不思議な男の子
くすくすと、握りこぶしを口に当てて笑う男の子は大きな目を細めて私を見る。
「ねえ、名前は?」
頭一つ分ほど高い位置にある、大きな目を見上げて名前を聞く。
「十色」
ゆっくりと、答えた声は夜空に溶けるような柔らかいテノール。
「男の子なの? 女の子なの?」
たぶん男の子だろうけど、一応確かめたい。
十色は、くすくす笑いながら私の顔をぐいっと覗きこみ、至近距離で目を合わせると、ぱしぱし瞬きをして「男…。きみは? なんて言うの?」と、答えた。
「篠塚直19歳。今ね、すっごいリアルな夢に驚いてる。こんなにはっきりした夢は初めてだよ。いつもこんなだと眠るのも楽しいのにね~」
現実ではありえないほどの、満天の星空を仰ぎながら話す。
星の瞬きが視界いっぱいに広がって、目が眩みそうだ。
「眠るのは、嫌?」
十色が不思議そうに聞いてきた。
「……私ね、子供の時…病気になっちゃって、それから夢見はあんまり良くないの。追いかけられる夢や死んじゃう夢とかね…多いんだよ。目が覚めるとドキドキしてさぁ…苦しいの。1年位前からかな? 時々、すごい頭痛がするようになって…眠った時だけは楽になるから、眠るのは嫌いじゃないんだけどね」
右手で頭を掻いた後、指先を髪に通す。なんとなく落ち着く、私の癖。
「…現実は、嫌?」
囁くように静かな声で問われた。
「う~ん? 嫌じゃないよ。調子が良ければ一人で買い物も行けるし、友達とランチも楽しいよ。でもねぇ、誰かと会うのは最近しんどいかな? 話す事がね…無いんだよ。テレビの話とか、昔の…学校行ってた時の話しか出来なくて、しんどいかなぁ? 病院の先生の話し方が面白いとか、あの看護師さんが優しいとか、ムカつくとか、聞いててもつまんないでしょ? そんなこと考えるとね、話す事なくなるんだよね。もっと普通に笑いたいと思うけど、難しいよ」
毛先を指先で弄ぶ。
「普通に笑うって難しいの?」
柔らかいテノールが、胸に染み込むように耳から入り込む。
「私にとってはね、皆の普通と私の普通って違うんだよ。私はね、朝起きて頭痛くなくて、吐き気無くて、ご飯食べて美味しいって思う日は本当に特別な日。でも普通は違うでしょ? 私にとって特別な日は皆にとっては当たり前な日なんだよ。分かる?」
「さぁ? よくわかんない」
私は結構重い話をしてると思うんだけど…? 十色からは気が抜けるほど能天気な返事が返ってきた。
「……十色は悩みってないの?」
呼び捨てにしてしまったけれど、まぁ、夢だからいいよね。
それに十色も、なにげに失礼だ。
「悩み? ないねぇ」
十色はくすくす笑いながら軽く答える。
私はそんなに友達は多い方ではないけど、こういうタイプは初めてだ。珍しいよね?
「私の話、引かない? つまんなくない?」
「引くって、何? つまんなくないよ、面白い」
十色は私の話を聞きながら、やっぱりくすくす笑う。
面白い…って、言ったね? 今?
普通だったら、腹立たしさを通り越して泣けるほどの言葉だと思う。
でも、十色の醸し出す独特の雰囲気の為か、それともこれは夢だと分かっている為か、特に感情が高ぶることは無かった。
「十色? 私ね、今すっごく凹む話をしたんだよ? 分かる?」
私は眉間にシワを寄せて十色を覗きこむ。
別に腹をたてた訳ではないけど…不思議だね、私の気持ちは以外にも穏やかだ。
「ごめん。ごめん。お詫びに直の言う事なんでも聞くよ。何でも言って」
言葉では謝っているけど、大きな目を細めて笑顔で話す十色は、悪いなんて思ってない事を隠すつもりもないらしい。
別にいいけど…。
「じゃあ、又会える?」
「そんな事で良いの?」
「うん。話し相手欲しいし、十色は話し易い…又、会ってよ」
「OK。ボクも直の話し聞きたい。又、会いに来るよ」
「待ってる」
そのまま会話は終わった。
二人無言で夜空を見つめる。
私は、空に鋭い刃物のように浮かぶ、細い細い三日月を眺めた。
***
目が覚めると、自室のベッドの上。
なんか、すっごく心地い夢見たような気がする…なんだっけ?
思い出したくても、記憶に靄がかかった感覚が邪魔をして思い出せない。
でも、久しぶりにすっきりした目覚め。
頭痛も、吐き気もない。
今、何時だろ?
所定の位置にいつも置いているスマホを見ると、
16:27
そんなに時間が経ってた訳ではないようなのに、頭がすっきりして気持ちいい。
そして、お腹すいた…。
久しぶりに感じる食欲。今、この空気が心地いい。
眼鏡をかけて、ベッドから降りて足を踏み出す。うん。振動による頭痛もない。
ピッチャーからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。
階段を下りてキッチンへ向かうと「おねえちゃん!」由香が弾んだ声と共に抱きついて来た。
階段を下りる足音を聞きつけて、慌てて居間から飛び出してきたようだ。
「頭痛いの、大丈夫?」
「心配かけてごめんね。もう大丈夫」
柔らかい髪の毛を、くしゃりと撫でる。
私は、お父さんの要素が何処にあるのか? と、思うほどにお母さんに似た顔だけど、由香はその逆で、お父さんのパーツをそのまま持ち出したかのように容姿にはお母さんの要素がない。
この話をすると、まだ9歳の由香は凄く嫌そうな顔をする。
お父さんが嫌いなのではなくて、私とお母さんの仲間に入れない事が嫌なのだそうだ。
まだ子供なのだから、これから顔は変わって行くし、お父さんはなかなかのイケメンだと思うから、そのままの方が良いと私は思うんだけどね。
「おねえちゃん。頼んでたくまさん、もう1個頼んでもいい?」
「ん? いいよ。但し、同じ柄の布はないから違う布でいい?」
「いいよ。みーちゃんも欲しいって言ってきたの。おねえちゃんのくまさん、すごい人気なんだよ」
頬を染めて真剣に話す由香は、本当に可愛らしい。
「あ! ね、おねえちゃん! あこ、あこ見て! 綺麗な黒い猫がいるよ。こっち見てる」
まだまだ舌足らずな口を一生懸命動かして、庭の見える窓を指差す。
由香が必死で促す先には、庭に植えられたハナミズキの木。
落葉も終って寂しくなった木の下に、黒い猫がちょこんと座って、大きな目でこちらを見ていた。
由香が小さな手で窓の鍵を外そうとしている。
右耳の白い三月形の模様を見て、懐かしいような不思議な感覚に、金縛りにあったように体が動かなかった。
猫は、私と目が合うと、にゃあと鳴いてひらりと木に上り、塀を越えて去っていった。