三
桃太郎は十八になっていた。もう立派な大人の体格をして、翁と媼を合わせたそのまた倍くらいの力が出せた。間違いなくこの山の暮らしの持つ豊かさがこの体格を作り上げたはずだった。村にいる若者は幼少の時から親にならい、必要にかられ、労働に身を投じている。労働は確かに子供の体質を強めたかもしれないが、とにかく村では食物の不足が常のことであった。子供から大人へと体が変化する時期にもそれを形作るための元手が足りないので、村の男は大抵どす黒く日焼けして、かりかりにやせた干物のような姿のものばかりだった。成長するために運動を欲し、いずれ今以上の能力を持つために今ある能力を残らず使い尽くすことを欲し、そしてこれらの消耗を補うものを欲する。自らの肉体が発するこのような要求に応えるためには、桃太郎はただこの山に暮らしてさえいればよかった。山は全ての要求を完全に満たした。そして時間のしかるべき経過ののち、桃太郎の体は彼が属している種が予定していたであろう完成形に、ほぼ近いものとなっていた。
ある日、桃太郎は翁と二人で山の奥へと出かけていた。媼は家に残り、畑、正確にはかつて畑であった野草化した作物の自生地帯に行って何か採ったり、それから川で洗濯をしたりと忙しくしていた。
昼には翁と桃太郎が戻ってくるので、媼はその前に食事の用意を始めておこうと家の中で仕事をしかけていた。すると「頼もう」という声がした。媼は驚いた。こちらから村へ行くことはあっても、もちろんそれもまれなことではあるが、誰かが訪ねて来るとなると桃太郎が初めてここへ来た時以来、それくらい珍しいことであった。媼が慌てて表へ出てみるとそこにいたのは一人の、四十ばかりの男であった。
「婆さん、一人か。」男は言った。
「お爺さんは山におりますので、今は私一人です。」
「爺さんというのは一人で行っているのか。」
「いえ、子供と、二人で行っとります。」
「子供というのはあんたたちの子か。」
最初に「頼もう」という声を聞いてから媼は今だ驚きのさなかであったが、男の唐突で強引な調子に押されるようにして、聞かれるたび答を返していた。しかしこの最後の質問は、なぜそんなことを聞くのかという戸惑いを強く呼び起こしたため、媼はこれに答えることがすぐには出来なかった。そして男の方が先に、問いを重ねたのだった。
「その子供というのは戦災孤児ではないのか。おれはふもとの村で、戦で親を亡くした子供がここにいるという話を聞いた。おれはその子供に会いに来たのだ。その子に話がある。戻って来るまで待たせてもらうが、構わんな。」
男は言いたいことを言って聞きたいことを答えさせてしまうと、家の中をのぞいたり、辺りをうろうろしたりして時間をつぶし始めた。媼はあっけにとられていたが、昼食に客人を迎えなければならなくなってしまったことに気付くと、慌ててそのための用意を始めた。わずかの会話のうちに媼の中には、男の強引さによって、身分の低いものが上のものに対してするようなへりくだりが出来上がっていたので、媼はどうしても慌てて仕度をしないわけにはいかなかった。粗末極まるこの家でやれることがなくなってしまう前に翁と桃太郎が帰って来た。
幸いにも二人は魚を獲って帰って来た。客人をもてなすに十分なものがあると知って媼は一人仕度に取りかかった。その間にもう、訪ねてきた男は翁と桃太郎の二人と差し向いに座って自分の話を始めていた。
「おれはキジというものだ。その子が桃太郎だな。爺さん、おれは桃太郎に話したいことがあってここへ来た。だがその話はあんたたちにも関わりのあることだから、あんたもそこで一緒に聞いていてもらいたい。」
そして自らをキジと名乗るこの男は、近年この地方一帯で戦とそれに伴う徴兵が頻発していること、それは桃太郎の生まれた村をはじめ、隣の村もそのまた隣の村も、とにかくこの辺りの村という村を巻き込んだものであるということ、そしてこの事態の中心にいる、元凶とも言うべき人物のことを語った。
「その男の名は鬼首という。この男の一族はもともとある村の地主で、百姓に納めさせる年貢で暮らしていたのだ。そこらにいる地主と何も変わらない。だが問題はこの鬼首の代になってからだ。こいつは村の男たちを集めて兵を組織すると隣の村を襲った。地主一族の主な顔ぶれを皆殺してしまって、百姓たちにはそれまで通り年貢を納めさせる。この村からも兵を集めて次の村を襲う。同じことを二、三度繰り返すと狙われる村の方もただ襲われるのを待ってはいなくなる。隣り合った村同士が自衛のための仲間を組む。これで本格的な戦となるわけだ。」
媼が茶を淹れて持って来た。キジは湯呑みを取ってそれをすすり、さもうまそうに腹から息を吐いた。さっさと空にしてしまった湯呑みを、がん、と音を立てて床へ置くと、キジはまたしゃべり始めた。
