表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/34

前編06 信太朗④

 その後の医者の診察では、脳に異常はなく、いわゆる突発的な記憶喪失というやつらしい。

 数週間入院させて様子をみましょう、とのことだ。

 

 この病院は、姉ちゃんの大学や蛭尾教授とも関連している病院なので、なにかと融通をきかせてくれるらしい。

 保険証のない敦盛を入院させるには都合がよかった。


「何かのきっかけで記憶を取り戻すでしょう」


 と医者は気軽に言い、病室を出ていった。



 僕と姉ちゃんと蛭尾教授は、今までのあらましを、彼女に簡単に説明した。


「それでは私は本当に生きていて、名前はたいらのあつもり。そして今は私がいた世界ではなく後の世での世界……」


 彼女は目を見開き茫然として、やがて眼を閉じた。

 しばらくの間、だれも口を開かなかった。


 無理もない、記憶のない状態でこんなことを聞かされて、すぐに理解できるわけがない。


 やがて彼女はゆっくりと上半身を起こし、病院服の襟を整えると僕の目を見た。そして柔らかな口調でこう言った。


「あなた様方は、私の命の恩人です。改めてお礼を申しあげたく思います」


 僕はたじろいだ。


「命の恩人って別にそんなんじゃ」


「助けてくださらなかったら今頃死んでいました。貴方は命の恩人です。御恩は一生忘れません」


「一生って……」


「何か恩返しが……。そうだ!私の笛を!」


「笛?笛って確か……」


「これだろ、お嬢さんの小枝の笛。」


 蛭尾が敦盛に横笛の入った赤い絹袋を渡す。


「ああ!そうです。小枝さえだの笛です。ありがとうございます」


 なぜが笛のことだけは覚えているらしい。

 彼女は、目覚めて初めて笑顔を見せた。

 可愛い……。


 彼女は、点滴の管を気にしながら、笛を唇にあてる。

 小さく息を吸うと、桜色の小さく少し厚めの唇から、小枝の笛に息吹を注ぎ込む。



 一瞬の静寂。



 病室内に清らかな笛の調べが充ちはじめた。

 笛の音は、もの悲しく、どこまでも澄んで、僕の心を打った。


 僕の目から自然に涙が流れ落ちていた。

 大学受験に失敗して以来、ずっと我慢していた。どうやら僕は、ずっと泣きたかったようだ。


 横を見ると、姉ちゃんも泣いてる。

 姉の涙を見るのは、両親の葬式以来だった。


 蛭尾教授を見上げると、彼は目をつむり、わずかに微笑んでいた。



 どのくらい時が流れただろう。彼女は唇から笛を離し、僕たちを見て少し、はにかんだ。


「いかがでしたか?こんなことくらいしかできずに、お恥ずかしいのですが……」


 胸が一杯になって何も言えなかった。

 かわりに姉ちゃんが興奮した声で言った。


「いや凄いよ敦盛ちゃん!いや敦ちゃん!凄い、あんたは本物だ!」


「ほめすぎですよお姉さま。お恥ずかしいです」


「お姉さま!?……ねえ敦ちゃん、お願い、もう一回言って、ねえ」


「え?……はい、お姉さま」


 姉ちゃんは顔を真っ赤にして悶絶している。

 こんな姉ちゃんに見たことない。


「私の名前は弘子。よろしくね敦ちゃん!」


  姉ちゃんはなぜかもう一度自己紹介する。


「ありがとうございます、弘子お姉さま……それとえっと……」


 彼女は僕を見つめる。笛を吹き終わったからだろうか、顔が上気しているように見える。


「ぼ……お、俺の名前は信太朗……です。」


「ありがとうございます。信太朗様。私の命の恩人……」


 その時、看護婦さんが、血相変えて飛んできた。


「病院内で何を騒いでいるんですか!」


 僕たちは、看護婦さんにひたすら謝った。


 しかし、演奏が終わってから部屋に入ってきたところを見ると、看護婦さんも感動して聞き入ってたんじゃないかと推理する。

 その証拠に彼女の頬に涙の跡があるような。


 彼女は小枝の笛をゆっくり赤い絹袋にしまう。


「不思議ですね。自分がどこの誰かは覚えてないのですが、私の笛たちのことだけは覚えています……」


 言いながら彼女は何かに気付き、顔色を変えた。


「青葉の笛……あの、笛はもう一本、ありませんでしたか?」


 なぜか彼女は笛の事は覚えているようだ。


「君が着ていた装束の中には無いようだが……信太朗君、知らないか?」


「僕が車の中に落ちてるのを見つけたのは、その一本だけだです」


「そんな……大切な笛が……」


 彼女の悲しげな声。

 僕はどうにもたまらなくなり気がついたら大声で叫んでいた。


「その青葉の笛、俺が見つけ出してやるよ!」


「……」


「元の世界にも絶対戻してやる。記憶も取り戻してやる!」


「……」


「俺が連れて来ちゃったんだ。君のことは俺が責任を持つ!」


「……」


「大丈夫、絶対に見つかるよ!俺は敦ちゃんの味方だよ!」


 呆然としている彼女の顔を見つめ、僕は叫び終わった。

 次の瞬間、青ざめた。


 おいおい、気安く敦ちゃんなんて言っちゃったよ。姉ちゃんにつられちゃったんだ。

 絶対気持ち悪く思われたよ……。


 彼女は目をパチクリしている。


 だいたい、僕に何ができるんだ。タイムマシンを動かせるようにするのは蛭尾教授や姉ちゃんだし、記憶喪失を治すのは医者だ。


 でも、あの時の僕は、何かを変えたいと願いを込めてあのボタンを押したんだ。

 だから……。


 少女は僕から目線を外し、うつむいてしまった。


 やはり、引かれてしまったか……。


 数秒後、彼女はゆっくり顔をあげると、その燃えるような緋色の眼で僕を見つめた。


「信太朗様……ありがとうございます。よろしくおねがいします」


 僕は、彼女の笑顔を見て心臓がギュッとなった。

 自分の運命が大きく変わった事を確信した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