プロローグ
永いこと閉じられていた瞳が静かに開き、軽く体を震わせる。
「ハルコが呼んでる」
そう感じた黒猫は、眠りから覚めたばかりの鳩羽色の目をしっかりと開け、ひくひくと匂いを探った。
微かに香る愛しい人の香りに、居ても立ってもいられず、走り出す。
「ハルコ…お願いだからそこにいて。何処にも行かないで」
黒猫は柔らかい被毛を風にそよがせ、走った。
目覚めた時は、太陽はまだ顔を出しておらず、存在を主張する強い光だけが辺りを微かに照らしていたが、今ではすっかり姿を見せて高く登っていた。
それでも黒猫は、愛しい人に会いたくて、足を止める事はなかった。
住宅街に入り、街路樹を登り、もう一度鼻をひくつかせる。
風に乗って懐かしい香りがする方へ向きを変えて又、走り出す。
クラクションを鳴らす車を避けて、塀を飛び越え、屋根を渡る。
やっと見つけた一軒の家。
新築ではないが、ハルコの家に比べれば、新しくモダンな作りだ。
「違う、ハルコじゃない…」
鼻をひくつかせ、愛しい人の香りを探すが、似ている香りが漂ってくるだけで、別人だと分かって大きく項垂れる。
それでも、懐かしい香りの主を一目見ようと、軽やかに塀を越えた。