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真紅の盃

某覆面企画参加作品です。タイトルを参加時のものに戻してみました。

　大坂の役の決着は戦国時代の完全終結を意味し、同時に徳川氏の天下掌握を意味する物でもある。

　栄華を誇った豊臣家も僅（わず）か二代で滅ぶ。

　秀頼と淀殿は自害し真紅の血の海に倒れ伏した。

　火が放たれて二人の遺骸を焼き、大坂城落城の炎で難波（なにわ）の夜空が真紅に染まった。

　その真紅の空は遠く京の都からも見えたと言う。

　大坂の役以降時代は変わって行く。

　戦乱の無い時代そしてやがては外国との交易を制限する鎖国。

　明治以降百四十年余りであるが未だ江戸時代の長さには追い着いていない。

　日本の文化や風俗の多くはこの時代の影響が色濃く残されており明治政府が最初にした事は徳川時代の破壊であった。

　それは今思えば大変な暴挙である。廃仏毀釈等其の最たるものだ。

　政府そのものが命令したものではないとは言え、結果的にその威を借りて破壊行動に出た輩（やから）は無数である。

　時代の変動は、時として人間を狂気に駆り立てる。「古き物是即ち悪」という余りに即物的な発想である。

　何れにせよ、大坂の役が日本の歴史の転換点であった事は紛れも無い事実である。

　そしてその中心に居たのが徳川家康でありその家康の一番近くで彼に仕えて来たのが本多弥八郎正信である。

　天下太平。共に目指した物であった。

　時には敵と味方に分かれた事もあった。しかし二人は紛れも無い友。戦友である。

　駿府城。

　徳川家康の隠居城である。

　家康は在位僅か二年で将軍職を三男秀忠に譲り徳川家が征夷大将軍の継承者の家系である事を天下に知らしめた。

　その実幕府の実権は未だに「大御所様」にある。

　その駿府城に二人の戦友はいた。

　日も暮れて蝋燭の灯りの中に老人の顔が二つ浮かんでいる。

「大御所様には大坂の戦の大勝利、誠におめでとうございまする」

　深々と頭を垂れて本多弥八郎正信は言った。目尻の皺がその人生の深さを物語っている。

「畏（かしこ）まるな弥八郎。今ここには儂とお主のみ。楽にせい」

　暑い訳ではないが額に薄らと汗を滲ませた家康は微かに笑みを浮かべた。

　肥え過ぎなのだ。

　正信はにやりとした。

「はは」

　家康の手招きに応じ彼は間を詰める。

「それにつけても千姫様のお命ご無事で何よりでした」

「ああ」

　余り関心がない様な声である。正信は眉を顰（ひそ）めた。

「あれは秀頼と淀殿の命を助けくれと申した」

「はい」

「あの時のあれの眼が今でも瞼に焼き付いておる」

　家康の感情は読み取れない。表情に全く変化がない。

　それ故千姫の助命嘆願が苦々しかったのかどうか、正信には判らなかった。

「お二人はご自害でございます故その」

「そうではない」

「は？」

　正信は家康の考えが判らない。

「あのような顛末にしたのはいかに取り繕おうとも儂だ。千はその事を見抜いておる。それを責める眼だった」

「……」

　正信は返答のしようが無い。千姫がそれ程の深い思いを抱いていたのか彼には判断しかねた。

「だが、もう忘れてしもうた。否、忘れる事にした」

「それが宜しいかと」

　正信は再び深々と頭を下げて応じた。家康は苦笑いをした。

「お主は昔からそうだな。場を読んで言葉を選ぶ名人よ」

「滅相もございません」

　正信は若干の照れ笑いをして答えた。

「お主だからこそ申すのだかな」

　家康は声を低くして正信に言った。

「儂は別に徳川家の為に豊臣を討った訳ではない」

「はい。承知しております。天下太平の為。日の本の民の為にございます」

「流石（さすが）よのう弥八郎。お主がおってくれたからこそ儂もここまで来られたのだ」

　家康は顔を綻ばせた。家康は面と向かってはあまり人を誉めぬ男である。

　正信は涙が溢れそうになったのを誤摩化す為顔を下に向けた。

　頬を掻くふりをしてそれを拭う。

「この太平がいつまでも続く事が儂の夢。しかしいずれ徳川も敗者となる日が来るのも世の必定」

　家康の声は真剣そのもので戯れの言葉とは思えない。正信はびっくりした。

　しかしそれは二百六十余年後現実の事となる。

「そのような事を…。大御所様のお言葉とは思えませぬ」

　正信の反論に家康は笑った。

「儂はそこまで自惚れてはおらぬ。清盛公も頼朝公も尊氏公も皆我が世の春が終わらぬとは思われなかったはず。あの太閤でさえもな」

「御意」

　正信はその言葉に納得した。諸行無常。平家物語の件を思い出すまでもない。

「だからこそ儂は待った。否、待てたのだ。いずれは儂の番が巡って来ると思うてな」

　家康の忍耐強さは有名である。一部創作の疑いすらある程苦労話が多い。事実創作はあるだろう。

「お待ちになった甲斐がございましたな」

　正信は晴れ晴れとした顔で言った。家康はにんまりとして真紅の盃を掲げた。

「さて今宵は飲み明かそうかの弥八郎」

「はは」

　正信も真紅の盃を掲げた。二人だけの酒宴が始まった。

　家康は元和元年(一六一六年)の四月に死去した。

　享年七十五歳。

　その直後正信は家督を嫡男の正純に譲り隠居した。

　そしてまるで家康の後を追う様にして同年六月死去した。

　享年七十九歳。

　二人共当時としては長命であった。

企画参加当時、「上から目線過ぎる」とご指摘いただきました。

多分、その理由は、私が明治維新否定派だからだと思います。

龍馬や大久保利通等の目指した日本とは違う道を歩み始めたのが明治だと考えていますので、その気持ちが作品に表れたのかも知れません。

ご不快な方は、どうぞご容赦下さい。