17.自分では間に合わない。なら、迷うことはない
シロナガス公園。
男はマドカを押さえつけたまま喋っている。
「これから二人ですることを言うよ。まずは、キスだ。キスをしよう。軽いキスに始まって、やがて深いキスへとね。いろんなキスを楽しもう」
マドカは強くかぶりを振る。
「そのあとは、君のさらさらした肌を楽しむこととなる。僕の手はざらざらしているので多少はくすぐったいかもしれない。でも、大丈夫。最初だけだから」
「イヤです。やめてください」
マドカが震える声で言うと、男は大袈裟なため息をつく。
「あのね、もうね、こういう状況になったら、あきらめるしかないわけ。潔くあきらめる。で、後は楽しもうと考える。切り替える。それがこうした状況における合理的な判断であり行動であり、トラウマから心を守るための有効な手段だよ。自分も楽しむことにしたという決断が心の傷を浅くするんだ。君のためを思っての、これはアドバイスだ」
それを聞いたデビーは思わず急降下しかけた。
そのとき、カヤの声が頭に届く。
「デビーさん、いまの状況は?」
「かなりまずい」
カヤは猛スピードで空を飛んでいる。
乾ききっていない髪からしずくが光となって後方に流れていく。
デビーの声の調子から事態が切迫していることがわかった。
自分では間に合わない。なら、迷うことはない。
「いますぐ、マドカを助けて」
「いいのか。夜の活動は禁止されてるんだぜ」
とはデビーは言わなかった。
こんなときにそんな押し問答は不毛でしかない。
羽根をスッと閉じ、一直線に落下する。
「君はキスは初めて?」
と男が言い、顔を近づける。
「あれ?」
と首を傾げたのは、マドカが気を失っていることに気づいたからだ。
「なんだよ、これじゃ一方的過ぎない? 目、覚ましてよ」
男が身を起こしマドカを抱き起こしたとき、地面が揺れた。
「え、なに?」
男が顔をあげる。真正面に異形の生物の顔があった。
暗闇でもわかるほど忿怒の念が放射されている。
男は首ねっこをつかまれ、身体が浮き上がるのを感じる。
腕からは少女が転がり落ちた。
(ああ、もったいない……)
彼が覚えているのは、そこまでだ。
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カヤがひとりで登校している。
後ろから駆けてくる足音がする。
カヤが振り向くと、ランドセルを背負った小学生が追い越していった。
その後ろ姿を見て、カヤは軽くため息をつく。
あの夜の次の日からマドカは学校を休んでいた。
表向きの理由は夏風邪だ。
マドカが心療の専門医にかかっていることはデビーの調査によってわかっていた。
「さすが沖田先生だ、国内でもっとも信頼がおけるお医者さんにお願いしたそうだぜ」
とのことだ。
もう一つ、デビーが報告したことがある。
マドカを襲ったあの男のことだ。
彼はいま、山奥の森のなかの病院にいる。
毎日、起床したあとは自分の足のつま先をしげしげと眺め続けているという。
自分が誰なのかが分からなくなっているそうだ。