぬ視線の衝突に驚いた時にはもう、イヌはその目を目標に向け直して動作を始めていた。


 イヌの踏み込みによる、どん、という音を聞いた時、桃太郎には見るべき対象が分からなかった。そして視界の中で次に注目を誘ったものが、そこにうずくまっているフギの体から離れて転がり落ちる頭部であったため、桃太郎は、先程聞こえたのはこれを切り落とした時の音だろうかという錯覚を覚えた。

「三つ、ただちに殺す。」

イヌの声音は、通常のものへと戻っていた。

「覚えて下さい、桃太郎。肉体というのは物ですから、どうやって壊すのがよいか、それだけです。その加減次第で、命の方も、併せて破壊することが出来る。」

 イヌはしゃべりながら、足下に転がっている首を剣でつついて弄んでいた。するとキジがそれを咎めた。

「あまり傷を付けるな。その首はまだ使うのだ。人相が判らなくなっては意味がない。」

 キジはこう言ったが、言葉が意味しているようなこの首の保存に対する懸念は、その声の調子のどこにも含まれてはいなかった。

「ああ、そうでしたね。」

 イヌはそう言うと、今度は首ではなく体の方を剣でつつき始めた。そうして死体を弄びながらも、イヌはまだ桃太郎に向けて語っていた。

「やり方はもう、体が分かっているはずです。ですがその通りに動くことが出来るかどうかは、むしろ、心の方にかかっているのです。これは事前に準備をしておくべきことです。相手を前にしてからでは間に合いませんから。」

 桃太郎はイヌの言葉を聞きながら、そこにある死体をじっと見つめていた。多量の失血でもう白くなっている肌と、頭部を失った跡の赤く丸い断面との対比がそこにはあった。イヌの剣の先端が絶えず新しい切り口を増やしていくため、最初は円形の平面であった傷口は徐々に、複雑で立体的な形へと変化しているところだった。

 ふと、イヌは死体を損壊する手を止めて、荷物を背負わせた百姓のところへ行った。そして荷の中から鉄剣を抜き出すと、それを持って桃太郎の前に来て、言った。

「さあ桃太郎、剣です。」

 イヌはさらに、「そしてこれが最後の講釈です。良いですか」というような言葉を思い浮かべていたが、はっきりとした理由もなく、ただ瞬間の気まぐれで、イヌはこれら前置きの言葉を使わずに用件だけを言うことにした。

「人がこれを携えるのは人間の体に叩き付けるためであって、ほかにはどんな理由もないのです。剣を持つ時にはいつもそれを思い出さなくてはいけません。」

 そう言ってイヌは鉄剣を差し出し、桃太郎はそれを受け取った。どこも錆びておらず宝飾品のように光っている刃の美しさと、その柄を握った時のすべすべした手触りとでもって、鉄剣は桃太郎を驚かせた。握るものの手をまめだらけにするあの、錆びた鉄剣のざらついた感触の野蛮さからすると、今受け取ったこの剣はまるで、人を殺傷する道具ではない何か真逆の用途を持つもののように思われた。

 刃の、その鏡のような表面を桃太郎は見た。その鋭利さとその重量とに、然るべき速度を与えて目標に衝突させた時のことを思うと、自分が手にしている道具の破壊力が理解できた。イヌが手本を示したことによって、桃太郎はその光景を思い描くことさえ出来た。ただ実際の手ごたえだけが分からなかった。それが感覚の中に現れるためには、それを経験する必要があった。


「それで、もう一ついるのでしたね。」

 イヌが言った。しかし問われているはずのキジは返事をしなかった。桃太郎はキジの方を見た。そして、そのキジが視線を向けている先に自らも目を向けた。この場所で酒盛りをしていたものたちは皆、今しがたの流血沙汰のさなか、後ずさりして壁を背にしたまま一切動かずにいた。目の前で唐突に行われたフギの殺害と、それを行ったこの侵入者たちに対して、怯えと当惑とを示していないものは一人もいなかった。女の一人は気を失っていた。あるものははっきりとした恐怖の色のにじむ眼差しを、イヌやキジや桃太郎たち全員に注いでいた。またある者は、そこでうずくまっている、血の池に浮かぶ小島のような頭部を欠いた人間の死体を、そうするよう何かで固定されているかのように、じっと見つめているのだった。このものたちの中から、一人の男が歩み出てこう言った。

「いや、助かった。助かった。」

 男はまばたきをするたびに、視線を右、左と切り替えて、キジとイヌとを互い違いに見やりながらしゃべった。二人の相手のどちらに向かって話すべきか、決めかねて結局どっちつかずのそうした態度をとっているようであった。

