遅れてきたチョコレート
僕が柳井姉妹に初めて会ったのは、小学校に入学する直前のことだった。
引っ越してきたばかりで友達もいず、一人っ子なので遊び相手がいない。
たいてい家でテレビやDVDを見たりして過ごしていた。
ある日、お母さんに頼まれた買い物に行こうと外に出ると、隣の家の前で女の子が2人で縄跳びをしていた。
一人は僕より背が高くポニーテールをしていて4、5年生ぐらいで、もう一人はおかっぱで僕と同じ歳ぐらいに見える。
顔が似ているからきっと姉妹だろう。
二人ともお人形さんみたいな可愛い顔をしているけど、お姉さんの方が可愛い。
きょうだいのいない僕は姉妹で遊んでいるのが羨ましくて、じっと見つめていたら、お姉さんの方と目があった。
「一緒に遊ぶ?」
お姉さんが近づいてきてニッコリと笑った。近くで見ると、エクボがあってよりかわいく見える。
前の家の時は幼稚園に通っていて、男の友だちばっかりと遊んでいたので、女の子と遊ぶのは恥ずかしかった。
だけど、いつも一人でつまらなかったので、僕は頷いた。
「でも、お使いに行かないといけないから、帰ってからでもいい?」
「いいよ」
急いでお使いを済ませて、お母さんに買い物袋を渡すと、「遊んでくる」と言って、縄跳びの縄を持って家を飛び出した。
「どこに行くの?」と言うお母さんの問いかけを無視する。
二人の前に立つと、
「引越してきた隣りの家の子? お名前は?」
お姉さんが聞いてきた。
「直樹。河原直樹」
「私は柳井美香。4月から4年生。こっちは妹の由美。今度1年生になるの」
由美ちゃんは無心に跳んでいて僕の方を見ようともしない。
「僕も今度1年生」
「そう。由美、よかったね。お友だちができて」
由美ちゃんはお姉さんの言葉が聞こえなかったのか何の反応も示さない。
「跳ぼう」
美香さんは由美ちゃんの隣で跳び始める。僕も美香さんの隣で跳ぶが、すぐに引っかかってしまう。
縄跳びは苦手だ。
「跳べないの?」
美香さんが優しい大きな目で僕を見る。
「上手く跳べない」
「じゃあ、一緒に跳ぼう」
美香さんは僕の手を握ると、自分の縄跳びのグリップの片方を僕に渡した。僕は自分の縄を下に置くと、美香さんの縄のグリップを握った。
「回して」
僕がグリップを握って回すと、美香さんは僕の回すスピードに合わせてくれる。
美香さんが手を繋いだまま「跳んで」と言って、跳び上がった。僕も慌てて跳んだが、間に合わず引っかかってしまう。
「私が『はい』って言ったら跳ぶのよ」
2、3回は連続して跳べるが、それ以上跳ぼうとしたら引っかかってしまう。それでも美香さんが一緒に跳んでくれるうちに、連続して10回ぐらい跳べるようになった。
「もう一人で跳べるでしょう。由美もこうやって跳べるようになったのよね」
「うん」
由美ちゃんは返事をするが、やっぱりこちらを見ようとしない。
美香さんに教えてもらいながら跳んでいるうちに一人で跳んでも連続して10回は引っかからずに跳べるようになった。
その後も、時々、柳井姉妹と遊んだが、美香さんは話をしてくれるが、由美ちゃんは「うん」とか「ダメ」とか返事をしてくれるだけで、それ以上の話をすることはなかった。
小学校に入学すると、柳井姉妹と一緒に登校するようになった。
僕が一人で学校へ行くのが心配だったお母さんが、隣のおばさんに一緒に登校してくれるように頼んだみたいだ。
いつも僕、美香さん、由美ちゃんの順で横に並んで歩き、話をするのも僕と美香さん、美香さんと由美ちゃんという風で由美ちゃんは決して僕の方を見ようとも話をしようともしなかった。
美香さんは学校の友達の話や先生の話をしてくれたり、大きな道路を渡らないといけないような危ないところでは手を繋いでくれたりしてとても優しい。
僕はだんだん美香さんのことを好きになっていった。
男の友だちができて、その子たちと登校するまでの1年の夏休み前まで柳井姉妹と一緒に学校へ行っていたが、一度も由美ちゃんと話をすることはなかった。
由美ちゃんとは6年生のときに初めて同じクラスになった。
人見知りの性格なのかあまり喋らず、特に男子とはほとんど会話をしない。
