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悪女 ~ 「闇」のスピンオフかつ「霞」のプロローグとして ~

作者: 北浜緋乃

色々なキャラから成り立つ「闇」の主人公が去った後、一人の女性が現れます。ひとしきり“あの男”について悪態をついた後、自分が住む心の主について話し始めました。しんみりと静かに、時に語気強く語られるその内容とは・・・

「……しばらくここでゆっくりしていってはどうだ、ん?闇の世界を知ることで光の意義も確認できるというものだ。そうは思わんかね、良心君。いや、そろそろ建前君と呼ぼうか?」

くるりと背を向けると、薄暗がりの中に足早に消えて行った。

「ハッハッ“建前君”か!こりゃいい。」

誇らしげな声が、あたりに響きながら昇っていく。


と、かん高い足音と伴に、一人の女性が現れた。

「もう、ホントやなやつ!どうして悪のイメージってあんななの?黒装束に低い声、口から出るのは皮肉と嫌味。完全自己チューで表情に乏しく、目はマジのまま顔半分だけで笑う、オ・ト・コ。まったく性差別もはなはだしいったらありゃしない。(あるじ)が女性なら、心の中にいるのは当然おんな、つまり“悪女”じゃなくって?あ、悪女と言っても中島みゆきの歌みたいな現実世界のものとは違うわね。ま、あたしみたいに、美人でセンスのいい服を着た悪女を持ってる女性なんて滅多にいやしないでしょうけど。」

何やらヒステリックにまくしたてている。黄色の髪、ピンクの大柄のブラウス、紺色のタイトスカートにピンハイヒール。どこか統一感に欠けているようだけど、妙に存在感があるわね。

「何か…誰かに見られているような…あらぁ、あなたいらしたのぉ。ホホホホ、おや、他にもこんなにいらして。ま、驚いた。といっても見られようが聞かれようが構やしませんけどね。なにせ私は心の住人。個人情報もコンプライアンスも関係ないんだから。ちょっと覗いて返るつもりだったのに、思わず奴の話に聞き入っちゃったわ。そろそろ戻らないと・・・あら、気が利くじゃない。ありがと。」

と言いながら、どこからか現れた椅子に腰をおろした。

「それにしても、今、(あるじ)様…なんかこの響き嫌ね。う~ん…そうだ、“彼女”がいいわね!彼女と呼びましょう。えーっと、そう、今彼女の抱えている問題は、男目線ではわかりっこないのよ。」

そう言いながら、柔らかい鳥の羽毛でできた緑色の扇子で自分を扇ぎ始めた。ゆっくりセンスが動くたび、甘い香りがこちらに漂って来るわ。

「たしかにねぇ…いわゆる常識ってことで考えると、妻子持ちのいい歳した大人に心を奪われた、なんてバカよね。元気のいいまだ将来の可能性にあふれた若い男性を好きになった方が、どれだけ楽しくて楽だか。違う?でもね、大人には大人の魅力があるのも事実よねぇ。なんか、こう、ゆとりがあるっていうか、ガツガツしてないというか。包み込んですべてを受け止めてくれるような優しさがあるものね。あら、勘違いしないでね、あの男のことなんかじゃ決してなくってよ。」

“あの男”って、きっとあいつのことよね。ずいぶんと毛嫌いしているみたい。あからさまに顔をしかめて見せたわ。それにしてもこの女性、いや声の調子は男性っぽいけど、いったい何者かしら?さっきまでは、あの男と白い彼と二人きりだったのに、突然現れたし。それに現れるなり、あの男のことを嫌いなようなそぶりを見せてる。

