不公平な世の中
眠りに落ちて、船に揺られているような感覚の中、名前を呼ばれて目を開けたら、綺麗な顔が私を覗きこんでいた。
「だれ?」
「約束したでしょ?」
「約束……?」
吸い込まれそうな黒い大きな目をぼんやりと眺めた後、右耳の三日月型のピアスが目に入り、朧げながら思い出した。
「十色?」
「思い出した?」
「なんとなく…」
気持ちのいい風が吹き抜けたような気がして、辺りを見渡すと、青臭い植物達が擦れる匂いが頬を掠った。
遠くに、風に揺られた木々がざわざわと葉音を立てる。
強く風が吹いても身震いする事もなく、爽やかに感じるなんて、これは夢だね。
空も、いつか見たような満天の星空。
そこは、夜の草原だった。
隣にいるのは、いつか見たような…懐かしい雰囲気の黒い目の美しい少年。
私は、夢での出来事を全て覚えていられるほど、記憶力は良くは無い。だから十色の存在はひどく曖昧だ。
ころん、と、草の上に寝転ぶ。
植物の冷たさは感じなかったが、湿った土の匂いが鼻を突いた。
(天国ってこんな感じなのかなぁ)
あまりにも空気が気持ち良くて、そんな風に考える。
「天国にパジャマで来るって……」
自分の服装を見て苦笑する。
「天国?」
一緒に寝転んでいた十色が、体を起し不思議そうに首を傾げた。
「天国ってこんなとこかなぁって、思って…。次に来る時はお洒落してくるよ。パジャマって恥ずかしいでしょ?」
星空から目を離し、十色の居る方を向く。う~ん。どっちを見ても目の保養になる。
十色も私に向き直って、大きな目を見開いて「ここは天国なの?」と不思議そうに聞いてくる。
「私には分からないよ。でも、そうすると十色は天使? それとも悪魔?」
「面白いこと言うね」
「十色は悪魔って感じじゃないから…死神なのかな?」
十色は起き上がって私を覗き込むと、くすくす笑う。
「ボクにはよく分からないけど。ボクはボクだよ?」
「そうだね。私も私だもんね」
2人で降ってきそうな星空を見上げて、心地いい沈黙に心を委ねた。
「神様って、いると思う?」
突然に話し始めた理由は、心の内を誰かに聞いて欲しかったんだと思う。
「どうして?」
十色は意味が分からないという風に首をかしげて、私の顔を覗き込んだ。
「私は、いないと思うの」
「なんでそう思うの?」
「だって私、何にも信じられないもん」
十色は不思議そうに又、首を傾げた。
「だって、神様って不公平なんだよ。性格悪くても幸せになる人は沢山いるし、どんなに真っ直ぐ生きても幸せになれない人も沢山いるでしょ? 世の中って本当に不公平だと思うの。本当に神様がいるならもっと平等に人間を作るべきだって思わない? 私この9年間、いつも同じ事を願ってた。髪の毛ください。病気治してくださいって、初詣も、七夕も、恵方巻も必死で食べた。良い子であるように努力もした、でもね、何にも叶わない…信じる事には疲れたよ。もう、開放されたい。神様がいるとしたら、とても無責任だと思う」
初めて、ひねくれた心の内を言葉にした。
「ふうん? 難しい事言うね?」
十色は、やっぱり私の言葉を理解できてないようだ。
「そお? 私はずっと昔から考えてたよ。でもね、これ、言葉にすると、大人は同じ事ばかり言うの。頑張れば必ず報われるから頑張れとか、諦めちゃだめだとかね。もっと辛い人は沢山いるとかね。そんな言葉、テレビや小説の受け売りでしょう? だから、もう言わない。へらへら笑って頑張るから応援してねって言うようにした。大体ね、もっと辛い人は沢山いるって言われても、私が辛いんだよ? 私が救われたいの。他の人がどうとか、関係ないんだよ。誰も私の言う事分かってくれない…。もう、疲れたよ。普通に生きて普通に笑ってみたいと思う事は当たり前の事じゃないの? …どうして皆、分かってくれないのかな?」
「分からないからでしょ?」
十色は、さも当たり前のように言葉を投げた。
「分からない?」
「だって、直の心は直だけのものだよ。他人が分かるわけないでしょ?」
はっとした。私の心は私だけのもの…。
「そっか。そうだね…うん。確かに」
否定も肯定もない、叱咤激励もしない十色の言葉はストンと心に落ちた。
「十色、聞いてくれる?」
「いいよ」
十色は唐突に話し始めても、すんなり受け入れてくれる。
「私ね、一日。一日だけでいいから普通の人の生活がしてみたいの」
「他人になりたいってこと?」
「ん~そうなるのかな?いや、そうとも違う。私は私でいいの。私は、私で良かったと思うし、家族も好き。でもこの体がね、好きにはなれない…。一度だけでいいの。普通に仕事して、会社の人と呑みに行ってバカ騒ぎして、次の日二日酔いで頭痛くて…。こんなに些細な望みなのに、絶対経験できないって…本当に世の中って不公平…」
「一日でいいの?」
「そう。一日でいいの」
「どうして?」
「やっぱり、私は私でいたいと思うし、他人になりたいとは思わない。でも、私でいる限り、体がしんどい。だから、もう、いいかな? って思うんだ。でも、一日でいいから、思い出は欲しいと思う。意味わかる?」
オレンジ色のパジャマの袖を軽くまくり掌を夜空にかざす。
「ごめん。わかんない、でも、直は可愛いよ」
そして、十色は大きな目を細めて可愛い顔でくすくす笑いながら、又、調子っぱずれの事を言う。
「あのねぇ、こんな話聞いて笑うのは十色くらいだよ?」
ふぅとため息ついても、心は重くはならない。
それどころか突然「可愛い」と言われて顔が熱くなる。
「そう? ごめん」
そう言いながらやっぱり目を細めて笑う。
この笑顔には、何故かほっとする。
否定も肯定もない、ただ聞くだけの十色の反応は不思議と安心する。
「今日、純子とね、会ったの。久しぶりに。楽しかったよ。本当だよ。でもね、ふと思うの。純子は私といて楽しいのかな? って。だって私、相槌しか打てないんだよ。楽しい話なんてなんにもない。純子、嫌にならないのかなぁ…」
「ボクは純子じゃないから分からないよ。それは純子が決めることでしょ?」
「そうか、そうだね。ごめん」
「でも、ボクだったら、つまんない所には行かない」
「……そうだね」
もしも、純子に私のひねくれた心の内を話したら、どんな顔をするのかな? どんな言葉が返ってくるのかな? 話してみたいけど、怖くて話せない。
純子と会うと、時々何かを待つかのように私を見つめるけど、何を求められているのか分からなくて、結局下らない話をしてしまう。
現実は…一度壊したら、元には戻せない。一歩踏み出すのってやっぱり、怖いと思う。
見上げると、夜空にはびっしりと星が瞬いている。
頬を叩くように吹き抜ける風が心地良い。
「十色、又会える?」
「直が望めば」
私は静かに目を閉じた。