「ありがたい、本当に。あの男の横暴から、これでやっと解放される。私は山居というものです。代々、ここでこうして、この辺りの村々の取りまとめをして暮らしてきました。私どもはずっと平和に、私どもだけで、今までやってきていたのです。それをあの男が来てからだ。あのフギという男がやって来て、ここはこれから鬼首さまのものとなるのだ、この町も周りの村も、だけでなく隣の里もその反対の隣も、全てそうなのだ、などと言って、息子を人質に取ってしまったのです。そして代わりにあの男がここに居座ることになって、私どもはあの男の思うままに、まるで下僕か何かのように振舞わなければなりませんでした。逆らえば息子の身に何があるか、分からないからです。地獄のような日々でした。それをあなた方が今、終わらせてくれた。あなた方は一体」

「ああ、待て、待て。そう焦るな。」

 溢れ出るような言葉の連なりを、キジが遮った。まだ何か言っている途中で口は開けたままの山居は、驚いたように見開いたその両目だけで、発言を遮られても少しも不快ではないこと、むしろ自分はキジが何か言うのを待っていたのだということを、巧みにも、訴えていた。

「山居と言ったな。お前がこの家の主だな。好きなだけしゃべってもらって構わん。だがそれはここでではない。表へ出ろ。」

 桃太郎は、「もう一ついる」というイヌの言葉とキジのこの発言から、自分たちの次の行動目標を理解した。それはこの男の運命を予測することでもあった。先程の好意的な表情のまま固まってしまったこの山居も、どうやら自分が直面している災難に、災難に直面しているのは自分なのだという事実に、気が付いたらしかった。「待って下さい。一体」と何か言おうとする山居を、キジは剣の先でつつくようにして入り口の方へ追い立てて行った。イヌは足下に転がるフギの首を拾い上げると、見物人のごとく軽い足取りで後をついて行った。そのイヌの後に桃太郎と百姓たちが続いた。

 入口に近付いた時、桃太郎は外に人が集まっている気配を感じた。その数のあまりに多く感じられるために、桃太郎は一瞬、不可解な印象を覚えた。外に出てすぐに確認出来たのは、この予感が外れてはいなかったこと、そして実際の人数が、予感していたよりもずっと多いということであった。


 外には数十人の人間が集まっていた。そのほとんどは男で、中には鍬や何か棒切れのようなものを持っているものもいた。集まっている人間は皆、ある報せを耳にしていた。それは次のようなものだった。

「今、山居のところに押し入ったものがあって、山居とフギは殺されるかもしれない。」

 これを聞いて男たちは、女と子供を家で待たせておいて様子を見に行くことにした。出がけに近隣のものにも声をかけ、自分が今聞いた話を話し聞かせて、男たちは連れ立って山居の住居を目指したのだった。着いてみると何十人もの、あたかも町にいる全ての男が集っているかのような人の集まりがそこにはあった。人々は山居の住居を遠巻きにうかがって、広場の中程にわだかまった。なぜ皆が皆、こうも一斉に一堂に会しているのか、誰もがそれを不思議に感じていた。広場の外周のところどころに、あの巨大な倉庫の周りに、そして山居の家の入口に、灯っている明かりが人々の顔を照らしていた。日はすでに落ち暗闇の中で炎の瞬きに照らされる、明と暗とが半々に映るその表情に、不可解を示していないものは一つもなかった。

 そこへ山居は現れた。家から出て来て、予期せぬ人の集まりを目にして、山居は確かに不審に思ったらしかった。そしていまいましそうに舌打ちをしたが、それでも山居の注意は、自分を追い立てている鉄剣の先端に今も向かっていた。山居の後にはキジが、イヌが出てくる。人々は二人の人物の、全く見覚えのない人相を見た。それぞれが手にしている鉄剣を見、イヌが、長髪をつかみどころとして自分の膝の横にぶらぶら揺らしている、フギの首を見た。人々は息を呑んだ。イヌは家の前で立ち止まったが、キジは止まらなかった。山居と、山居をぐいぐい追いやっていくキジによって、人だかりは押し拡げられていった。山居の家からは今また桃太郎と百姓たちが出て来て、イヌと共にそこへ止まった。人々は弧を描いて拡がり、その弧が作る不完全な円の中心に、山居とキジがいた。キジが立ち止まって、ようやく山居も止まることが出来た。自分たちを取り囲むようにして並んでいる群衆の、その全ての顔と表情とを、キジは見回した。そして、ずっとその先端を山居へ向けていた鉄剣を下ろすと、目を閉じて一度、深く息を吸った。息を吐き、目を開け、その目は山居をまっすぐに射るものでありながら、その声は確かにこの場に集まっている人間の全員へと向けて、キジは言った。キジ自身にとっては仕事への着手であり、その言葉は、山居にとっては自らを告発するものとなり、集まっているものたちにとっては一つの勧告となるものであった。

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