小規模な冒険
息苦しい。上手く息が出来ない。
このままじゃ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。電車に乗ると、俺は何時もこうなる。
たった三十分。頭ではそう分かってるのに、一時間もないその時間が、永遠にも思える。
事の発端は、可愛い妹からのあるお願いだ。
「欲しい漫画があるの。新刊なんだけど、どうしても手に入らなくて。だから、買って来てくれない?」
俺の妹である彩は、恋に恋する乙女のように、クラスメイトのイケメン男子に憧れるよりも、クラスメイトのイケメン男子が、隣のクラスのイケメン男子と仲良くしている姿にときめく、正真正銘の腐女子だ。
そんな彼女が言う、漫画。それは、BLコミック以外にないだろう。
だから、俺は躊躇うように、「う~ん……」と声を上げたのだけど。
「お兄ちゃんだって、読みたい単行本が見付からないって、言っていたじゃない」
世間から美少女と評されるであろう妹が、意地悪く笑う。
「大きな本屋なら、お兄ちゃんの読みたがってる本も売ってるんじゃない?」
俺の妹は天使ではなく、小悪魔だったようだ。
そして、俺は逆らうことが出来ない愚かな人間だった。
そもそも、今の世の中、手に入らない物があるからって、店から店を探し回る必要はない。インターネットと言う、便利なものがあるのだから、それを利用すれば良い。
なのに、可愛い可愛い妹である彼女は、何故俺に態々「買って来て」なんて頼んだのか。
それは、とても意地悪な理由だった。
「だって、お兄ちゃんって、如何にも冴えない男子大学生って感じでしょ? そんな純朴そうな青年が、羞恥に耐えながら、BL本を買う姿って、何かときめかない? 萌えるでしょ?」
ホント、なんて妹だろう。兄に対して、萌えを求めるなんて。
まぁ、それに応える俺も、なんて兄なんだろうって感じなんだけど。
「……でも、可愛い妹のお願いを、無下には出来ないよなぁ」
俺は小悪魔な彼女のことを、世界一可愛い妹だと思ってる。
シスコンの兄と、腐女子な妹。
ホント、なんて兄妹なんだろうか。
「 」
到着した駅名を告げるアナウンスが、車両内に響く。
まだ十分くらいしか経ってない。電車を降りるには、まだまだだった。
車両内は、そこそこ混んでいる。
扉が開くと、女性が一人、電車から降りた。
空いたのは、ちょうど真ん中。端っこなら迷わず座っただろう。
逡巡したのは、時間にして数十秒。
俺が答えを出す前に、俺の目の前に居たスーツを着た男性が答えを出した。彼はゆったりとした足取りで、空いた場所へ向かった。
それを無意識に目で追ってしまっていた。思わず、恨みがましい視線になっていたかも知れない。
別に彼が悪いわけでもない。ただ俺が優柔不断だっただけだというのに。
慌てて視線を定位置に戻す。それは、誰とも視線が合わない足元。自分の履き慣れたスニーカーが見える。
目の前に居たスーツの男性が居なくなったことで、磨かれた革靴は視界から消えた。代わりに現れたのは、綺麗な革靴と正反対の今にも履き潰されようとしているスニーカー。
「……っ」
急に現れた靴に、驚いて顔を上げた。
目が合った。
「大丈夫? アンタ、顔色悪いな。しんどいのか?」
短髪の髪は艶のあるしっかりとした濃い黒で、太目の眉は凛々しく、薄い唇や目元にある黒子が色っぽいのに、瞳には子供のように無邪気な光があった。
爽やかな青年だ。
俺の目に映る彼は、正しく少女漫画に出て来るヒロインが恋するヒーローのようにカッコいい。
そんな彼は服装から察するに、少し前から同じ車両に乗っている、反対側の扉の方に居た青年だろう。
こんなにカッコ良かったなんて。妹が見たら、喜びそうだ。
勿論、少女漫画的な意味ではなく、BL的な意味で。妹ならきっと彼の恋愛遍歴を勝手に妄想して、薔薇の住人にしてしまうだろう。
思考に集中して何も答えないまま、青年を見詰めて、ボーっとしていたら、不意にガタンっと電車が揺れた。
バランスを崩して、踏ん張ることも出来なくて、前へと体が傾く。
(倒れるっ!?)
そう思った瞬間、俺は逞しい胸に顔を埋めていた。
(何、これ?)