「だが慌てて数を揃えても勝負にならないのだ。鬼首はいくつもの村から上がってくる利潤を自分一人のものにしている。そして元々の自分の村の兵や、最初の方に襲った村から出てきた兵の、一部の血の気の多い奴に、これから襲う村から得られるであろう特権的な利を分け前としてちらつかせている。そういう人間を何人か作って仕切らせているから、組織としての力が違うのだ。これで三つの村で仲間を組んでいたのが全て鬼首に下ってしまった。ここでは地主は殺さずその家の子供を人質に取って、例の血の気の多い輩を配置する。これより地主は百姓たちから集めたものを鬼首に納めなければならない。戦があれば兵を募らねばならない。だが表面上は決してそうとは見えないようになっているのだ。ふもとの村で、桃太郎の父親が兵に取られたのもこのやり口だ。」
「どうして、そんな事まで分かるんでしょう。」
翁が口をはさんだ。キジが語る文脈の現在の位置から言えば、この問いは間の抜けたものと取られてもおかしくはなかった。しかしキジは全く逆の捉え方をして、この質問には鋭敏な意味合いのあるものと考えたのだった。顔を合わせたばかりでろくに言葉も交わしていない翁に、キジが何らかの機知を見出したわけではなかった。ただ何か鋭い意味をもってこのような問いかけをする、そういう人間を相手にするのだと考えた方がキジ自身、話のしがいがあるというだけのことだった。
「どうしてか、調べたのだ。おれはこの地方の村から村へと歩き回って調べてきたのだ。おれは自分の目的のために有益な情報を集めていた。そしてこのふもとの村で桃太郎、お前のことを耳にしたのだ。本題だ。おれはこのことを言いに来た。おれの目的とは、鬼首を討つこと、そのための同士をおれは集めているのだ。」
キジはここで言葉を切った。対面の二人は黙っていた。翁の表情には若干の、険しいものが見られたが、桃太郎の方は状況を完全には理解していないようだった。十分に間をおいてから、キジはもっとはっきりとした言葉を続けた。
「桃太郎、おれはお前を仲間に加えたい。同士となって、鬼首を討つべく共に戦って欲しいのだ。鬼首のもたらした戦禍によって父を失い、それが元となって母をも失ったお前は、両親を鬼首に奪われたも同然だ。お前には理由がある。桃太郎、鬼首を討て。お前の敵だ。」
媼がお待ちどう様で、と言い食事を運んできたので話はここで中断した。配膳する媼は先程の慌てた様子のままであったが、それが先の調子を引きずっているのかキジの話が聞こえていたためなのかは分からなかった。キジはもう大事なところは話してしまったので続きを急いでいる風でもなく、うん、うん、うまい、などぶつぶつ言いながら食べることのみに集中していた。老夫婦は食べる間一言も発さず、桃太郎も黙っていた。食べ終わると媼がまた茶を出し、それを飲むとキジは言った。
「話は聞いてもらった通りだ。それで、返事を聞かせてもらいたい。桃太郎よ、このおれについて来てくれるか。」
「おそれながらだんな様、この桃太郎はまだ子供にございます。」
翁がとっさに、口をはさんだ。
「それがどうした。子供だが立派な姿をしている。瞳も澄んでいる。」
キジはいかにも、道理は自分にあるという調子で言った。自分がそれを具えていると確信しているところの正当性の前に翁が唱えるであろうどんな異論も、他愛のない愚かなものに過ぎないと、そう決めてかかっているようだった。だが翁は続く言葉に真剣さを込めた。
「だんな様、私どもには子供がおらず、長年この山に二人だけで暮らしてきました。私どもは二人だけで生きて死んでいくはずでした。一人がもう一人を看取り、残った方は一人だけで死んでいく。そのような最期が私どもにとっては分かり切ったものとなっていました。そこへこの子がやってきたのです。父を亡くし母を亡くし、全てを失いかけていた幼いこの子を、何かの縁が私どもに引き合わせてくれたのです。山がこの子の未来を埋め合わせてくれました。失ったものをよみがえらせることは出来なくとも、この子がまだ失わずにいたもの、すなわちこの子自身を、山は正しい方へと導いてくれたのです。この子の姿も、瞳の澄んでいるのも、何もかもを失くしかけたこの子が辛うじて失わずに済んだものなのです。どうかだんな様、考え直してください。この子に残った最後のものを取り上げないでください。この子から父と母とを奪ったまさにその場所へこの子を近づけるようなことは、私にはどうしても承知することが出来ないのです。」
翁が語るこれらの言葉は、桃太郎にはまるで自分に向けて発せられたもののように思えた。桃太郎は隣にいる翁を見たが、翁の顔は対面にいるキジ、つまり自らが語りかけている相手の方を真っ直ぐに向いていて動くことがなかった。キジは睨むような鋭い目つきで翁の目を見返していたが、翁の言葉が止み、しばしの沈黙の後、低い声を出した。
「結構。だが最後には本人の意思が決めることだ。桃太郎、お前の口から答を聞かせてくれ。」
桃太郎はまだ翁がかばってくれるものと思ったが、翁はただ黙っているだけだった。それでも桃太郎には、言わなければいけない言葉は一つしかないように思えた。その言葉を自分は言わなければならない、そう桃太郎には感じられたのだった。