そんなことを考えていると、彼女は立ち上がり両手を後ろに組んでゆっくり歩きだした。

「彼女の場合は父親を多感な時期に亡くしてしまったから、大人の男性からのやさしさに飢えていたの。好きになった男性はほとんど年上、一回りくらい上のね。でも妻子持ちって言うのは今回が初めて。最初はペンを貸してくれって近づいてきて、何日か経ったころ、突然お礼にとケーキを持ってきた。もちろん相手は只のお客、おざなりのご挨拶だと思ってそれからもチャンと距離を置いていたわ。っていうより、『私は優しいんですよ』的なやりかたが鼻について、近づくのが嫌だったみたい。」

ふとこちらを振り向いたとき、彼女と眼が合った。少し太めの眉の下にある目は透き通っていて、こちらを射すくめてるみたい。少し怖い。

「そんな彼に対する見方が変わったのは、一つのプロジェクトが完成した初夏の祝賀会でのこと。始まるや否や四、五人お偉いさんの長いおざなりの挨拶が続いたもんだから、もううんざり。


『えー、今回のプロジェクトの話が出た折には、あー、反対意見も数多くありましたがぁ、んー、私はこれくらいの冒険をしなくてわぁー』みたいな?あーあー、心にもないことを。この部長、ことなかれ主義で最初は猛反対していたくせに、副部長の彼が辞表を手に直談判に行ったらしぶしぶ承知して、いざ成功したら自分がバックアップしたおかげだ、ですって。いやねえ大人の世界って。そんなことを考えていたとき、後ろから彼がそっとメモを渡してきたの。『成功したのは俺のおかげだと言わんばかりの腹黒い奴らの話より、陰でしっかり働いてくれてたあなたに感謝したい。』ってね。普通だったらその手の誘いには決して乗らないわよ。みえみえじゃない。だけど、同じような自慢話ばかり聞かされて辟易してたし、それにね…あ、このことは後で。」

ひょっとして彼女は、あの男のキャラのひとつかしら?多くのキャラを持っているようなことをあの男は言ったわ。じゃあ彼女のように自己反発している構成要素がいてもおかしくはないわね。しばらく彼女の話に耳を傾けることにしましょう。

「とにかく乾杯の発声と同時に抜け出して、メモに書いてあったバーに向かったのね。小さな建物の階段を二階に駆け上って息を整えドアを静かに押すと、照明を落とした店内にはジャズが流れていた。薄明かりの中見回すと、彼はカウンターから少し離れたテーブルで軽く手を挙げている。

『ほんとに来てくれたんだ。ありがとう。』

『あ、いえ、お誘いいただいてありがたかったです。息がつまりそうでしたから。』

彼女、素直に本音を言ったわ。それから小さなキャンドルの置かれてたテーブルで彼と二人っきりの乾杯をして他愛もない話をした。冗談を言ったり、裏話をしたりしてとても楽しかったんだけど、そのうち彼に寂しさを感じたの。軽くて遊び人と思っていた彼が、何か一人で抱え込んでるというか…自分の内にとらわれているというか…

『東郷さん‥』

あ、彼のことね。

『東郷さん、お気に触ったらごめんなさい。でも、何かお悩みのように感じるんですが。』

『え、いや別にそんなことは…』


明らかに動揺してるわね。ちょっと押してみましょ。


『あの、私でよかったらお話聞かせてもらえませんか?それとも、こんな小娘じゃ、話す気になりませんか?』

『いや、決してそんなことは…まいったな、実は…』


うまくいった!

それから彼は、ポツリポツリと、悩み?抱えている問題を話し始めたの。同居しているご両親のこと、奥様のこと、驚いたのは会社での立場が微妙だってこと。一見、部下をバリバリ引っぱって行く理想のボスに見えてたけど、実は今どきの新入社員と社長に挟まれた中間管理職。取引先の手前、いつも笑顔で活気あふれている風を装わなきゃならない。大変よね男って。

いえ、女性の管理職を否定しているわけじゃなくってよ。でも悔しいけどこの世の中、まだまだ男中心で回っているじゃない?初音ミクだか、ホットケーキミックスだか知りませんけどね、え?アマノジャクス?んもう何だっていいのよ!いくら政府が女性の社会進出を後押しすると言っても、まだまだ時間がかかるのは間違いないわ。


あらいやだ、私ったら柄にもなく政治の話なんか。忘れて!