状況を理解しようと、混乱した頭を必死に動かした瞬間。
急に背中の感触が、鮮明になる。
顔を埋めた胸と同様に、逞しい腕が僕の背中に回されていた。そう気付いたことを見計らったように、回されている腕が一瞬強くなって、ぎゅっとされる。
「ビビった。今、スゲー揺れた」
直ぐ傍で聞こえた声に我に返って、慌てて胸から顔を上げ、彼から離れて、扉の隣の壁に持たれた。
「すみません……っ」
訳が分からないまま、兎に角謝る。
視線は青年の顔ではなく、履き潰されそうなスニーカーへと向けた。
「ん? 何で、アンタが謝んの? 謝るのは、寧ろ俺の方じゃない? 思わず、抱き締めちゃったし」
顔を上げなくても、青年が笑ったのが気配で分かる。
彼は行き成り胸に飛び込んで来た男を、バカにしているわけじゃなく、気にしてないと笑い飛ばしてくれた。
「それより、アンタ、しんどいんだろ? 顔、さっきから、スゲー辛そうにしてる」
「あっ、いや、これは……」
「体の具合でも悪いの?」
「そう言うんじゃなくて、俺、電車に乗るのが苦手で……居心地が悪いと言うか、不安になると言うか……」
そう口にして、青年の言葉に引っ掛かるものがあった。
「……さっきから?」
思わず、真意を測るように、視線を足元から、青年の顔へと向ける。
「うん。電車に乗って、先に乗ってたアンタに気付いた時から」
それがどうしたと言わんばかりのあっさりとした彼とは反対に、俺は気まずさに逃げ出したくなった。
死にそうな顔をずっと見られていたなんて、恥ずかしさの余り、本気で死ねそうだ。
「 」
また駅名を告げるアナウンスが車両内に流れた。
到着した駅で降りる人は居なくて、代わりに人の波が車両内に流れ込んで来る。このまま人の波に押し潰されるだろうと、憂鬱な気持ちで覚悟を決めたけど、その時はやって来なかった。
「混んで来たな」
気が付けば、青年が俺の顔の両隣に手を着いて、少し隙間を作ってくれていた。
お蔭で、息苦しさはさっきと変わらない。ただ、彼との距離が少し近付いただけだ。
(人の波から守ってくれた?)
多分、助けて貰っているのだから、お礼くらい言うべきか考えながら、頭の片隅では彼にぶつけてしまいそうで、俯くタイミングを失ってしまったと思ってしまっている。
「アンタ、何処で降りるの?」
精一杯の抵抗で、彼の首元を見ながら答える。それに、彼が、
「奇遇だな」
と、笑ったのが、また気配で分かったから、視線を上げて見る。
彼はまるで少年のように、快活に笑っていた。
余りの無邪気さに、毒気を抜かれる。
「ありがとう」
気が付けば、迷っていた言葉を素直に口にしていた。
「どういたしまして」
返って来たのは、やっぱり快活な笑顔。
じんわりと胸が温かくなって、息苦しさが少しマシになった。
どうやら、一緒の駅で降りるらしい彼。乗車時間は、残り二十分。
俺と彼はどちらがともなく、会話することを選んだ。
「アンタ、名前は?」
「赤川」
「下の名前は?」
「清」
「俺は、青山 豪。よろしく」
「よろしく」
「歳は幾つ?」
「二十一。大学生」
「なら、年上だな。二十歳、俺も大学生だ」
「キヨさんって、呼んで良い? 俺のことも名前で呼んで良いから」
「あっ……あぁ、えっと、それじゃ、ゴウくんって呼ぶよ」
「ん。オッケー」
青年、改め、ゴウくんの強引さに、少し戸惑った。
もしかした、ゴウくんは、凄くゴーイング・マイ・ウエーな人なのかも知れない。すっかり、彼のペースだ。
けれど、不思議とイヤじゃない。
それはゴウくんの瞳にある光が、キラキラと眩しいからだろう。まるで、初めましてでも、直ぐに仲良くなれた子供の頃に戻った気分だ。
簡単な自己紹介を終えると、その延長として、話題は趣味の話になった。
俺は読書と映画鑑賞。ゴウくんは、旅行や山登りに釣り。
「まぁ、他にも色々あるけど」
彼は多趣味な人らしい。インドアとアウトドア、見事に分かれた。
それは、
「何か、予想通りって感じ?」
「だな」
余りに見た目通り過ぎて、二人して笑う。
ヒョロっとしたもやしな俺と、がっちりとした良い体格のゴウくん。趣味と同じで、見た目も正反対だった。
趣味の話は、結構盛り上がった。
俺とゴウくんは、本当に子供に戻ってしまったみたいだった。
気まずさなんで全然なく、ゴウくんがどこどこの山の景色が綺麗だったと言ったら、誰々のこの本が面白かったと俺が言って、またゴウくんがどこどこに行ったのが楽しかったと言って、俺がまたあの監督のあの映画が面白かったと話す。
極め付けには、つい口にした「行ってみたいなぁ」と言う俺の一言に、彼は「今度、一緒に行こう」と誘ってくれる。
冗談だと分かっているけれど、今度の話をするなんて、今から遊ぶ為に同じ目的地に向かっている友達のように錯覚して、何だか楽しくなってくる。
だから、ふわふわした気分で、冗談を返す。ゴウくんが「面白そう」と言ってくれた映画に、俺も誘った。
