団地
T市の団地群の一つの棟の五階に、佳子は住んでいる。
彼女には二つ年上の夫と、今年三歳になる男の子がいる。
「寒い寒い」
年が明けてようやく冬らしくなり、朝晩の冷え込みが厳しくなった。
一昨日から故障している湯沸かし器のせいで、彼女は大鍋にお湯を沸かして洗い物に使っていた。
「さてと」
朝食の後片付けをすませ、風呂掃除をし、洗濯物を全自動洗濯機に放り込む。
佳子は居間のソファにグターッと寝そべった。
「テレビ、テレビと」
リモコンを操作し、電源を入れ、いつも見ているチャンネルに合わせる。
途端に画面に映ったのは「連続婦女失踪事件を追う! 事件の真相を透視する美人霊媒師!」という字幕だった。
「またァ。嘘臭いわね」
佳子はテレビを消すとリモコンを投げ出し、ソファから起き上がってキッチンに行った。
「もうこんな時間か」
壁に掛けられた時計は、十時五十分を指していた。
「お昼ご飯は何にしようかな」
佳子は冷蔵庫のドアを開いた。
ところがそこには卵が三個、使い切ったマヨネーズ、ほとんど中身の入っていない焼き肉のタレのビン、少しヨタったトマトが二個あるだけだった。
「あらま、いつの間にこんなに片付いちゃったのかしら? 買い出しに出かけなくちゃ」
彼女は寝室兼子供部屋に行った。
男の子が携帯ゲーム機を動かして遊んでいる。
「勇、お出かけするからゲーム終わりにしてね」
「はーい」
勇と呼ばれた男の子は、ニッコリ笑ってゲーム機をおもちゃ箱の中に片づけると、
「お母さん!」
と佳子に飛びつき、二人で部屋を出た。
「お父さんがチャリンコで行ったから、ブーブーで行けるよ、勇」
「わーい!」
佳子は勇を伴い、玄関を出た。
その時彼女は、ずっと離れた同じ階の部屋に、マネキンの脚のようなものが入って行くのを見た。
いや、見た気がした。
「何だろ、今のは?」
佳子が思案していると、勇がたまりかねたのか、
「早く行こうよォ、お母さーん」
と手を引いた。佳子はハッとして勇に目をやり、
「ああ、ごめん。行こっか」
「うん!」
二人が反対方向にあるエレベーターホールに向かって歩き始めた時、そのマネキンの脚らしきものが消えた部屋から、気味の悪い人相の男が顔を出して廊下を見渡し、スーッとドアを閉じた。
しばらくして二人は近所の大型スーパーに着いた。
その時だった。
「佳子じゃない?」
と声をかけられた。
佳子はハッとして振り向いた。
そこには彼女と同じ年頃の、大きなレンズの丸眼鏡を掛けたショートカットの美人が立っていた。
佳子はびっくりして、
「ミイコ! ミイコじゃない!?」
「久しぶりねェ。それもこんなところで再会するなんて」
「そうねェ。貴女、相変わらずお勉強?」
佳子はミイコの右手にある紙袋を見た。
エキナカにある大手の本屋のものである。ミイコは頷いて、
「ええ。何としても現役合格したいのよ。でないと、私の人生設計が狂っちゃうわ」
「夢は大きく持たないとね」
佳子がおどけて言うと、ミイコは少しムッとして、
「夢じゃないわよ。近い将来の現実。貴女が警察のご厄介になったら、タダで弁護してあげるわよ」
「何よ、それ?」
今度は佳子がムッとした。やがてミイコは勇に気づいた。彼女はしゃがみこんで、
「あら可愛い。この前会った時は、お猿さんみたいだったのに」
と勇の頭を撫でた。勇は佳子を見上げて、
「お母さーん、このおばちゃん、だァれ?」
「あらま、憎らしいことを! 私はね、お母さんと同級生なのよ」
ミイコは勇のほっぺを突っついて言った。勇はキョトンとして、
「ドウキュウセイって何?」
「あっ、そっか。お母さんとね、年が一緒なのよ」
「じゃあやっぱりおばちゃんだ」
勇は笑った。ミイコもつられて笑い、
「貴女も随分老けて見られてるのねェ」
と佳子を見た。佳子は溜息を吐いて、
「子供の年齢感覚ってわからないわ。先輩が遊びに来ると、『お姉ちゃん』って言うのよ」