何処までお話ししましたっけ?そうそう、彼の悩みね。彼が言うには、疲れて帰っても、ご両親と話しする時間は取らなきゃいけない。奥様も働いていているから、変に愚痴を言うと邪魔になる、だから口に出さず静かに胸にしまっておくしかない、ってですって。

『で、ご自分一人で抱え込んでらっしゃるんですね。』

『まぁ…そういうことになるけど、仕方ないよね。僕が自分で解決しなきゃならないことだから。』

『でも、そんなことを続けてらっしゃったら、あなたの体がもちませんよ。』

“あなた”。そう、彼の話を聞いているうちに心の距離が縮まったわけ。母性をくすぐられたのかそれとも以前から彼を憎からず思っていたのが影響したのかは…わかりませんけどね。え?お前ならわかっていたはずだ、ですって?ホホホ、それはご想像にお任せしますわ。


階段を下りて通りに出た時、

『ほんとに申し訳ない。君の苦労をねぎらうために呼び出したのに、僕の愚痴に好き合わせてしまって。』

『いいえ、こちらこそ私みたいな若輩者にお話ししてくださって感謝してます。』

『若輩者だなんて…君は本当に優しい女性だね。ますますファンになったよ。』

『ありがとうございます。お世辞でもそう言ってくださって嬉しいです。』

『いやお世辞なんかじゃない。その証拠にと言っては何だけど今度食事に付きあってもらえないかな?』

ほら来た!男が女性を誘うときに使う常套手段。褒めといて気を許させて毒牙にかける、みたいな?でもこのとき彼女は、彼の言葉に誠意を感じたの。本当に申し訳ないと言うね。だから再会の申し出を素直に受けたわ。


それから五日後、だったかしらね、彼が夕食を誘って来た。教えられた住所を頼りに行くと、古ぼけたビルを中庭に向かって入った小さなイタリアンレストラン。ドアを開けると下駄箱、いや、シューラックがあり、靴を脱いで一段高い板張りの、いや、フローリングの…ほんと目の前の景色でさえ現代語に訳すのって難しいし面倒だわ!…とにかく、フローリングの店内に入るようになっているの。店内左手奥に掘りごたつ式のテーブルが二つ。カーテンで区切って個室感覚になるテーブル席と、壁の向こう側にカップル席。その手前、オープンキッチンを囲んでコの字型のカウンターに座った彼がこちらを見てほほえんでいる。

『お待たせしてすみません、会社出るのが遅くなっちゃって。』

『嘘が下手だね。本当は店が分かりづらかったんでしょ?ビルの前を行ったり来たりしたんじゃない?』

『えっ?ええ、実はそうなんです。まさかビルの中庭にはいって行くなんて思わなくて。』

『僕も最初は戸惑ったよ。ここら辺をぐるぐる回って、結局わからなくて店に電話をかけたんだ。』

自分だけじゃなかったことを聞いて、彼女一安心。

『ちょっと失礼します。』

そう言ってハンカチを取り出し、額とうなじの汗をぬぐっていると、

『ビールでいいよね?』

『いえ、ビール“が”いいです。喉がカラカラなんで。』

『かしこまりました、お嬢様。マスター、ビールを二つ。それから、コースを始めてもらえますか。』

マスターはその声でスタッフの女性に指示を出し、手際良くアンティパストを作り始めた。

『何時も一人で来る時は、この席に座るんだよ。料理する様子が全部見えるし、香りも届く、肉を焼く音も聞こえる。で、料理を口に入れて味わえば、五感すべてで楽しめるって訳。得した気分になれるでしょ?』

さも自慢げに彼が言ったわ。冷たいビールで乾杯し、コースを五感で楽しみながら食べ終え、マスターからの差し入れのチーズケーキをもらって。色々な話と美味しい料理ですっかり満たされた。