「それも、良いな」
そう言って笑ってくれるゴウくんは、まるで夏休みの計画を立てる少年のように、キラキラと目を輝かせていた。
それに、自然と口角が上がる。
「だろ?」
意味も無く、ヘラヘラと笑った。
電車に乗って笑うなんて、何気に人生初の経験かも知れない。
自分の履き慣れたスニーカーでもなく、磨かれた革靴でも、ヒールの高いハイヒールでもない視界。
俺の視界は精悍な顔立ちの青年、ゴウくんで一杯だった。
彼と話して、声を上げて笑っていたら、気が付けば息苦しさは無くなっていた。
息苦しさが無くなれば、自然と遅かった時間の流れが速く感じる。乗車時間は、残り十分もない。
「キヨさんってさぁ」
「何?」
「綺麗な顔してるよな」
「えっ……?」
戸惑ったのは予想だにしない言葉だけじゃなく、ゴウくんが纏う空気が変わったからだ。
さっきまでは快活な笑顔だった表情が、艶のある笑みに変わり、瞳の奥もキラキラと眩しいものじゃなく、熱っぽいものに感じる。
急に喉の渇きのようなものを感じて、ごくりと唾を呑んだ。
「そう、かな? そんなことないと思う、けど……」
声が震えている気がした。
(気の所為、だよな?)
ゴウくんは、艶やかな笑みのままだ。
いや、浮かべられている笑みが深くなった気がする。
(……これもきっと、気の所為だ)
必死に自分に言い聞かせる。でないと、またしても、彼のペースに流されてしまう。
この空気は何だか落ち着かなくて、抗いたかった。
「言われたことない?」
「無いよ……妹は、よく可愛いとか言われてるけど……」
「なら、妹さんは、キヨさんに似てるんだ。可愛いんだろうな」
やっぱり、ゴウくんはゴーイング・マイ・ウエーだ。抗うことを許さない。
「うん。可愛いよ。妹は……っ」
世界一可愛い。
兄バカな発言で、空気を壊そうと思ったのに出来なかった。
「大丈夫? もう顔色は悪くないみたいだな。寧ろ、赤い。熱でもあるのか?」
不意に近付いた顔。
かぁーっと、顔が熱くなる。
ゼロ距離に我慢出来なくなった。
思わず、俯く。
(落ち着け。体調を心配してくれているだけだ)
「大丈夫、だから……心配しないで良いよ」
そうやっとの思いで口にしたのに、神様は意地悪だ。
不意に、ガタンっと一際大きく電車が揺れて、
「「……っ!」」
人の群れに押されたゴウくんの体が、俺に覆い被さって来る。
体が密着して焦った。
早鐘を打ち始めた心臓の音や、熱くなった体温を気取られてしまうんじゃないかと、軽くパニックだ。
「、」
何か言いかけたゴウくん。
その口を塞ぐように、またしても、電車が大きく揺れた。
瞬間。
「「……っ!!」」
塞がれたゴウくんの唇が、俺のおでこに当たる。ふにっとした、柔らかい感触に体が震えた。
ゴウくんは人の群れを押し返すようにして、密着していた体を離して、また少し隙間を作ってくれた。
当然、おでこにあった柔らかい感触はなくなった。
「 」
もう何度目かの駅名を告げるアナウンスが、車両内に響く。それは終点であり、俺とゴウくんが降りる駅だった。
「着いたな」
そんなゴウくんの呟きを合図に、扉が開いた。
「降りようか」
その言葉に促され、俺は人の波に流されて、電車を降りた。
あっさりとしていた、ゴウくん。
(やっぱり、気の所為だったのかな)
電車を降りて、人の多さに一瞬たじろぐ。
(えっと、どっちに行けば良いんだっけ)
キョロキョロと視線を彷徨わせていると、まだ隣に居てくれたらしいゴウくんが、くすっと笑った。
「改札はこっちだ。行こう」
ゴウくんが俺の手を取って、歩き出す。
手を繋ぐなんて、本当に小さな子どもに戻ったみたいだ。思わず、まじまじと繋がれた手を見てしまう。
タイムスリップしてしまったかのような不思議な心地で、繋がれた手から視線を逸らさせないまま、ゴウくんに引っ張られながら、改札口へと歩いた。
改札口を出てからも、直ぐ「さよなら」とはならなかった。
勿論、折角友達になったのに、バイバイするのが寂しいと言う、子供っぽい理由じゃない。
けれど、それ以上に情けない理由だと思う。
「大丈夫?」
「あっ、うん……」
「……行かないの?」
「えっと、どうやって行けば良いのか分からなくて……」
情けなさの余り、声が尻すぼみに小さくなっていく。
でも、気にした風もなく、ゴウくんは「そっか」と言って聞いてくれた。
「何処に行きたいの?」
ゴウくんに妹が言っていた大きな本屋さんの名前を告げると、何故か満足そうに頷く。
「それなら、良かった」
「?」
「俺の目的地も、そこだよ」
そう言って笑うゴウくんは、運動会の駆けっこで、一位を取った子供のように得意げだった。
そんなわけで、またしても俺はゴウくんに手を取られ歩き出した。
「じゃあ、俺はここに用があるから」
本屋さんに着いて早々、俺はそう切り出した。
視線で問う。
(ゴウくんは?)
