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猫の夢   作者: 鈴木あみこ
2/22

直の夢

 

 にゃあ


 手の甲に、ざらつく何かが触れた感覚で、目が覚めた。

 まだ閉じていたいと訴える瞼をゆっくりと開くと、明るい日差しが緩やかに入り込み、随分日が高い事を感じる。

 顔の横に空気の揺れを感じて重い頭を動かすと、視界の隅に黒い物体が目に入った。


 何故か枕元には見知らぬ黒猫がいた。


 薬を飲んで眠った為か、まだ夢の中に居るような浮遊感が感じられる中、頭の奥で鈍い痛みが絶え間なく襲って来る感覚で、夢ではなく現実だと判断できた。

 正常時なら、驚いて跳ね起きるのだろうけど、今は何も考えられない。

 気だるい手を軽く上げて小さな猫の頭に触れ、空気を含んだような心地いい毛並みに掌をくすぐられて微笑むと、生暖かくざらっとした感触が頬に伝わり、舐められたと分かった。

 寄せては返す、波に揺られているような感覚の中、猫の背を軽く撫でると、猫が覗きこむように動くのが分かった。


 吸い込まれるような、鳩羽色の大きな瞳に焦点が合う。


 視線を上げると、右耳に三日月の傷が見えて、そっと撫でると、ふわふわとした毛の感覚からそれは模様だと分かった。


「気持ちいい…キミ、ふわふわだね」


 話しかけたら又、頬を舐められた。

 猫の首に腕を回し抱き寄せると、しなやかな肢体が抵抗する事なく体を預けてきて、暖かい体温を感じる事が出来た。

 心地良さからか、覚醒しきってない頭は睡眠を求めて、もう一度眠りに落ちた。


 ***


(なお)。もうすぐお昼よ。食べられる?」

 いつものお母さんの明るい声に、重い瞼が開く。

「お母さん、頭…痛い」

 怠い手を上げ、こめかみを押さえる。

「……大丈夫? お昼の薬に痛み止めを足しておくわね」

 心配そうに眉をひそめて、お母さんが覗き込んできた。

「ありがと…」

「ご飯、食べられる?」

「うどん…食べたい」

「いいわ、ちょっとまっててね。ここで食べる? キッチンに来れる?」

「ん…キッチンに行く」

「分かった。できたら呼ぶわね」


 母は私のおでこに手を当てて「熱はないわね…」と、呟くと部屋を出て行った。

 鈍い痛みに顔を歪めて寝返りを打つと、澄み切った秋の空が窓から広がっていた。

 手芸や小物を作る事が好きで、コツコツ続けていたハンドメイドの大小様々な縫いぐるみ達を、陽光が明るく照らす。

 朝、起きたついでにトイレへ行って、朝日を感じたくてカーテンを開けたんだった…。


 その時はまだ薄暗かったのに……。


 最近、頭痛が頻繁に起こるようになり、憂鬱な日が多くなって来ている。

 好きな手芸も、お菓子作りも、手がつかない日々が続く。


 私は10歳で発病して今年で9年目だ。


 朝の薬を飲む為に、決まった時間に目が覚めるのは9年間欠かしたことの無い私のルーティーン。

 目覚ましをかけなくても、必ず起きられるようになった。

 薬の副作用なのか体質なのか、私の体はいつも水を欲していてベッドボードにはピッチャーが常備されている。

 特に冷たい水が好きで、お母さんからは温めて飲むように再三言われるけど、何故かキンキンに冷えた水の方が喉の渇きが治まる。


 うとうとしながら過ごして30分位でトントンと、戸がノックされ「うどん、できたわよ」と、お母さんの声がした。

 ベッドボードに置いたはずの黒縁眼鏡を手探りで探し、ゆっくりベッドから立ち上がり、鏡を覗き、右手で軽く髪を整えた。

 そこには、ぱっちりとした丸目、控えめな鼻、薄い唇。決して美人ではないが愛嬌がある顔が見えた。

 鈍く痛む米神を押さえながら、お母さんの後を追う。

「階段、気をつけてね」

 いつも私を気遣い声を掛けてくれる。

「ありがと」

 お礼も必ず返すようにしている。

 顔を上げると目線が合う。ちょっと前まで見上げていたと思うけど、いつの間にか同じ目線になっていた。お母さんも私も日本人の女性の平均身長より少し低い。

 お母さんは、ちょっとぽっちゃり目だけど、私はガリガリ。平均体重より、はるかに軽い。

 発病してからは食が細くて、いつも心配かけている。…申し訳ない。

 お母さんは階段を上る時は私の後ろ。下りる時は私の前に付く。私が足を踏み外した時の為なのだと何年か前に気が付いて「そんなに気にしないで」と言ったら「偶然よ」と、返された。