あ、こんなことばかり話してたら、日が暮れちゃうわね。ちょっと端折るわよ。


んんっっ!ペンを借りたお礼にケーキを持って来た時から、実は彼に興味が湧いていたのね。と言うのも、今まで周りにいなかったタイプの男性だったの。

それから一緒に仕事をする機会が増え、強引ではなく、優しくみんなを引っ張っていく姿に、リーダとして憧れていた。

いえ、恋をしてしまってたのね。こんな人が何時もそばにいてくれたら…そして、前回彼のことを〝あなた〟と呼んでから、明らかに彼女の思いが変わったの。彼の寂しさを埋めてあげたい、疲れた心を癒してあげたい。彼のためになるのだったら、自分ができることは何だってしてあげたい。…そんな気持ちがだんだん膨らんでいった。もちろん頭ではわかっていたわ、彼には帰る家がある、と。でも、心はどうしようもなかった。だって、好きになっちゃったんだもの。

大好きな父親の死から、男性と知らず知らず距離を置いていた。クラスの男の子とさえ話すのが億劫だったの。社会に出ると、〝とっつきにくい女性、可愛くない女性〟と言われるようになり、それを見返すように、いつも強い人間でいようと努めた。人前で決して弱音を吐かず、周りがやっかみや陰口を言おうが、自分のやり方で与えられた仕事は意地でもやり遂げる。でも、本当は誰かに支えてほしい、その人の胸で泣きたいと思っていたのよ。優しさに飢えていたのね。そんな時彼と出会って、ピンと張っていた心にほころびができた。そして、そのほころびに彼の優しい言葉が入り込んできて、抑えてきた感情が解き放された。自然の流れよね。その救世主は以前から心を寄せていた人。その人は、たまたま結婚している。だからと言って、一緒に楽しい時間を過ごすことは悪いことではないでしょ?もちろん、傍目だの世間体だのっていうのは分かるわよ。でもそんなことのために好きになる人を決めなければならないとしたら、本末転倒じゃない。会う人ごとにいちいち、あなたはこうですか、あーですか、なんてあれこれ質問なんて出きゃしない。人を好きになるのに理由も条件もいらないでしょ。それなのに、『世間一般では許されないことだから』って、感情を抑え込まなきゃいけないの?自分に嘘をついて生き続けていかなきゃならないの?そんなの人間じゃないわよ。感情があるからこそ毎日が楽しいし、嫌なことがあったって楽しさを糧に乗り越えられる訳じゃない。人を好きになってしまったら、なおさら。この人がいるから自分は生きている価値がある、生きる意味があるんだって思えるわ。愛情は、生きる糧となるし、生きていることの証なのよ。

愛する人とゆっくりと過ごし、同じ体験をし、語り合う。お互いの感動を共有し、いたわりながら生きていく人がいることこそ人生の喜びよ。あなたがそばにいてくれてホントによかった、と言ってもらえたら素敵じゃない。それなのに愛していながら、そばにいることを許されないなんて…あんまり、理不尽よ。


あ、ごめんなさい。私の変な理屈につき合わせて、時間が経っちゃったわね。続きをお話ししますわ。


自分の気持ちが抑えられなくなるといけないから、ディナーはやめてランチを何度か一緒にしたの。しばらく経ったランチの時、デザートの小さなブッシュドノエルを食べながら彼が言ったわ。