「僕は、行けません。お爺さんが承知しないことを、するわけにはいきません。」
キジはそれ以上食い下がることなく帰って行った。
「本人がこう言っているのだから、仕方がない。だが、くどいようだがこれだけ言わせてくれ。今、あらゆる村の百姓という百姓にとって、桃太郎の父と同じように戦場へ行くことが、そしてそこで命を落とすことが、ありふれたことになっている。だが戦場で直接に、百姓たちの命を奪っている相手もまたどこかの村の百姓なのだ。なぜこんなことになっているのか、何のために戦っているのか、本当のことを知っている人間は戦っているものたちの中には一人もいない。全ては鬼首だ。得をしているのも、それを分かっているのも、鬼首ただ一人だ。この男一人を利するためにこれら全ての災いは作り出されているのだ。それを分かって欲しかった。それのために、おれは戦おうとしているのだ。」
キジが山を下りて帰って行った後も、桃太郎と老夫婦の、三人の頭上には何となく重苦しいものが残ったままになっていた。やがて日が暮れて夜になった。三人は食事をとり、眠った。いつもしているのと同じことが、キジという外部からの刺激によって、普段とは違う印象を三人に与えるようだった。夜の闇と静けさが、大げさに不安をあおっていた。
桃太郎は翁がキジに言った言葉の意味を反芻する必要を感じていた。桃太郎は未だその意味を理解し切れていなかった。そもそもあのような言葉を翁の口から聞くのは初めてのことであった。それは桃太郎にとっては、これまでに語られたこともなく考えたこともない内容だった。桃太郎は自分が、初めてここへ来てから今日まで過ごしてきたのと同じ日々を、今後もずっと繰り返していくものと信じ切っていた。否、それを当たり前のこととして、強いて考えることさえしてこなかったのだ。自分がこの山で今日までに経験したたった一種類の暮らしと、それとは違う何か別のものと、二つに一つを選ばなければならない場合のことなど、桃太郎の頭にはこれまで一度も浮かんだことがなかった。しかし今日という日にそれは唐突にやって来た。桃太郎は辛うじて、自分が向き合うことになったこの場面の重要性を感じ取っていた。そして今一つ、この場面が自分に要求しているはずの何か、それは恐らくは主体性と呼ばれるべきものだったが、その何かを自分は欠いたのだということをも桃太郎はうっすらと感じていた。そしてそのことが一種の後ろめたさとなって襲ってくるのだ。それのために今、桃太郎は今日の出来事と翁の言葉に対する反省に駆り立てられているのだった。
「なあ桃太郎。わしが昼間あのキジという人に言ったことは、みんなわしの心から出た本当のことだ。わしらは夫婦二人きり、時が止まったようにして生きてきた。そこへお前がやって来てから今まで、何という日々であったことか。わしはお前が、お前を守っているものから決して見放されてはいないのだということを知った。人間の尺度からすれば不幸としか言い様のない場所へはまり込んでしまったお前の、この山での草木や獣たちとさして変わらない生活の末の今の姿を見て、不憫に思うような人間が一体この世のどこにいるだろう。わしはお前がここへ来たことがただの偶然とは思えないのだ。お前を守っている何ものかが、お前の不幸を償うためにお前をここへ連れて来たのだと、わしにはそう思えてならないのだ。だからわしはお前をここに留めておきたかった。桃太郎、これがわしの思っていることだ。だがこれは、わしの思うことであってお前のそれではない。お前が失ったものを埋め合わせてお前に与えられているものを何に用いるのか、それはわしが決めることではないのだ。あのキジという人が、最後には本人の意思が決めるのだと言っていただろう。わしは今自分が、お前を守っているものの意図に反したことをしたように思える。わしは、あの時にはどうしても、ああ言わずにはいられなかったのだ。」
こんなことを翁は言ったため、桃太郎にはさらに理解しなければならない対象が増えてしまった。それは翁のこの言葉自体がそうであり、また翁の、桃太郎に向けて語るとも独り言を言っているのともつかない微妙な態度や、まるで失敗を犯した人間が誰もそれを咎めない内から言い訳をしている時のような、ばつの悪そうな様子がそうであった。
結局のところ、桃太郎の山によって育まれた素朴な精神ではこれらの問題に解を与えることは出来ず、それをするために必要となるものを山が与えることはなかった。ただ桃太郎は、胸に引っかかっているものの正体を知ることが出来ない上に、それを抜き取る方法も分からなかったので、いつまでもその不快な何かをいじり回していた結果、問題が問題のまま桃太郎の中に根を下ろしてしまった。このことに同居している老夫婦が気が付くような機会もまた、山が決して生み出さないものの一つであった。そして三人の生活は、少なくとも外見上は元の通りに、続いていった。