最後の時
検査の結果、特に異常はなく一週間ほどで退院できた。今まで通り自宅療養でいいとの事。
分かってはいたけど、頭の重さと体だるさはすっきりとは治らない。でも、いつも期待しちゃうんだよね。もしかしたら、少しは良くなるんじゃないかって。
この感覚とは死ぬまで付き合わなければならないのかな。仕方ないか。それが私。
病院で風邪をもらってしまったようで少し喉が痛く、軽い咳も出る。
咳止めを処方してもらったけど、すっきりとは治らない。苦しいほど咳き込む訳ではないから、室内で大人しく過ごして治そうと思う。
ぽかぽか陽気の昼下がり、お母さんと一緒に洗濯物を畳んだ後、こたつに入ってお茶を飲む。私は、カフェインレスの紅茶。お母さんはコーヒー。
この、まったりした時間は幸せだと思う。
話題になるのはドラマとか、由香の事。あとは、お母さんの仕事の愚痴。仕方ないよね。私は楽しい話題を持ってないから。
お茶菓子は缶に入っているスーパーの安いクッキー。これ、結構好きなんだ。色々な形や味のクッキーが入っていて、開ける時ワクワクしない?
「最近よく眠るわね」
「え? そお?」
「時々、寝ながら笑ってるわよ」
「ホントに? 恥ずかしいなぁ。そんなに寝てるとは思わないんだけど?」
そういえば、最近うたた寝が多いような気がする。
気が付いたらこたつで寝てたとか、お昼ねたっぷりしたのに夜もたっぷり眠れた、とか…。
考えてみると…十色と一緒の時が多いかな? 十色と一緒だと、夢なのか現実なのかが曖昧になるから、寝てるのか起きてるのかが分からなくなるんだ…。
***
その日は突然やってきた。
朝から、体だるいなって…思って、ずっと自室で過ごしてた。お母さんが何度も水を持って部屋に来て、その時に何度か熱を測ったけど微熱で…無理に病院に行くよりは部屋で寝てたいと思ってた。本当にいつもより少しだるいなってだけで、後は自分の変化は自分でも分からなかった…。
目を開けたら…真っ暗だったから、夜だったという事は分かった。それだけだった。
熱い。熱い。苦しい…。
「ナオ。どうしたの?」
「と…いろ…?」
「顔。真っ赤。目も変」
「く…るし」
「ナオ。誰か呼んでこようか?」
そう言った十色の指を、重い手を上げて必死で掴んだ。
「いい…やめ……」
「ナオ?」
「いい…い…い…の」
必死で首を振ったつもりだったけど…頭を持ち上げられないんだから…実際は動いてなかったかもしれない…。
でも、頭の中は冷静で…自分が、今、どんな状況なのかは、よく分かった。
「ナオ?」
「い、いの…」
「…ナオ……」
十色が私を優しく抱きしめてくれた。
「ナオ? どうして?」
言葉を発する事さえ苦しくなっていた私は軽く首を振り続ける…。重い手を動かし十色の柔らかい髪に指を入れて、揺らいで焦点の合わない視線を、なんとか十色の鳩羽色の瞳に合わせた。
「このまま…せて」
「……怖く、ない…?」
「こ…わい、よ…」
「……どうして…?」
「といろ…たのしかった、会えて良かった…こわいけど…ほっとしてる…」
「…ナオ…」
「わたしも…かぞくも、自由に、させて…
きてく…れてありがと…う…。
さが…してくれて…あ…りがとう…
もう…ね、じゅう…ぶん。十色が、来て…から、たのし…かった…
ありが…と」
「ナオ…」
十色のテノールが耳に優しく届き、優しく抱きしめてくれていた十色の腕に突然力が篭ったかと思ったら…十色がふっと、消えた。
──ナオ、やりたい事あるって言ったよね?──
微かな十色の声が聞こえた。
ガタン!
