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 昔ある村に夫婦がいた。この夫婦には子供が一人だけあって、この子の名は桃太郎といった。桃太郎の母親は体が弱く病気がちで、二人目のお産の時に、この二人目の子は流れてしまったのだが、母親の方も命にかかわる危険な思いをした。以来この夫婦はこれ以上子をもうけることを諦めていたが、その代わりに一人子の桃太郎には持てる限りの愛情のすべてを注いでいた。

 三人の暮らしは貧しいものだった。この村では誰もが貧しかった。桃太郎の父親は百姓で、非常な働き者であったが、いくら熱心に働けども流した汗と実入りとが釣り合うことはなかった。何をするにも元手が必要だった。作物を作ろうと思えば種を借りなければならず、借りたものには必ず利子が付いた。貸主もこの村の百姓で、つまりはこれも貧乏人なのだが、このような貧しい者同士の貸し借りはよく行われていることだった。これは経済的意味で言えば足の引っ張り合いであり、より物質的な意味では共食いであった。食べるものに事欠くのでもはや同胞を獲物に食いつなぐ、彼らのやっているのはつまりそういうことであった。

 桃太郎の父親はしかし、借りることはあっても利子をつけて貸すようなことはしなかった。むしろ、貸したつもりがただであげたことになっていて、そのまま盗られてしまうことが何度かあった。彼は人一倍の正直者だった。そのことが彼に人一倍の貧乏を招き寄せていた。家にあるものは皆、全く無いか、あるにはあるが甚だしく不足しているかのどちらかであった。


 ある時戦があって、桃太郎たちが暮らす村でも徴兵があった。この時の徴兵は、何も男で動ける者は全員というようなものではなく、たかだか数名の話であった。出征するだけで報酬がもらえ、間違って手柄でも立てようものなら恩賞までもらえる、しかも戦利品は持ち帰り放題、といった具合に、戦は儲かるという話がまことしやかにささやかれた。戦は儲かる、それが本当なら皆が先を争って戦地を目指しているはずだった。だがそんな話を本気にしている者などおらず、皆自分以外の誰かに貧乏くじを引かせたいがために、いい加減なことを言っているに過ぎなかった。

 桃太郎の父親がこの貧乏くじを引いた。この男は正直者であると同時、手の付けられないお人好しでもあった。村の人間は皆この男に面と向かって、平気でどぎついことを言った。やれ、お前のところは子供が一人だから、お前が死んで困る人間も母あと桃の二人だけだとか、生きて帰っても死んでしまっても報酬は出るんだから、お前それで借りたものを返せるだろうとか、おまけに矛の一本でも拾ってくれば、それを元手に自分の鍬が持てるかも知れねえぞとか、寄ってたかってそんな風にまくし立てられているうちに、「そうか、それなら一つ、行ってこよう。」と、そういうことになってしまった。

 この男の妻、すなわち桃太郎の母親はこのことを知って内心呆れたのだが、それでも、そうすることが妻の務めと落ち着き払った態度で「あんた、気を付けないといけないよ。」と言うのみだった。彼女も正直には違いなかったが夫のようにお人好しでも楽天的でもなく、もっと厳格な精神の持ち主であった。彼女の心は折れることを知らず、動じるということを知らなかった。彼女の精神の強靭な性質がそれを彼女に教えなかった。そしてこの性質が、生まれついての肉体の虚弱を償うものとなっていた。


 こうして桃太郎の父親は戦に行った。そしてそのまま帰ってこなかった。生きて村へ帰ってきた者が夫の死を伝えるのを、妻は黙って聞いていた。桃太郎には大人たちの言っていることの意味が分からなかった。

 翌日から桃太郎の母親は野良に出て働き始めた。彼女はほとんど夜明けと同時に出かけて行った。驚いたのは桃太郎で、朝起きてみると母親が家にいない。探しに外へ出てみるとその母親が野良仕事をしている。桃太郎は母のそんな姿を見たことがなかった。彼女の普段の姿といえば、家の仕事をしているか、どこかでもらってきた内職のようなことをしているか、あとは時々調子を崩して寝込んでいるかのいずれかであった。

 今、彼女は顔を真っ赤にして働いている。泥だらけになって、異常な量の汗が顔を濡らしてぎらぎら光っている。何か恐ろしいこと、それが何かは分からないがとにかく恐ろしいことが始まったのだという感じがして、桃太郎はたまらず泣き出してしまった。母親は桃太郎のそばまでやってくると、しゃがんで目線を合わせた。そして一言、「大丈夫だからね。」と言った。母親の顔は泥だらけの汗だらけで、また上気してもいたが、その表情が、すなわち母の真顔が、桃太郎に先の恐ろしい予感は現実のものだと知らせた。

 母親はまた仕事へ戻っていった。桃太郎はまだ泣いていたが、ひとしきり泣いてしまうと母を手伝って働き始めた。

 こうして一日が過ぎ、二日が経ち、そして三日目に桃太郎の母親は倒れて、そのまま死んでしまった。

 村にはすすんで桃太郎を引き取ろうという家が一軒もなかった。この年は不作で村中が窮しており、食うに困っているところへあえて口を増やそうという人間はどこにもいないのだった。もちろんそうした余力を持ち合わせないのは今年に限った話でもないのだが、主な家の者が話し合って、とにかく今は無理だということになった。ではあの桃太郎をどうするのか、話はそこへ続いていった。


 村はずれから山に入りずっと奥まで行ったところに、草木に埋もれるようにして一軒の家が建っていた。この家には老いた夫婦が二人だけで暮らしていた。村の者たちはこの老夫婦に桃太郎の面倒を見てくれるよう頼んでみることにした。頼んでみると言って最初から押し付ける気でいるので、桃太郎には引っ越しのごとく身支度をさせ、村人の一人が付き添いについて、二人は山へ入っていた。

 二人が目指す場所へ着いたのは昼時で、老夫婦は家にいた。村人は事情を説明して、なんとか引き受けてやってくれまいかと頼んだ。村人は桃太郎自身にもこう促した。「さ、お前からも頼むんだ。」桃太郎は村育ちの百姓の子供で、話す言葉も、好む遊びも、そこらの同じような子供と何ら変わっているところはなかった。ただ彼の父親は違った。正直者でお人好しの彼の父は、周りの人間から食いものにされていた。桃太郎はそれを見ていた。彼は、父親が人の容赦を乞う時に使う、特別な言葉遣いを覚えてしまっていた。だから、そこらの同じような子供ならあり得ないことだが、桃太郎にとっては自然なこととして、彼は次のように言った。

「僕、桃太郎といいます。お爺さん、お婆さん、どうかお願いします。」

 これを聞いて村人は、さすがに胸に感じるものもあったのだが、それを表に出す必要はなかった。というのも、先に老夫婦の方が大きな反応を示して、それでもう片が付いてしまったのだ。

「子供のいないわしらのところへ、こんな立派な子が来てくれるのなら、頼みたいぐらいのものだ。ここで暮らせばいい。こんなところだが、わしらはこうして暮らしてる。お前にだって、不自由はさせるまい。」

 こうして桃太郎は老夫婦に引き取られ、山の中、三人での暮らしが始まった。

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