由美ちゃんとまともに話をしたのは、日直で少し帰るのが遅くなって一人で帰っているときだった。
下を向きながら泣きそうな顔をして学校の方に戻ってくる由美ちゃんを見かけた。
「何しているの?」
あまりにも悲しそうな顔をしていたので思わず聞いた。
「ハンカチ落としちゃったの」
由美ちゃんは涙を浮かべている。かわいそうなので一緒に探してあげることにした。学校までの道を探しながら戻って行ったが見つからない。
「ないねえ。お母さんに失くしたって言ったら?」
由美ちゃんのお母さんはいつも優しい笑みを浮かべていて怒っているのを見た事がない。きっと許してくれるだろう。
「ダメ。ママのハンカチなの」
由美ちゃんが言うことによると、お母さんが使っているハンカチがあまりにも綺麗だったので、自分も使ってみたくなって、お母さんに黙って学校に持ってきたらしい。だから、どうしても見つけないと帰られないと言う。
仕方ない。もう一度由美ちゃんが帰った道を今度は家に向かって辿って行くと、溝があったので中に落ちているのではないかと見ながら歩いた。
しばらく歩いていると、溝の中に花柄の布が見えた。僕は溝からその布を拾い上げた。
「これ?」
由美ちゃんは僕の手にあるものを見て、みるみる青くなっていく。
「うん」
白地に花柄のハンカチには泥がいっぱいついていた。
「これ綺麗になるかな?」
由美ちゃんにハンカチを渡すと、心配そうに見ている。
「どうかな」
洗えば綺麗にはなると思うが、これだけ汚れていたら完全に元のように白くなるのか分からない。
「綺麗にならなかったらどうしよう」
由美ちゃんは泣き出した。僕は困ってしまったが、泣いている由美ちゃんをほっておくわけにもいかない。どうしようかと思ってじっと考えた。
「そのハンカチ貸して」
「どうするの?」
「僕が由美ちゃんから借りて溝の中に落としたことにする」
「どうして?」
由美ちゃんが目を丸くする。
「そうしたら、由美ちゃんは汚したことは怒られないだろう」
「でも……」
「いいよ。家に帰てって」
僕は由美ちゃんから奪い取るようにしてハンカチを持つと家に帰った。
「お母さん、由美ちゃんからハンカチを借りて溝に落としちゃった」
「どうしてハンカチなんか借りたの? 朝持っていたでしょう?」
そういえばお母さんからハンカチを渡してもらっていた。すっかり忘れていた。
「どこに入れたか分からなくなったから貸してもらった」
「もう。頼りないんだから。高そうなハンカチね。洗濯して落ちるかしら」
ハンカチを手に取って、お母さんは困ったような顔をする。
「とりあえず謝りにいきましょう」
お母さんと僕は由美ちゃんの家に行った。チャイムを鳴らすと、おばさんが出てくる。
「あら、河原さん。直樹くんも。何かありました?」
おばさんがいつもの穏やかな笑顔で問いかけてくる。
「直樹が由美ちゃんからハンカチをお借りして溝に落としたらしいんですの。申し訳ありません」
お母さんと僕は頭を下げた。
「まあ、そうなんですか。由美は何も言ってませんでしたけど」
お母さんが申し訳なさそうにハンカチを差し出す。
「あら、これ私の……。由美ったら勝手に持っていって」
おばさんはハンカチを見るとびっくりしたような顔をした。
「申し訳ありません。洗っても綺麗になるかどうか分からないので、弁償させてもらいます」
お母さんがそう言うと、おばさんはすぐに微笑んだ。
「そんないいですよ。由美が勝手に持っていたんですから。それに洗えば綺麗になると思いますし」
「でも……」
「いいですよ。直樹くんも気にしないでね」
おばさんは優しく言ってくれた。
「じゃあ、せめてうちで洗濯をしてお返しします」
お母さんは言うが、おばさんは手を振った。
「本当に大丈夫ですから。わざわざありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ本当に申し訳ありませんでした」
お母さんが僕の後頭部を押さえて頭を下げさせる。
「本当に気にしないでください。大丈夫ですから」
おばさんの言葉に送られて家に帰った。