朦朧とした意識のなかで分かった事は…。おばあちゃんの着物が大きな音をたてて落ちた事。
その後、お母さんが…しのび足で部屋に入ってきた事。
私の異常に気がつき救急車を呼んだ事。
初めて救急車に乗った事。
初めてICUに入った。
むせ返るような薬の臭い。
騒がしい室内。
耳に残るお母さんの叫ぶような声。
お父さんや由香が、お母さんと交代で私の側に来て、私の名前を優しく呼ぶ。
私は、誰が、何を話しているのかは分かったけど…体がまったく思うように動かず、答えられなかった…。
「ナオ…」
どのくらい経ったのか、耳に馴染んだ…十色の声に重い瞼を開けると、いつもの十色の柔らかい笑顔が見えた。
「十色…」
「…ナオ…。おいで…」
私は差し出された十色の手を取った瞬間、引き上げられて抱きしめられた。
体が軽い。
頭痛も、だるさもない。
「ナオ。ごめん。間に合わなかった…」
「いいよ。十色のせいじゃない。私…どうしたのかな?」
「ボクはよく分からないけど…。風邪? ウイルス?って、言ってたよ」
「合併症かなぁ? …考えても今更だよね…。残念だなぁ、成人式に行けなかったよ。由香の誕生日も約束したのにね…」
でも、私の人生、上出来だと思わない?
少しだけど、夢も持てた。
なんにもなかったのに…。十分、満足していいと思う…。
「ナオ、ボクも付いていくよ…」
私より背の高い十色は、私を見下ろしながら、視線を合わせて微笑んだ。
「十色…いいよ。ハルコさんの所に行きなよ…」
十色の頬を両手で包み、鳩羽色の瞳を見上げて微笑みながら静かに返す。
「ハルコより、ナオがいい…。ナオについてくよ」
私の腰に回した両腕に力をこめて、楽しそうに笑う。
「私でいいの?」
「ナオがいい。必ず行く。楽しみだね」
「楽しみ? 本当に?」
「まだ、怖い?」
「ううん。怖くない…。私も、楽しみにしてる…」
私の心は春の澄み渡った青空のように、すっきりと晴れやかだった。
「でも…次は生きてる事をうんと楽しむの。だから…十色は必要ないかもしれないよ」
イタズラっぽく意地悪言ってみたけど、十色は大きな目を軽く細めて。
「それは困った…でも、いいよ。ボクがナオについて行くだけだから、関係ない」
そう言って、私の頬に唇を寄せた。
「ふふふ、うそうそ。楽しみにしてるね…」
十色の薄い唇の感触を楽しんだ後、ぎゅうっと私から十色を思いっきり抱きしめた。
「ナオ、これ、あげる…」
十色は右耳のピアスを私の右手に持たせた。
「ナオが好きな目はあげられないからね。ボクの印だよ。ナオが持ってて。ボクは必ず行くから。そしたら、ずっとそばにいてね…」
本当は、生まれ変わりなんて信じてなかった。
人は死んだら何もかもなくなるんだって…。そう、思ってた。
でも…生まれ変わりがあったとしても…無かったとしても、十色の言葉は信じられる。必ず会えると思った。
「私も探すから…。必ず、会おうね…約束だよ…」
直としての意識は、そこで途絶えて消えた。
***
暖かい地方のはずれに浮かぶ小さな島。
「猫の島」と、呼ばれる猫の楽園。徒歩1時間半ほどで一周できる小さな、小さな島。
観光できる場所もない事から、あまり知られてはいない。島民よりも猫が多いという事で、猫の愛好家達の中では密かな人気スポットだ。
桜舞い散る春。
島の片隅にある、朽ちかけた空き家の一室で、お腹の大きな三毛猫が縁の下から入り込み、子猫を5匹産んだ。
子猫の中の一匹の小さな三毛猫の右手には、白い三日月の模様がはっきりと描かれていた。
その隣には、美しい灰色がかった薄い紫の瞳を持つ黒猫が、生きるために必死でお乳を飲んでいた。
100匹近くが暮らす島の中では、特別に目立つ事も無く、誰にも気付かれる事もなかった。
2匹の猫は、兄弟達の仲でも特に仲が良く、成猫になっても仲睦まじく暮らした。
自然豊かな島では食べ物は豊富にあるし、人を見つけて擦り寄れば美味しい物をお腹いっぱい食べる事ができた。
徐々に空が明るみ始める朝。背中を寄せ合って眠り、日が上ると協力してお腹を満たす。
息をのむほどの美しい夕陽に照らされながら、愛情を確かめあい、暗くなると背中を合わせて身を守る。
名も無い2匹の猫は。毎日を、生きている事を、思う存分楽しんだ。