「俺は三階だな」
「なら、ここでお別れだね」
「あぁ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「「じゃあ」」
どちらがともなく、そう口にして、俺とゴウくんは分かれる。
少し歩いてから、振り返った。
エスカレーターで、上へと上がって行くゴウくんの姿が見える。彼が向かっている三階は、漫画の売り場だ。
ゴウくんは見るからに、本を読みそうにない。
(予想通りだ)
まず、一階で自分の目当ての単行本を探すことにした。
流石に彼と手を繋いで、BLコミックを探しに行く勇気は無かった。
目当ての単行本は以外にも、拍子抜けする程あっさりと見付かった。
(早過ぎる)
早過ぎて喜び以上に、近所の本屋の品揃えの悪さに、遣る瀬無さが込み上げた。
まだ五分も経っていない。これじゃあ、ゴウくんはまだ三階に居るだろう。
仕方ないから、二階に上がって、時間を潰すことにした。十分くらい待ってから、三階に上がった。
BLコーナーが近付いて、思わず足を止めた。
ついでに息すら忘れて、心臓を止めてしまいそうだった。
(どうして?)
視線の先には、見覚えのある逞しい背中。
それは、少し前まで、俺の隣に居た彼だ。
彼の手にある数冊の漫画は、BLコミックだろう。だって、小さく見えるタイトルの文字は、どれも妹から聞いて来た、際どいもの。
きっと、妹の欲しかった新刊だ。
BLコーナーに、ゴウくんが居る。
余りに無邪気な横顔に、ここは本屋ではなく電気屋なのではないかと思えてくる。そして、彼はゲームコーナーで、ゲームソフトを物色しているのだ。
そんな現実逃避に没頭していたら、視線を感じたのか、気配を感じたのか、ゴウくんが振り返る。
目が合った。
「……っ!」
「キヨさん?」
驚く俺とは反対に、ゴウくんは落ち着いていた。
見られたくない所を見られたと言う気まずさはない。寧ろ、純粋に再会を喜んでいるかのように、ゴウくんが笑った。
それに笑い返す余裕もなく、うわ言のように呟く。
「……リアル腐男子」
「キヨさんもだろ?」
「いや……違う。俺は、妹に頼まれて……」
偶々、通り掛かっただけなんて、見え透いた嘘は吐かなかった。素直に答えた。
それを、ゴウくんは信じてくれたようだ。
「そっか、残念。振り返って、アンタがそこに居た時、ちょっと期待したんだけどな……」
俯いてそう言うゴウくんの声は、言葉通り、ホントに残念そうに響いた。
「、」
何て言えば良いのか、言いたいのか分からないまま、口を開けば、
「でも、まぁ、良いか」
と、切り替えるような明るい声が、先に響いて、
「俺も、少し違うしな」
そんな言葉が続く。
「えっ……?」
混乱して、声を上げれば、ゴウくんが顔を上げた。
ゴウくんは、ニッコリと笑って告げる。
「俺は、本物だよ」
「っ! それって……」
言葉の意味を瞬時に理解して、目を見開く。
ちゃんと最期まで言葉にならなかった俺の声に、ゴウくんは肯定するように頷いた。
それから、またしても、ゴウくんの纏う雰囲気が変わる。爽やかなものから、妖しげなものへと。
「電車で、アンタを見付けた時に思ったんだ。この人、タイプだなぁって」
「俺、キヨさんのこと気に入ってるよ」
「アンタ、男に興味ない?」
彼は山へ行こうと誘ってくれた時と同じ軽やかさで、俺を薔薇の世界へと誘う。
浮かべている笑みは、勿論正反対の艶やかで甘い笑みだ。
妹が妄想するまでも無く、彼は薔薇の住人だったようだ。
電車でのゴウくんとの二十分間が、脳裏に過る。
瞬間、俺の中で、直ぐに答えは出た。
「ない、よ」
「……」
「男に、興味はない」
俺の初恋は、中二の時だった。