夕飯の時にお父さんとお母さんに怒られた。由美ちゃんも怒られただろうか。ちょっと心配になった。
翌日、僕が教室に入ると、由美ちゃんが近づいて来る。
「昨日はごめんね。怒られた?」
「少しね。由美ちゃんは?」
「どうして勝手にハンカチを持っていったのかって、ちょっと怒られた」
「そう。よかったね。あんまり怒られなくって」
「うん。本当にごめんね。私のせいで」
由美ちゃんはまた泣きそうな顔をする。
「気にしなくていいよ。友だちだろう」
「うん」
由美ちゃんは僕がそう言うと、安心したような顔をした。
それから由美ちゃんとはちょっとずつ話をするようになった。
中学に入ると、由美ちゃんの性格が一変した。小学校の時には、恥ずかしがり屋であまり人と喋らなかったのに、誰とでも話をして、男子とでも平気で会話するようになり、テニス部に入って市内大会で優勝したりして活躍していた。
僕は文芸部に入った。文芸部といっても小説を書いたり詩を書いたりする人ばかりではなく、創作をせずに読んだ小説や詩の感想を述べ合いより深く作品を味わおうという人もいるクラブだ。僕は創作はできないので感想を言い合うグループの方である。
由美ちゃんとは同じクラスになったことはなかったが、偶然、クラブの帰りに出会った時などは一緒に帰ることもあった。
「少女マンガか」
僕は思わず呟いていた。
「少女マンガってなに?」
由美ちゃんが僕の顔を不思議そうに見た。
「うん。女子から意見が出て少女マンガも文芸部で取り上げてみたいって言うんだけど、少女マンガを読んだことがないんだ」
3年生になってクラブの中心になったが、10人いる文芸部で男子は僕と1年生の2人っきりで、新部長も女子がやっているので男子の発言力は弱い。
多数決で名作といわれる少女漫画を読み合うということになった。
「なんていう題名?」
僕が題名を言うと、
「それ持ってる。貸してあげようか?」
って由美ちゃんが言う。これは渡りに船だ。
「貸して」
「いいよ。家まで来て」
由美ちゃんの家の前で待とうとしたら、「探さないといけないから中で待って」と言われた。
小学校の時、一緒に遊んではいたが、家の中に入るのは初めてだ。少し緊張する。
「ただいま」
由美ちゃんの後ろから「失礼します」と言って入っていく。
玄関に出てきたおばさんが僕の顔を見て、「あら」と、言った。
「直樹君。珍しいわね」
「こんにちは。おじゃまします」
「どうぞ、上がって」
おばさんがにこやかに勧めてくれる。
「上がって。一緒に来て」
由美ちゃんに言われるままついていく。2階に上がると、ドアを開けてくれて「入って」と、由美ちゃんが言う。
女の子の部屋に入ったことがなかったので躊躇ってしまう。
「早く入って」
由美ちゃんに急かされて仕方なく入る。入った瞬間、すごくいい匂いがした。
「その辺に適当にに座ってて」
言われるがままに絨毯の上に座った。部屋には、机とベッドと壁に備え付けの本棚があり、きっちり片付けられている。僕の部屋なんかあっちこっちに物がほってあるが、さすが女の子の部屋だ。
由美ちゃんは本棚を見て盛んに首を捻っている。
「おかしいな。ここに入れといたはずなのに一冊もない」
コンコン。
ノックする音がしてドアが開くと、制服姿の美香さんがお盆を持って入ってきた。
「お茶持ってきたよ」
「そこに置いといて」
「ママが由美の友達がきているって言うから、てっきり女の子だと思ったら、直樹くんか。久しぶりね」
美香さんが僕の前に紅茶の入ったカップを置いてくれる。
美香さんは制服が可愛いと評判の中学から大学まであるカトリック系の女子高に通っていて、その制服がとても似合っている。小学校の時は可愛かったが、高校生の美香さんはすごい美人になっていた。間近で見るとドキドキする。
「はあー」
胸が高鳴りすぎて上手く言葉が出てこない。
「ごゆっくりね」
美香さんが出て行こうとすると、「お姉ちゃん」と由美ちゃんが呼び止めた。
「なに?」
「本棚からマンガ持っていったでしょ」
「借りてる」
「黙って持っていかないでよ。返して」
由美ちゃんが怒ったような顔をする。
「由美だって、私の部屋から勝手に服とか持っていくでしょう」
