■後編 別れ
そして、それは中学3年の夏のこと。
3人で夏祭りに行く約束をした、とある夕暮れ。
僕はいつもの待合せ場所、リコの家へ向かっていた。
本来なら嬉しいはずのその道のりも、その足取りは踵を引き摺り重く鈍い。
涙の雫がいまにもこぼれ落ちそうなのを、必死に堪えて坂道を上った。
いつものリコの自宅玄関前で暫し立ち尽くした僕。
今まで何度となく押してきたドアチャイムをじっと見つめる。そしてその
感触を刻み込むようにゆっくり指先でチャイムを鳴らすと、リコの母ハル
コがドアの向こうに姿を現し、家の中に上がるよう促された。
僕は思わず、ハルコの顔を真っ直ぐ見つめた。それは幼い子供のように、
じっと。すると、その視線にハルコがやわらかくニコリと微笑み返した。
玄関を上がってリビングに通された僕は、今、浴衣に着替えているリコを
少し待っていてくれるよう言われ、ソファーに腰掛ける。座り慣れたそれ
もどこか懐かしむように目を伏せると、ハルコは急になにかを思いついた
ように胸の前でパチンと手を打ち表情をパッと明るくした。
『タケ君も、せっかくだから浴衣着ない?
ウチのお父さんのお古だけど・・・。』
そう言うと、ハルコはパタパタと和室へ駆けて行き押入れからゴソゴソと
それを引っ張り出し、僕に見えるように濃紺のそれを掲げた。
そして、ひとり『うんうん』と頷き、満足気に微笑んだ。
畳の青いにおいが漂う静かな和室で、ハルコに浴衣を着せてもらう。
浴衣なんて持ってないし着る機会もないし、生まれて一度も着たことは無
かった。
こんなタイミングで、こんな・・・
『僕・・・ 引っ越すことになったんだ・・・。』
言おうか言うまいか悩みあぐねた僕の喉の奥から、消え入るようなかすれた
声がこぼれ落ちた。
『母さんが、また・・・
・・・母さんの都合で、引っ越すことになったんだ・・・。』
僕の足元でしゃがんでいたハルコの帯をしめる手が止まり、驚き哀しく目を
眇めて言葉もなくじっと僕を見上げ、見つめている。
『また・・・ 母さんの、勝手な都合で、また・・・。』 みるみる頬が引
き攣り歪んでゆくのを感じる。
『早く・・・ 大人になりたいよ、僕・・・。』
その声は、悲哀が溢れ最後に嘲るように少しだけ寂しく笑いを含んだ。
すると、そんな僕を涙で潤んだ目でやさしくやわらかく見つめるハルコが
そっと目を伏せて暫しなにか考え込み、しかし心を決めたように呟く。
『急いで大人になることなんかないわ・・・。』
ハルコが続ける。
『嫌でも大人にならなきゃいけないんだから、急ぐことはないわ。
・・・今は・・・ お母さんの傍にいなさい・・・。』
その声は決して突き放す訳でも他人事と思っている訳でもなく、まるで自分
の息子へと語り掛けるように諭すように、穏やかに波打って響いた。
僕は顔が上げられなかった。
しゃがみ込み膝を抱えて小さく丸まり、まるで幼い子供のように顔をクシャ
クシャにして泣いた。
なんとか声が漏れないよう、リコにだけは聞こえないよう、口許に手をあて
て必死に堪える。
そんな僕の震える背中を、ハルコが優しくなでる。
『大丈夫、大丈夫』と繰り返し僕の背中を、そのやわらかく温かい手で。
夕立のような涙の雫が、浴衣にいくつもの濃紺の跡をつけた。
その夜のことは、きっと一生忘れないだろう。
あさがお柄の浴衣を着たリコが、僕の隣で笑っていた。
ナチが急用で来られなくなり、ふたりで行くことになった夏祭り。
はじめての、ふたりきりの夏祭り。
履きなれない桐下駄に、橙色の提灯のあかりで眩しい賑やかな出店にはしゃ
ぎ余所見したリコが躓いた。
そっと手を握って引っ張り上げ、僕はリコに言う。
『意外に、リコは一人じゃ危なっかしいからな~・・・』
そう笑って何気なく言ったつもりだったけれど、はじめて握ったリコのひん
やり冷たい手に、僕のそれは格好悪いけれど少し震えていたかもしれない。
リコがちょっと不貞腐れたように、笑う。
リコがりんご飴の出店を見付けて、再び駆け出す。
リコが振り返り手を振って、僕を急かす。
リコが・・・
リコが・・・・・・
離れたくないなぁ・・・
リコと、ナチと、離れたくない・・・
ずっと、一緒に、笑ってたいなぁ・・・
・・・いつか、僕が、リコをしあわせに出来たらなぁ・・・。
そして僕は、リコとナチのいる街を離れた。
引っ越す日の朝、ふたりは涙で真っ赤にした目を僕に向けて何度も何度も繰
り返す。 『連絡してね! 絶対、連絡してね!!』
僕は、泣かなかった。
一度泣いてしまったら、もう、止まらなくなる。
ふたりと離れたくないという本音を口に出してしまう。
最後のあの一言は、きっと、僕の強がりだったように思う。
『母さんを一人には出来ないから。』
そして、ふたりは僕に抱き付いて声を上げて泣いた。
右側のナチと、左側のリコ。
ふたりの背中に片方ずつ手をまわして。
僕もふたりに気付かれぬよう、ほんの少しだけ目尻から雫をこぼした。
さようなら、大好きなこの街。
さようなら、大好きな友達。
さようなら、大好きなリコ・・・
さようなら・・・
さようなら・・・・・・。
結局僕は、リコに気持ちを打ち明けることが出来ないままだった。
最後の日、渡すつもりでポケットに忍ばせていた2通の手紙はそのままに。
1通は、あの小学5年の時に書いた手紙。
あの学校を転校する朝に、リコに渡そうとポケットに入れていたもの。
そして、もう1通。
”リコが、好きだ。 大好きだ。”
そんなたった1行の気持ちですら、結局、臆病な僕は伝えられずに・・・
そして僕は、新しい街へ旅立った。
【おわり】
引き続き、【眠れぬ夜は君のせい】スピンオフ(キタジマ編、アカリ編)・番外編(コースケ&リコ)をUPしていきます。暇つぶしにでもどうぞ。併せて【本編 眠れぬ夜は君のせい】も宜しくお願いします。