遅すぎる初恋の相手は、クラスの一番美人でもなく、担任の新任教師。相手は彼女と表すことの出来ない、気弱そうな眼鏡を掛けた男だった。
彼はヒョロっとした外見とは裏腹に、大抵のことは笑い飛ばす豪快な人で、当時繊細さを拗らせて、気が弱かった俺は彼に憧れた。
中学三年間、彼の後を着いて回り、自然と今の俺を構築した。
アウトドアが好きになったのも、彼の影響。
そのお蔭で背が高いだけだった体はしっかりして、今では昔の自分からは想像出来ないくらい、体格の良い男になったと思う。
なのに、何故あの人は、あんなにもヒョロっとしていたのか不思議だ。本人は、筋肉が付きにくい体だと言っていたけれど。
電車に乗って彼を見付けた時、驚いて目を見開いて、思わず凝視してしまった。
乗った電車は、タイムマシンで、俺はタイムスリップしてしまったのかと思った。
だって、五年も経ったというのに、彼は全然歳を取っていなくて。寧ろ、若返っている気がした。
そう思って、気付く。やっぱり、タイムスリップなんて、あるわけなかった。彼は初恋の人じゃない。よく似た別人だ。
あの人は、あんな儚げな表情をする人じゃなかった。
反対側の扉の横の壁に、背を預けて俯いている彼。
辛いのか、何かに耐えるようにぎゅっと唇を噛み締めている。顔色は蒼く、良くない。今にも倒れてしまいそうだ。
そんな彼から、目が逸らせない。
綺麗だ。
弱っている人間を前にして抱くには、余りにも不謹慎な感想が浮かんだ。
博物館で芸術品を前にしているかのように、細く感嘆の溜め息が漏れる。青白い肌も、伏せられた長い睫も、色素の薄い柔らかそうな髪も、全てが俺の心を奪った。
そう言えば、あの人を相手に、「綺麗だ」なんて感じたことはなかったなと、ぼんやりと思う。
やっぱり、彼とあの人は全くの別人だ。
電車と言う名の荒野に咲く、一輪の花。
一生懸命咲く花に、俺は思わず手を伸ばしてしまった。支えることも、手折ることも出来ないと言うのに。
「そっか……」
ゴウくんは淡く微笑んでいる。
何処か諦めたような、静かな笑みだった。俺が口にした言葉を予想していたのかも知れない。
けれど、未来なんて誰にも分からない。
ゴウくんにも。勿論、俺にも。
「でも、ゴウくんには興味あるよ」
そう言って、ゴウくんの隣まで歩いて、傍にあったBLコミックを数冊手に取った。
それから、チラリとゴウくんの顔を見る。
ゴウくんは、ニコニコしていた。どうやら、俺の気持ちは伝わったらしい。
目が合うと、ゴウくんは無邪気に笑った。やっぱり、その笑みはもう直ぐ成人する男だとは思えない、眩しい少年のような笑顔だった。
「俺、初デートは、山登りが良いなって、ずっと思ってたんだ」
「そこは普通、遊園地だろ? と言うか、碌に運動もしてないヤツが、行き成り山登りとか無理だって」
「確かに。仕方ない、初デートはキヨさんに譲るよ。見たい映画とかある?」
「勿論」
「じゃあ、連絡先を交換して……」
「その前に、レジに行かないか? お互い、まだ買い物が終わってないだろ?」
「ん。分かった。でも、後で、やっぱりナシは無しだからな」
「ハイハイ」
ヘラヘラと笑った男が二人、BL本を手にしながらエスカレーターに乗っている姿は、他の客の目にはさぞかし奇異に映ったことだろう。
そう思いながら、俺はゴウくんと二人仲良く、本屋を後にする。互いの連絡先の交換と、次に会う日の予定を話し合いながら。
一時間半の小さな小さな冒険の先に待っていたお宝は、ずっと読みたかった本と、妹が欲しがっていた漫画の新刊。
それから、逞しくてカッコいい恋人だ。このお宝を、妹に見せれば大喜び間違いなし。
世界一可愛い俺の妹は、小悪魔ではなく、恋のキューピットだったようだ。