「ちゃんと後で断っているでしょう。いいから早く返して」
「はいはい。もう読んだからいいわ」
美香さんは肩を竦めると出て行って、すぐに本を持って戻ってきた。
「はい。なかなかよかったわ」
美香さんの手には5冊ぐらいある。結構あるなあ。でも、マンガだから読むのにそんなに時間はかからないか。
「今度から断ってから、持って行ってよね」
「分かったわ。じゃあ、またね。直樹くん」
美香さんが手を振ってくれる。その姿も綺麗で、思わずにやけながら手を振り返す。
「はい。これ貸してあげるから、帰って読んだら」
なぜか由美ちゃんは不機嫌な顔になって本を突き出す。
「うん」
どうして由美ちゃんが急に不機嫌になったのかよくわからなかった。
由美ちゃんに借りた本のお陰でクラブで感想を言うことができた。
その後も、時々由美ちゃんから本を借りた。マンガだけでなく持っていない本とかも借りて、逆に僕の本も貸してあげた。一緒に帰るときはお互いに借りた本の感想を言い合ったりもした。
クラブで感想を言うときはすごく緊張する。変な感想を言えば他の部員から一斉に攻撃されてしまう。
でも、由美ちゃんは僕のどんな感想にも感心してくれた。由美ちゃんと帰るときはすごくいい気持ちになった。
一緒に帰ったり、本の貸し借りをしているうちに僕と由美ちゃんが付き合っているという噂が流れ始めた。
由美ちゃんは可愛くて、勉強もでき、テニスも上手い。ファンが多く何人にも告られたが、全て断ったとクラスメイトから聞いたことがある。
僕と付き合っているから由美ちゃんに告っても断られるんだということらしい。
だが、それは誤解だ。
由美ちゃんと僕は単なる幼馴染だ。家が近いから一緒に帰ったり、本の貸し借りをしているだけで付き合ってなんかいない。
それに僕が好きなのは由美ちゃんではなく、美香さんだ。小学校の時からずっと美香さんのことが好きだ。初恋の相手だ。
美香さんは会うたびに綺麗になっていっている。美香さんとは道で出会っても緊張してしまって挨拶するのが精一杯だ。
だが、由美ちゃんは可愛いけど、ドキドキしたりしない。気軽に話すこともできる。
由美ちゃんにしても僕のことが好きなんてことがあるはずない。小学校のときはずっと無視されていたんだから。
高校受験が近づいてくると、「どこを受けるの?」と由美ちゃんが聞いてきた。家の近くの県立高校を受けるつもりだと応えると、「そう」と言った。
「由美ちゃんはどこ受けるの?」
「……」
由美ちゃんはニッコリ笑うだけで応えない。人に聞いといて応えないってどういうことだ。
僕は志望した通り家の近くの県立高校を受けて合格した。由美ちゃんも同じ県立高校に合格した。
ただ、由美ちゃんのお母さんは、お姉ちゃんと一緒の高校に行くと言っていたのに、突然県立高校を受けると言い出したので不思議で仕方ないと言っていたそうだ。
僕は高校に入学して塾通いを始めたので、クラブには入らなかったが、由美ちゃんはテニス部に入り、僕とは違う塾にも通っていった。
由美ちゃんは頑張り屋だ。
由美ちゃんは相変わらず男子の人気が高く、先輩や同級生から告られているようだが、全員断っているらしい。
そうなると、クラスは違うが、ときどき一緒に帰っている僕と付き合っているという噂がまた流れた。
どうしてイケメンや女子に人気が高い男子から告白されているのに断るのか由美ちゃんに聞いたことがあった。
「好きな人がいるから」
「そうなんだ」
由美ちゃんが好きな人ってどんな人だろう。
好きな人っていうのは、歳上の結婚している人かもしれない。由美ちゃんが読んでいるマンガや小説は不倫ものが多いから。
そんな由美ちゃんに遊園地に行こうと誘われたのは、由美ちゃんと美香さんと3人で一緒に初めて初詣に行った帰りだった。
大学生になってメイクをしている振袖姿の美香さんに僕はすっかり見惚れてしまい、由美ちゃんと楽しそうに話している美香さんの艶かしいうなじに目を奪われながら後ろからついて歩いていた。
「今度、3人で遊園地に行かない?」
突然、由美ちゃんが立ち止まって振り返った。
「えっ」