『実は…おひとりさま、になっちゃってね。』

『え、おひとりさまって…奥様は?』

彼の話によると、こう。あの日から、あ、初めて二人っきりで食事をした日からね、一週間くらい経って、奥様とお互いの仕事のこと、同居しているご両親のこと、をじっくり話し合ったんだそうなの。『あなたの体がもちませんよ』。彼女の言ったあの一言が後押しになったのかしらね。そしたら奥様、『両親と自分に気を使って苦しんでいるのなら、少しでも負担が減るように別々の道を歩きましょう。』っておっしゃって先月離婚したんですって。自己中なのか優しいのか分からないけど、とにかく気を使わなきゃいけない材料が一つ減ったってことね。何処までお話ししましたっけ?そうそう、彼の悩みね。彼が言うには、疲れて帰っても、ご両親と話しする時間は取らなきゃいけない。奥様も働いていているから、変に愚痴を言うと邪魔になる、だから口に出さず静かに胸にしまっておくしかない、ってですって。

『で、ご自分一人で抱え込んでらっしゃるんですね。』

『まぁ…そういうことになるけど、仕方ないよね。僕が自分で解決しなきゃならないことだから。』

『でも、そんなことを続けてらっしゃったら、あなたの体がもちませんよ。』

“あなた”。そう、彼の話を聞いているうちに心の距離が縮まったわけ。母性をくすぐられたのかそれとも以前から彼を憎からず思っていたのが影響したのかは…わかりませんけどね。え?お前ならわかっていたはずだ、ですって?ホホホ、それはご想像にお任せしますわ。


階段を下りて通りに出た時、

『ほんとに申し訳ない。君の苦労をねぎらうために呼び出したのに、僕の愚痴に好き合わせてしまって。』

『いいえ、こちらこそ私みたいな若輩者にお話ししてくださって感謝してます。』

『若輩者だなんて…君は本当に優しい女性だね。ますますファンになったよ。』

『ありがとうございます。お世辞でもそう言ってくださって嬉しいです。』

『いやお世辞なんかじゃない。その証拠にと言っては何だけど今度食事に付きあってもらえないかな?』

ほら来た!男が女性を誘うときに使う常套手段。褒めといて気を許させて毒牙にかける、みたいな?でもこのとき彼女は、彼の言葉に誠意を感じたの。本当に申し訳ないと言うね。だから再会の申し出を素直に受けたわ。


それから五日後、だったかしらね、彼が夕食を誘って来た。教えられた住所を頼りに行くと、古ぼけたビルを中庭に向かって入った小さなイタリアンレストラン。ドアを開けると下駄箱、いや、シューラックがあり、靴を脱いで一段高い板張りの、いや、フローリングの…ほんと目の真の景色でさえ現代語に訳すのって難しいし面倒だわ!…店内に入るようになっている。店内左手奥に掘りごたつ式のテーブルが二つ。カーテンで区切って個室感覚になるテーブル席と、壁の向こう側にカップル席。その手前、オープンキッチンを囲んでコの字型のカウンターに座った彼がこちらを見てほほえんでいる。

『お待たせしてすみません、会社出るのが遅くなっちゃって。』

『嘘が下手だね。本当は店が分かりづらかったんでしょ?ビルの前を行ったり来たりしたんじゃない?』

『えっ?ええ、実はそうなんです。まさかビルの中庭にはいって行くなんて思わなくて。』

『僕も最初は戸惑ったよ。ここら辺をぐるぐる回って、結局わからなくて店に電話をかけたんだ。』

自分だけじゃなかったことを聞いて、彼女一安心。


『ちょっと失礼します。』

そう言ってハンカチを取り出し、額とうなじの汗をぬぐっていると、

『ビールでいいよね?』

『いえ、ビール“が”いいです。喉がカラカラなんで。』

『かしこまりました、お嬢様。マスター、ビールを二つ。それから、コースを始めてもらえますか。』

マスターはその声でスタッフの女性に指示を出し、手際良くアンティパストを作り始めた。

『何時も一人で来る時は、この席に座るんだよ。料理する様子が全部見えるし、香りも届く、肉を焼く音も聞こえる。で、料理を口に入れて味わえば、五感すべてで楽しめるって訳。得した気分になれるでしょ?』