 お母さんの深い愛情に、胸が詰まる思いがした。


 階段を下りて居間を通り抜けるとキッチンがある。

 うどんが湯気を立てて私を待っていた。

 三つ葉と柚子の香りが、食欲をそそる。お母さんの作るうどんは冷凍麺で顆粒出汁だけど、優しい味でほっとする。


 立ち上る湯気に曇る眼鏡を拭きながら、うどんを食べ終えて薬を飲む。

 流しで食器を洗うお母さんの、後ろ姿を眺めながら聞いてみた。

「お母さん、猫…飼うの?」

「猫? どうして? 猫なんか飼って、あなたに変な病気移ったら困るでしょ? 飼えないわよ」

 不思議そうに振り向くお母さんの顔を見て、さっき見た黒猫が夢だったのか現実だったのか自信が無くなった。

「飼えないのは分かってるよ。ただ猫が部屋にいたから…」

「猫が? あなたの部屋に? 部屋の戸は閉まってたし、私が入った時は何もいなかったわよ」

「…そう? 夢…かな?」

 確かにいたと思ったんだけど? 困惑しながら髪を撫でた。

「直、猫が好きな事は知ってるわ、飼いたいって思ってる事も…でも、あなたの病気を治す事が最優先よ。動物は色々な病気をもってるから、今は飼えないわよ」

「わかってる…。今日は頭痛いから、寝ててもいい? ご飯作る約束、無理そう…ごめんね」

 私の得意料理、スープハンバーグを作る約束だった。

 柔らかい豆腐ハンバーグをこんがり焼き、野菜をたっぷり煮込んだコンソメスープをかけて食べる我が家の定番メニュー。

 でも、今日は作ることも食べることも無理そうだ。

「そうね、今日はゆっくりしなさい。ハンバーグは今度でいいわ。挽き肉は冷凍にしちゃうから調子の良い時に作ってね」

「ごめんなさい、ありがと。お母さん。部屋、戻って寝るね」

 階段の下まで心配そうに着いて来たお母さんに、なんとか笑顔を見せて自室に戻った。


 毎日欠かさないように見ていたドラマの再放送がそろそろ始まる。続きが気になるけれど、痛む頭にテレビの音は雑音にしかならない。

 作りかけのハンドメイドの小さなくまのぬいぐるみも、まだ裁断途中で、紙袋に無造作に詰め込まれていた。

 頼まれて作り始めたのは先週。調子が良ければ、3日ほどで出来るはずなのに……。


 冬の寂しさが漂い始めた室内で、頭を抑えながら暖かい布団に潜り、眼鏡をベッドボードへ置く。

 ふと見るとピッチャーの水が増えていて、何時の間にかお母さんが替えてくれていた事に気付き、胸が詰まる。


 本当に申し訳ない。


 今日は1日パジャマか…。いつまでこんな生活がつづくのかな?

  寝てる時だけが楽だなんて…。どれだけ頑張っても、ちっとも良くなんかならない。


 痛みが引くと同時に眠気に襲われて、唯一、楽になれる眠りの中へ進んで行く。

 とろとろと微睡んでいると、階下から玄関の開く音と共に元気な子供の声が聞こえた。


 8歳離れた、妹の由香が帰ってきたらしい。


 バンッとランドセルを放っただろう音が鼓膜に響く。

「ただいま! お母さん。ねえ。外に黒猫がいたよ! すっごく綺麗なのっ。捕まえようとしたら逃げちゃった!」

 鈴の音のようなソプラノが響いて、ほんわか和む。

「由香。静かにね。お姉ちゃんが寝てるのよ」

「お姉ちゃん。具合悪いの?」

「薬飲んだから、眠れば治るの。だから今は静かにね」

「お話、しちゃだめ?」

「後でね。今は眠らせてあげましょう?」

「うん、分かった」

 私の部屋の真下で繰り広げられるやり取りは微かだが筒抜けだ。

 ぼんやりと会話を聞きながら眠りに落ちた。


 ***


 目が覚めると、そこは夜。


 そして外。


 鈍い頭の痛みが無い事から、現実ではないと分かる。


 夜の闇に綺麗に縁取られた三日月が、空に静かに輝く。


 見渡すと、人工的なネオンが、ちらちらと遠くに見える。


 ここは…空? いや……屋根の上?


 辺りを見渡すと、家を見下ろすような光景が広がる。どうやら私は屋根の上に立ってるようだ。


 隣には、すらりとした長身の男の子が大きな目を見開いて、こちらを見ていた。


 だれ?


 ふわふわの無造作に整えた黒い髪の毛。

 ロング丈のVネックの黒いカットソーに、黒のスキニーパンツを合わせた体の細さを強調しつつも、ゆったりとした服装に、対照的な白磁のような白い肌が映える。


 一瞬、男の子なのか女の子なのか考えてしまうような丸みを帯びた中世的な顔に、好奇心が溢れ出しそうな大きな黒い瞳。

 右耳に飾られた三日月型のピアスが、月明かりに反射して煌めく。

 年ごろは16~17歳くらいだろうか?

 頭の痛みもだるさも無いし、外にパジャマでいるのに寒くないから夢だね?


 まぁ屋根の上にいる時点で…夢か。


 すぐに状況に納得できた。睡眠時間の長い私は、こんな事よくある。


 夢の中は私の唯一の自由時間だ。


「ねえ? あなた男の子? 女の子?」


 男の子の側に寄り、見上げて聞いた。

 現実では人見知りな私でも、夢の中では臆面も無く振舞える。


 だって、どうせ夢だしね。楽しまなくちゃ損でしょ?


 その子は私の顔を覗きこむように大きな目を見開いてクスリと笑った。


 柔らかそうな髪が風になびいた。



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