僕は虚を衝かれてギョッとして、もう少しで美香さんに後ろからぶつかりそうになった。
「お姉ちゃんに見惚れてたんでしょう」
僕の様子を見た由美ちゃんが冷やかすように言う。
「ち、違うよ」
僕はみるみる真っ赤になってしまった。
「直樹くんをからかってはダメよ。可哀想でしょう」
美香さんが由美ちゃんをたしなめる。
「からかってなんかいないわ。お姉ちゃんのうなじばかり見てたしょう? スケベ」
僕は図星を指されて、耳まで真っ赤になって返事ができない。その様子を見て由美ちゃんは目を細めて僕を睨んだ。
「2月11日の祭日だったら大丈夫よ」
美香さんは素知らぬ振りをしてくれる。
さすが美香さん。大人の対応だ。
「じゃあ、その日に行こう。直樹くんも空けといてね」
由美ちゃんはテニス部に入っているが、うちの学校は日曜、祭日のクラブ活動は禁止になっている。
「うん」
美香さんと一緒に遊園地に行けるなんてすごく嬉しい。
でも、由美ちゃんはどうして急に遊園地へ行こうなんて言い出したんだろう。今まで、美香さんとも由美ちゃんとも学校の行き帰り以外に一緒に出かけたのはこの初詣が初めてだ。
初詣も由美ちゃんに誘われた。由美ちゃんの考えていることがわからない。
まあいいや。美香さんと一緒に遊園地に行けるならそれでいい。
この機会を逃さず、美香さんに思い切って「好きです。付き合ってください」と告白しよう。
遊園地に行く日を一日千秋の思いで待った。
ついに待ちに待った遊園地に行く日が来た。窓を開けると、太陽が光り輝き雲一つない遊園地日和だ。
用意をして外に出ると、隣の家の前に美香さんたちが待っていた。
「ちょっと遅いわよ」
由美ちゃんが待ちくたびれた顔をする。美香さんは柔らかく微笑んで手を振ってくれた。
「ごめん」
一応、謝ったが、まだ約束の時間の5分前だ。由美ちゃんたちが早すぎるだけだ。
「行こう」
美香さんと由美ちゃんは手をつないで歩き出す。僕は二人の後をついて歩いた。
最寄りの駅から電車に乗って遊園地の近くの駅で降りる。電車の中では美香さんと由美ちゃんがずっと喋っていて、美香さんと話をすることができなかった。
遊園地の入場口の前に着くと、由美ちゃんが近づいてきて、「あとは二人でね」と耳元で囁き、「じゃあね」と言って入場口と反対の方へ走っていく。
「ちょっと由美どこに行くの?」
美香さんがびっくりしたように叫んだ。
由美ちゃんが走っていく方を見ると、見たことがあるテニス部の子たちが由美ちゃんに向かって手を振っている。
どうしてあの子たちがいるんだろう。
「もう由美ったら何よ。友達とも約束してたの? まったく。どういうつもりかしら。仕方ないわね。2人で行きましょう」
美香さんに促されて、一緒に遊園地の中に入っていった。ひょっとして、由美ちゃんは僕と美香さんをデートさせるためにわざとこんなことをしたのかな。
美香さんと二人でアトラクションに乗ったり、食事をしたりしてすごく楽しかった。
だが、僕は美香さんに告らなかった。告れなかったのではなく告らなかった。
もちろん美香さんのことは好きだ。メイクをし、大人っぽくって素敵だった。会話も楽しかったし、美香さんは昔と変わらず優しかった。
でも、美香さんといても何か落ち着かない。何か僕と美香さんでは違うような気がした。初めて二人っきりになって、僕は美香さんのことをお姉さんのように思う気持ちを恋と勘違いしていたのではないだろうかと思った。美香さんも僕を弟ぐらいにしか思っていないことが言葉の端々でわかった。
美香さんは由美ちゃんとスマホで連絡を取り合っていたので、帰りは遊園地の入場口で合流した。由美ちゃんの姿を見たとき、僕はなぜかホッとした。美香さんと一緒にいて緊張していたからだろう。
「楽しかった?」
由美ちゃんが僕に微笑みかけた。
「うん」
「よかったね」
「ちょっと由美。どういうこと?」
美香さんは由美ちゃんに詰め寄った。
「直樹くんへのバレンタインのプレゼントよ」
「はあー、なに言ってるの?」
「いいの。いいの」
由美ちゃんは僕にウインクをして、まだ納得のいかない顔をしている美香さんの腕をとって歩き出す。
そういうことか。