さも自慢げに彼が言ったわ。冷たいビールで乾杯し、コースを五感で楽しみながら食べ終え、マスターからの差し入れのチーズケーキをもらって。色々な話と美味しい料理ですっかり満たされた。


あ、こんなことばかり話してたら、日が暮れちゃうわね。ちょっと端折るわよ。

んんっっ!ペンを借りたお礼にケーキを持って来た時から、実は彼に興味が湧いていたのね。と言うのも、今まで周りにいなかったタイプの男性だったの。

それから一緒に仕事をする機会が増え、強引ではなく、優しくみんなを引っ張っていく姿に、リーダとして憧れていた。

いえ、恋をしてしまってたのね。こんな人が何時もそばにいてくれたら…そして、前回彼のことを〝あなた〟と呼んでから、明らかに彼女の思いが変わったの。彼の寂しさを埋めてあげたい、疲れた心を癒してあげたい。彼のためになるのだったら、自分ができることは何だってしてあげたい。…そんな気持ちがだんだん膨らんでいった。もちろん頭ではわかっていたわ、彼には帰る家がある、と。でも、心はどうしようもなかった。だって、好きになっちゃったんだもの。


大好きな父親の死から、男性と知らず知らず距離を置いていた。クラスの男の子とさえ話すのが億劫だったの。社会に出ると、〝とっつきにくい女性、可愛くない女性〟と言われるようになり、それを見返すように、いつも強い人間でいようと努めた。人前で決して弱音を吐かず、周りがやっかみや陰口を言おうが、自分のやり方で与えられた仕事は意地でもやり遂げる。でも、本当は誰かに支えてほしい、その人の胸で泣きたいと思っていたのよ。優しさに飢えていたのね。そんな時彼と出会って、ピンと張っていた心にほころびができた。そして、そのほころびに彼の優しい言葉が入り込んできて、抑えてきた感情が解き放された。自然の流れよね。その救世主は以前から心を寄せていた人。その人は、たまたま結婚している。だからと言って、一緒に楽しい時間を過ごすことは悪いことではないでしょ?もちろん、傍目だの世間体だのっていうのは分かるわよ。でもそんなことのために好きになる人を決めなければならないとしたら、本末転倒じゃない。会う人ごとにいちいち、あなたはこうですか、あーですか、なんてあれこれ質問なんて出きゃしない。人を好きになるのに理由も条件もいらないでしょ。それなのに、『世間一般では許されないことだから』って、感情を抑え込まなきゃいけないの?自分に嘘をついて生き続けていかなきゃならないの?そんなの人間じゃないわよ。感情があるからこそ毎日が楽しいし、嫌なことがあったって楽しさを糧に乗り越えられる訳じゃない。人を好きになってしまったら、なおさら。この人がいるから自分は生きている価値がある、生きる意味があるんだって思えるわ。愛情は、生きる糧となるし、生きていることの証なのよ。

愛する人とゆっくりと過ごし、同じ体験をし、語り合う。お互いの感動を共有し、いたわりながら生きていく人がいることこそ人生の喜びよ。あなたがそばにいてくれてホントによかった、と言ってもらえたら素敵じゃない。それなのに愛していながら、そばにいることを許されないなんて…あんまり、理不尽よ。


あ、ごめんなさい。私の変な理屈につき合わせて、時間が経っちゃったわね。続きをお話ししますわ。

自分の気持ちが抑えられなくなるといけないから、ディナーはやめてランチを何度か一緒にしたの。しばらく経ったランチの時、デザートの小さなブッシュドノエルを食べながら彼が言ったわ。