「まァ。どういう感覚してるの、勇君?」
ミイコは勇を見た。
二人はその後もとりとめもないことを話しながら、買い物をすませた。
「ねェ、ミイコ、これから大学に戻るの?」
「いいえ。今日はもうおしまい。帰るわよ」
「なら私んちに来ない?」
「あら、いいの?」
ミイコは勇を見た。
勇はまだミイコをちょっとばかり怖がっているようだ。
私も夫の聖司も眼鏡をかけていないせいかも知れない、と佳子は思った。
「勇君は賛成してくれるかな?」
「いいわよね、勇?」
と佳子は勇の頭を撫でながら尋ねた。勇は佳子を見上げて、
「いいよォ。お母さんのお友達でしょ?」
「よし、これで決まり。さて、駐車場に行きましょうか」
今度はミイコが尻込みした。彼女は苦笑いをして、
「け、佳子、まさか貴女、ここまで車で来たの?」
「そうよ。勇を連れて歩いて来られるわけないでしょ?」
「そ、そうねェ……」
ミイコは顔を引きつらせたままである。佳子は変に思って、
「どうしたのよ?」
「だ、だってさァ、半年かかって、それもお情け同然で卒検受かった貴女の運転がどんなものかってことくらい、私だって知っているのよ」
「あっ! 私の運転技術を信用してないってこと?」
「そこまでは言ってないわよ」
ミイコは佳子に詰め寄られてタジタジである。そして考えあぐねた挙げ句、解決の糸口を掴んだ。
「そうそう。やっぱり行くわ。最近物騒なのよね、この辺。痴漢出まくりだし。ブティックとかデパートのマネキンがよく盗まれてるらしいの」
「マネキンが?」
佳子は出かける時見かけたマネキンの脚のようなものを思い出した。
「何か思い当たることでもあるの?」
「い、いえ、別に……」
ミイコは佳子の反応に納得していない様子だった。
ほどなく三人は団地の駐車場に着いた。
「あーっ、やっぱり怖かった。猫が飛び出した時は、猫より貴女の悲鳴に驚いたわ」
「仕方ないじゃない! 黒猫だったんだもの。何か不吉なことが起こらないといいけど」
佳子が神妙そうに言うと、ミイコは目を見開いて、
「あらま、貴女ってそういうこと気にするタイプなの?」
「そう。どうもそういうのって、気になっちゃうのよね」
佳子達はエレベーターホールに向かった。
「早速不吉なことが起こったわね」
とミイコが言った。エレベーターが故障中になっていたのだ。
「出かける時は動いていたのに。ホント、嫌だわ、黒猫」
「ハハハ」
ミイコは佳子の言葉に苦笑した。
三人が五階の佳子の部屋に着いた時、時計は十二時を回っていた。
「大変大変、お昼の用意しなくちゃ!」
「私も手伝うわ」
とミイコが言うと、佳子は満面の笑みを浮かべて、
「遠慮しとくわ、オコゲのミイコさん」
「あっ!」
今度はミイコが止めを刺された。彼女は肩を竦めて、
「わかったわよ。貴女、性格はともかく、料理はおいしいもんね」
「何よ、その言い方は?」
「まァまァ」
ミイコはキッチンから逃げ出し、リモコンでテレビをつけた。ちょうどワイドショーで婦女連続失踪事件をやっているところだった。ミイコは買って来たお菓子を一つ頬張り、
「またやってる。バラバラ殺人の後はもうこればっかりね。うんざりだわ」
「ええ? 何か言った?」
手を洗いながら佳子が尋ねた。ミイコは佳子を見て、
「何でもないわよ」
と答えた。勇はミイコから離れたところでとてもわかるとは思えないが、必死にテレビを見ていた。
「つまり、女性の失踪している場所、時間はバラバラでも、その女性達の住んでいたところに一致が見られるということですね?」
男性司会者の声が急にミイコの耳に入って来た。ミイコはテレビに目を向けた。
「そうなんです。その住んでいたところというのが、T市にある団地なんです」
女性レポーターが見せたパネルを見て、ミイコは仰天した。
「あっ、あの写真、この辺の団地じゃない?」
「何ですって?」
佳子は包丁を片手に居間に来た。そしてテレビに近づき、