中学に入ってからバレンタインデーには、由美ちゃんは僕にチョコレートをくれている。
1年の時は「義理チョコよ」と言って、袋詰めの個包装になっているチョコを1粒くれた。2年の時は板チョコを1枚くれ、3年の時は有名ショコラティエが作ったチョコ1箱だった。なぜか毎年グレードが上がっていっている。
今年はチョコレートの代わりに美香さんとのデートということらしい。
帰りはなんだか心が和むような気がして由美ちゃんの顔ばかりを見ていた。
遊園地に行った翌々日、由美ちゃんと一緒に帰った。
「せっかく二人だけにしてあげたのに、お姉ちゃんにどうして告らなかったのよ」
由美ちゃんがすごい不服そうな顔をしている。
「チャンスがなかった」
「チャンスなんかいくらでもあったでしょう。あれだけ時間があったんだから。もうあんな機会作れないよ。まったく」
「うん」
告れなかったことを残念だとは思っていない。僕と美香さんではやっぱり違う。
「もうバカなんだから」
なぜか由美ちゃんは嬉しそうな顔をしている。
明日はバレンタインデーだ。プレゼントは、もうもらったからチョコはもらえないのだろう。由美ちゃんにチョコをくれないのか聞こうと思ったが、聞けなかった。
「また明日ね。バイバイ」
由美ちゃんは笑って手を振り門の中に入っていた。
結局、僕はチョコレートをもらえなかった。
バレンタインデーの朝、僕が台所に下りていくと、お母さんが目を真っ赤にしていた。
どうしたのかと聞いたら、由美ちゃんが死んだと言う。僕は信じられなかった。
昨日あんなに元気にだったのに。
嘘だろう。
お母さんは何か勘違いしているんだ。
学校に行くと臨時全校集会が開かれ、校長先生が由美ちゃんが信号無視の車に轢かれて亡くなったと、みんなに告げた。
頭が真っ白になり、心にポッカリ穴があいた。
お葬式のとき、涙で遺影を見ることができなかった。こんなに泣いたのは生まれて初めてだった。
由美ちゃんの家の前を通るたびに由美ちゃんが出てくるのではないかと、開かない門をじっと見て、涙が溢れてくる。
帰りにも知らず知らずのうちに由美ちゃんの姿を探していた。
いるはずもない由美ちゃんの姿をいつも探していた。
美香さんの姿を見かけることがあったがもうなんとも思わない。
僕は気づいた。
僕は由美ちゃんが好きだったんだ。
美香さんを好きだと思っていたが、それは美香さんの中の由美ちゃんと似た部分が好きだったんだ。
でも、もう遅い。由美ちゃんがいなくなって気づくなんて僕はバカだ。愚か者だ。一人で部屋にいると、とどめもなく涙が流れてくる。
でも、由美ちゃんは僕のことなんて、なんとも思ってなかったんだろうな。僕と美香さんとのデートを計画するぐらいだから。
由美ちゃんが亡くなって10日ほど経ったとき、美香さんが訪ねてきた。美香さんを見ても綺麗とは思うが、もう胸はときめかない。
「これ、由美の机の引き出しから出てきたの。よかったら受け取って」
綺麗な花柄の包み紙に赤いリボンがかけてある箱を僕に差し出した。リボンのところに封筒が挟んである。封筒には『直樹くんへ』と書いてあった。
「ありがとうございます」
僕は部屋に戻って、封筒を開ける。猫の絵が入った便箋が出てきた。
『バレンタインのチョコです。一生懸命作ったから不味くても食べてね。私は直樹くんのことが大好きです。直樹くんがお姉ちゃんのことを好きなのは知っているけど、お姉ちゃんの次でいいから私のことを好きになってくれたら嬉しいな。
イヤだ。やっぱりイヤだ。
私が1番じゃなきゃイヤだ。そうじゃないとお姉ちゃんに嫉妬しておかしくなっちゃう。私のことを1番好きだと言って。
なーんてね。ドキドキした? 全部冗談だよ(笑)
でも、直樹くんが好きなのは本当です。直樹くんが誰を好きでも私は大好きです。
(ウソだよ〜ん)
由 美』
由美ちゃんの悪戯っぽい笑顔が目に浮かび、声を上げて泣いた。
箱を開けて中に入っている形が少し歪な手作りのトリュフを一粒摘んで口に入れた。
バレンタインデーがくるたびにこのチョコの味を思い出すだろう。
甘いはずのチョコレートはなぜかすごくしょっぱかった。