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第十二話 断れない逸話

 私は手紙のやり取りだけして急ぎエンリシュを離れました。もう恥も外聞もありません、とにかく早く帰りたかった。ジーベルン子爵から離れたかった。ただその一心で、カルタバージュへ戻りました。


 ジーベルン子爵との商談なんて、あれから何も進んでいません。口約束など守られるはずもなく、打ち合わせもできていないのですからご破算でしょう。そうに違いありません。もうエンリシュ行きのことはすっかり忘れたくて、私はバルクォーツ女侯爵へ手紙の返信を渡して、さっさと店に引きこもりました。


 数日は何もできず、ただ閉めた店の中で本の整理をするだけです。元々エンリシュ行きを一週間の予定で組んでいたので、早く帰ってきた分だけ休めるのですが——まったくやる気が起きませんでした。


 心配したのか、バルクォーツ女侯爵がやってきて、店の閉まった扉を叩くまでは。


 ガラスの向こうにうっすらバルクォーツ女侯爵の姿が見えます。来られてしまっては、居留守を使うわけにもいきません。


 私はしぶしぶ、店の扉を開けました。


「いらっしゃいませ。バルクォーツ女侯爵閣下」


 何だか不機嫌な声になってしまいました。それでも、バルクォーツ女侯爵は気にした様子どころか、むしろ私を心配してくれていました。


「どうした? 何かあったのか? エンリシュからとんぼ帰りをしてきて、まさかジーベルン子爵に何か言われたのか?」


 矢継ぎ早に問われ、私は慌てて首を横に振ります。


「ち、違います。その、いろいろと、あって」


 そのいろいろが、私にとってはとても大きなことで、不安で、どうしようもなく胸が痛いことなのですが、そんなこと他人にとっては知ったことではありません。それが分かっているから、言えないのです。


 美しい顔の人間には、顔にあざがあるような人間の気持ちなど分かるわけがない。そうも思えてしまって、あの元婚約者を思い出すようで、苦しいのです。


 でも、バルクォーツ女侯爵は店に押し入り、私を椅子に座らせました。何をするのかと思って見てると、店の奥のキッチンに向かっていって、テキパキと勝手知ったる家のようにお茶を淹れはじめ、温かい一杯のお茶を私のもとへ差し出してきたのです。たっぷりの砂糖と牛乳を添えて、バルクォーツ女侯爵はこう言いました。


「落ち込んでいたのだろう。よしよし、気にするな。誰だって、どんなきっかけで気落ちするやら分かったものではないんだ。しかし、私がエンリシュ行きを強制してしまったからそうなったのであれば、実に申し訳ない」


 困ったような笑みを浮かべて、バルクォーツ女侯爵は私へ温かいお茶を勧めました。


 そこまで言われては、断れません。私はお茶に砂糖と牛乳を入れて、一口飲みます。


 たったそれだけのことを、誰かにしてもらったことが遠い昔のようです。給仕のいたアンカーソン伯爵家はもうとっくに家ではなく、一人暮らしを始めて四ヶ月近く、ホームシックになる暇も理由もありませんでした。


 でも、心は張り詰めていて、ふとしたきっかけで緊張の糸が切れてしまったのでしょう。ジーベルン子爵の一件で、そうなってしまった。だから、こんなにも落ち込んでいるのです。


「閣下は悪くありません。私が、エンリシュで……ジーベルン子爵に無礼を働いてしまって」

「ん? あの男が無礼を働いたわけではなく? それもおかしいな?」

「えっと」


 どう説明すればいいのでしょう。ジーベルン子爵は私のスカーフを直そうとして、それがうっかりスカーフをずらして私の顔を露わにしてしまい、私はいたたまれなくなって逃げてしまった、ということが真相だと思うのですが、どちらが悪いということでもないような気がします。しかし相手は貴族、私が悪いと言われれば私が悪くなるのです。


 でも、バルクォーツ女侯爵に嘘を吐いても仕方がありません。私はそのときのことを伝え、スカーフを外しました。


「これを、ジーベルン子爵に見られてしまい、私はいたたまれなくなって逃げてしまいました」


 バルクォーツ女侯爵の目が、私の顔右半分に集中します。


 数秒ほどして、バルクォーツ女侯爵は落ち着いて、ふむ、と言いました。


「なるほど、それはまずいな」

「まずい、ですか?」

「ああいや、エミーがまずいわけではない。ジーベルン子爵がだ」

「はあ」

「わざわざ隠している女の顔を暴いて、傷つけてしまった男というのは、アスタニア帝国では極めて不名誉で……そういう逸話があってな、うん、だからあの男はきっとエミーに求婚しに来るぞ」


 いきなりの話に私は咳き込み、バルクォーツ女侯爵の愁眉の顔を見返します。


「ど、どういうことですか?」

「だから、ああそうか、エミーはワグノリス王国出身だから詳しくはないのか。説明するとだ、アスタニア帝国の貴族は平民の娘を嫁にする風習がある。だが、選ばれたくない平民の娘もいるのだ。顔を隠し、貴族に見初められないようにする。ところが、あるときそれを暴いてしまった貴族というものがいた。隠していた顔を暴かれた平民の娘はいたく傷つき、首をくくってしまった」


 バルクォーツ女侯爵は淡々と語ります。


「そのあと、その平民の娘と婚約していた男が、仇討ちにその貴族を殺した。しかし元はと言えば平民の娘の顔を暴いた貴族が悪い、ということになって無罪となった。以来、アスタニア帝国では貴族が、隠している平民の娘の顔を暴くことは禁忌なのだ」

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