「ホントだ。あれ、この辺よ。どうしよう? 犯人がこのあたりに住んでるってことだわ」
「うーん。怖いわね。マネキン泥棒どころじゃないわ」
ミイコと佳子は顔を見合わせた。
勇が不思議そうに二人を見上げて、
「どうしたのォ、お母さん、おばちゃん?」
「それがね……」
と佳子が説明しようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
佳子はドアに小走りで近づき、チェーンを掛けてから開いた。
「お昼時に失礼します」
そこに立っていたのは、制服姿の若い巡査だった。いわゆるおまわりさんだ。
「実はここ何日かの間に、あちこちでマネキン人形が盗まれているのをご存じですか?」
と巡査は切り出した。佳子はチラッとミイコを見てから、
「ええ。それが何か?」
「そのことで、ここの団地の方が何人か、マネキン人形を運んでいる男を目撃したというのです。一応店からも被害届が出ていますので、こうして団地の方にお伺いしているのです。奥さんはそのような男を見かけたことはありませんか?」
佳子はマネキンの脚のことを思い出した。そして、
「男の人は見かけていませんけど、マネキンの脚のようなものがある部屋に入って行くのを見かけたことはあります」
「それはどの部屋ですか?」
巡査は手帳にメモを取りながら尋ねた。佳子は、
「同じ階の一番端の部屋だと思います。ただ、はっきりと見たわけではないので」
と自分の証言の重大さに気づき、逃げ腰に答えた。しかし巡査は、
「ちょっとご一緒願えませんか? その部屋の方にお話を伺いたいので」
「ええっ? 私も行くんですか?」
佳子は不安そうにミイコを見た。ミイコは、
「勇君は私が見てるから。もしその人がマネキン泥棒なら、早く捕まえた方がいいし、そうじゃないなら、それも早くはっきりした方がいいわ」
「うーん」
巡査は真剣な目で佳子を見ている。佳子は、
「じゃ、行きましょうか」
「はい。ありがとうございます」
二人は廊下を歩き、その部屋の前に来た。
表札が出ている。「慶道寺真介」と書いてあった。
「随分厳めしい名前ですね」
佳子のはるか上で巡査が言った。
二人の身長は三十センチくらい違っていた。
巡査は佳子に目配せしてから、チャイムを鳴らした。
「何ですか?」
ドアが少し開き、むさ苦しい無精髭の男が顔を出した。巡査は、
「実はこの団地にマネキン人形泥棒がいるんです。貴方はそのような男を見かけていませんか?」
「いいえ、見たことありませんね」
男はドアを閉めようとした。巡査はそれを手で制し、
「ちょっと待って下さい。貴方の部屋にマネキン人形の脚が入って行くのを見かけた方がいるんですよ」
男はしばらく黙っていたが、やがて大笑いし始めた。
「何がおかしいんですか?」
巡査はムッとして言った。しかし男はニヤニヤしたままで、
「入りな。俺はマネキンなんか盗んでいねえよ」
とドアを開いた。巡査と佳子は導かれるまま中に入った。
「何この臭い?」
佳子はハンカチで口と鼻を押さえた。巡査も手で口と鼻を覆いながら、
「何でしょうね?」
男は部屋を仕切っているカーテンの前にいた。
「この向こうには俺のコレクションがある。これを見れば俺がマネキン泥棒じゃないってわかるさ!」
と男はカーテンを引いた。そこには美しく着飾ったマネキンらしきものが三体立っていた。
「やっぱりマネキンじゃないか!」
巡査は怒りの目で男を睨んだ。しかし佳子は真っ青になって、
「お、おまわりさん、マネキンじゃありません! こ、これ、人間、人間です!」
「!?」
巡査はびっくりしてよくマネキンらしきものを見た。
それは確かにマネキンではなく、紛れもなく人間であった。
蝋で塗り固められた、女性の遺体だったのだ。
「どうだ、これで俺がマネキン泥棒ではないとはっきりわかっただろう!」
男は勝ち誇ったようにけたたましく笑った。
その笑い声は五階中の廊下に響き渡った。