『実は…おひとりさま、になっちゃってね。』

『え、おひとりさまって…奥様は?』

彼の話によると、こう。あの日から、あ、初めて二人っきりで食事をした日からね、一週間くらい経って、奥様とお互いの仕事のこと、同居しているご両親のこと、をじっくり話し合ったんだそうなの。『あなたの体がもちませんよ』。彼女の言ったあの一言が後押しになったのかしらね。そしたら奥様、『両親と自分に気を使って苦しんでいるのなら、少しでも負担が減るように別々の道を歩きましょう。』っておっしゃって先月離婚したんですって。自己中なのか優しいのか分からないけど、とにかく気を使わなきゃいけない材料が一つ減ったってことね。それと同時にご両親にもお話しして、仕事の都合で帰宅時間が遅くなるから、と説得して別居することにしたらしいの。


その話を聞いて、彼女の心は大きく揺らいだわ。望んでいたことなのに、素直に喜べない。これからどういう態度で彼と接したらいいんだろうって。彼も同じだったと思うわ。奥様と別れてすぐ彼女に気持ちを告白するのは軽率じゃないか。手っ取り早い相手だと軽く見られていた、と彼女が思うんじゃないかって。なんとなく今までよりもお互いの距離が遠くなったような気がした。望んでいることは同じなのに、どちらも言いだせないでいたの。何を望んでいたかですって?ちょっと、あなた鈍いわねぇ。それわぁ…


あらいやだ、もうこんな時間!ごめんなさい。ちょっと行かなきゃいけないところがあるのよ。これから先、詳しくはウェブで、じゃなかった、小説“霞”で検索なさって。はぐらかしてる訳じゃないの。ほら、御覧の通り私って素敵でしょう?だから悪女交流会の会長をしてるの。ホホホ…あ、こうしちゃいられない。みなさん、詳しくは“霞”でお話ししますわ。ごめんあそばせ。」


立ち去りかけて、こちらを振り向いた。

「二人がどうなったか知りたいわよね~ぇ。じゃあ、“霞”においでになってね。ホホホ。私ってくどいわねぇ。でもいい女でしょ?ホホホ…」

 甲高い笑い声が、先程のように辺りにこだましながら昇っていく。

「“霞”よぉ!ホホホ…」


またあの周期的な音だけが聞こえてる。

                           続


その話を聞いて、彼女の心は大きく揺らいだわ。望んでいたことなのに、素直に喜べない。これからどういう態度で彼と接したらいいんだろうって。彼も同じだったと思うわ。奥様と別れてすぐ彼女に気持ちを告白するのは軽率じゃないか。手っ取り早い相手だと軽く見られていた、と彼女が思うんじゃないかって。なんとなく今までよりもお互いの距離が遠くなったような気がした。望んでいることは同じなのに、どちらも言いだせないでいたの。何を望んでいたかですって?ちょっと、あなた鈍いわねぇ。それわぁ…

あらいやだ、もうこんな時間!ごめんなさい。ちょっと行かなきゃいけないところがあるのよ。これから先、詳しくはウェブで、じゃなかった、“東郷十三”におききになって。はぐらかしてる訳じゃないの。ほら、御覧の通り私って素敵でしょう?だから悪女交流会の会長をしてるの。ホホホ…あら?あなたの中にいるのってカトリーヌじゃない、以前カーリーだった!へぇ~(あるじ)って、あなただったのぉ~。ふ~ん。あ、こちらのかたは、サラスパ、いや、サラスバティーの(あるじ)様ね。ずいぶんとお若いのね。知ってる?サラは太っちょのおばちゃんなのよ、本当は。あ、こうしちゃいられない。みなさん、詳しくは“東郷十三”にきいてみて。ごめんあそばせ。」

立ち去りかけて、こちらを振り向いた。

「二人がどうなったか知りたいわよね~ぇ。じゃあ、“東郷十三”に確認なさってね。ホホホ。私ってくどいわねぇ。でもいい女でしょ?ホホホ…」

 甲高い笑い声が、先程のように辺りにこだましながら昇っていく。

「“東郷十三”よぉ!ホホホ…」


またあの周期的な音だけが聞こえてる。

                                                                      続


お互いが望んでいることは一つ。その後の現実の二人はどうなったのでしょう。続編「霞」で確認なさってください。

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