後編15 蛭尾④
私と弘子君はそのまま大学に戻った。
大学図書館に行き、屋島の戦いとその詳細が記された文献を調べた。
はたして歴史は、変わっていた。
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「源義経の死と、平和な時代の到来」
寿永4年2月、源義経は嵐の中、海を渡ろうとして命を落としました。義経の死は、源氏軍に大きな打撃を与え、平家との戦いを長期化する要因となっていた他の武士たちからは、かえって歓迎されました。
実は、源頼朝は最初から平家を完全に滅ぼそうとは考えていませんでした。朝廷から坂東武士の自治権を認めさせることを目標としており、そのためには平家との和睦が不可欠だと考えていたのです。義経は、その計画を妨げる存在でした。
義経の死後、頼朝は全軍を鎌倉へ引き返し、平家との和平交渉を進めました。そして、数か月後、ついに和平が成立。日本は、東を源氏、西を平家が治めるという形になりました。
この和平によって、長きにわたる戦乱は終結し、日本は比較的平和な時代を迎えます。もし、義経が生きていたら、平家との戦いはさらに長期化し、多くの犠牲が出た可能性も考えられます。義経の死は、結果として日本に平和をもたらしたと言えるかもしれません。
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その後の歴史の流れ、元寇から建武の新政を経た後の、室町幕府から先の歴史は、我々が元々知っていた歴史とほぼ同じだった。
現代の日本の状況も以前と全く変わっていない。
弘子君は隣で深くため息をついた。
敦盛君や信太郎君のことは、文献にも教科書にもネットにも書かれてはいなかった。
せつなそうな彼女の横顔を見ていると、こっちまで心が苦しくなる。
私は図書館の館長に、他に資料がないか尋ねた。
館長はしばらく考え、いわゆる一級資料ではないが民間伝承に近いものならと、倉庫から持ってきてくれた。
数十分後、資料が運ばれてきた。
資料を読み進めるうちに私は興奮してきた。
その文書では、義経は、溺死したのではなく、討ち取られたのだとされている。
待ち構えていたのは、一の谷の戦いで戦死したと思われていた平家の武将平敦盛と、その従者信太朗を始めとした数人の武将たち。
義経の首は、屋島にいるの平宗盛の元へ送られた。
その首の返還を交渉材料にして、源平の講和が成立したという内容だった。
館長の話では、この資料のほかに平敦盛一行活躍の記述はなく、歴史学会では奇説の一種と扱われているらしい。
「弘子君、これは信太朗君が……。」
「はい。どうやらあいつは、使命を果たしたようです。」
彼女は淡々と言った。しかし資料を読む手は小刻みに震えていた。
その文書には続きがあった。
源平講和後、平敦盛は、屋島にいる父母と別れの挨拶をすると、旅に出て戻らなかった。
また、敦盛の従者信太朗は、源平和議の後、何の縁あってか、源氏方の武将熊谷直実の養子となった。
彼は熊谷信太朗直弘名を改め、武蔵国(今の埼玉県付近)に住んだ。
熊谷信太朗には美しい妻がおり、子宝に恵まれた。
生まれた子は熊谷直実の嫡子、小次郎直家の娘と婚姻し、その子孫は熊谷家の分家として家を支えた。
熊谷信太朗の妻は笛の名手で、家族内の宴席などで、興が乗ると、その腕前を披露した。
また、彼女が考案し広めた笹の葉で包んだお団子は地元の名物になったという。
最近発見されたという文献『熊谷家日記』の一部に記されていた話である。




