アクシデント
真知子がトイレに行きたいからと夫に涼子を預けると、この駐車場のさらに向こうにある、店のトイレを借りに向かった。敏行は、涼子と一緒にその場で待っている。
そこに「よう、トシじゃん」と声をかけてくる男がいた。
「おお、ケンジか。奇遇だな」
敏行とケンジと呼ばれた男は、親しげに話している。どうやらこのケンジという男は、敏行の会社の同僚らしい。まだ二十代……敏行とそんなに変わらないくらいの青年で、同期なのかもしれない。
「お、トシの子供か? 名前なんて言うんだっけ」
「ああ、そうだ。涼子だ」
ケンジは、涼子の目の前にしゃがみ込んで、「涼子ちゃん、こんにちは。その帽子、可愛いねえ」と、笑顔で言った。涼子は、先月買ってもらったばかりの、小ぶりな麦わら帽子を被っていた。
「ほら涼子。こんにちは、は?」
敏行に促され、少し恥ずかしそうに「……こんにちは」と言った。あまりハキハキしていると違和感があると思ったので、そのようにしてみた。同時に帽子のつばを持って顔を隠すようにした。涼子も、子供っぽく見せる仕草を日々研究している。なかなかうまくいっている、と自信がある。
「お利口さんだねぇ、涼子ちゃん、何歳かなあ」
「歳はよくわかっていないと思うぞ。ちなみに二歳だ」
隣で、敏行が口を挟んだ。
「ははは、まあそうかな。それにしても二歳か。なんか去年くらいに娘が生まれた、とか言ってたような気がしたが」
「そんなわけないだろ。お前、暑さで頭がやられたんじゃないのか」
敏行は笑った。
「そりゃ、あんな職場じゃやられもするぜ。あはは」
「違いねえな、はっはっは」
敏行の会社の工場は、夏場に関わらず暑かった。設備の稼働などに熱が発生する工程などがあり、そう言うところでは真冬でも半袖で居られるくらい暑い場所もある。また、基本的に建屋自体が割合古く、近隣に建物が増えたせいか、窓を開けてもあまり風が入らないこともある。
「それより、お前はどうして、こんなところをひとりでブラついているんだ?」
「カミさんが実家に用があってさ。今日はひとりなんだよ。トシは家族でお出かけか?」
「そうだ。ちょっと後楽園に行って見ようと思ってな。娘も初めてだし近いからちょうどいいかなって」
「なるほど。そりゃいいじゃないか」
ふたりは話に夢中だ。涼子はそろそろ母が戻ってくるか、と思ったその時、視線の向こうに猫がいた。真っ黒な猫だった。たぶん野良猫だろうと思って見ていると、こちらに近づいてきた。音も立てずにスイスイと近くに寄ってくると、涼子の足にまとわりついてきた。可愛らしい黒猫で、撫でてやろうと思って手を出した際、うっかり頭にかぶっていた帽子を落としてしまった。
——あっと、と帽子を拾おうとしたら、猫が帽子を咥えて素早く走っていった。ちょ、ちょっと待った! と思い、慌てて猫を追いかけた。しかし、やっと普通に歩ける程度の涼子には、猫の素早い動きについていけるはずもなく、あっという間に見えなくなる。しかし、このままではいけない、とそのまま猫を追いかけた。
「——待ったかしら……あら、どちら様?」
真知子は、夫と一緒にいる見知らぬ男を見て言った。
「ああ、会社の同僚で河原っていうんだ」
「トシの奥さん? どうも初めまして。河原です」
ケンジは真知子に笑顔で挨拶した。
「まあ、それはそれは。こちらこそどうも、いつも主人がお世話になってます」
真知子も深々とお辞儀をして、社交辞令を述べた。
「じゃあ、奥さんも戻ってきたし、俺は行くわ」
「おう、じゃあな。また明日」
「ああ」
ケンジは、ニコニコと手を振りながら去って行った。それを見送ったあと、真知子は異変に気がついた。
「涼子ちゃん?」
すぐに不安そうな顔になり、周囲を見渡す。しかし涼子の姿はなかった。
「あ、あれ? 一緒にいたのに……」
敏行も、表情に焦りが見えている。つい同僚との偶然の遭遇に、話に夢中になって、涼子のことを忘れていた。
「あ、あなた! 涼子は、涼子ちゃんは!」
「ま、まあ、落ち着け。その辺にいるんじゃ……」
敏行もキョロキョロと周囲を見ているが、どうも近くにはいないようである。
「涼子! 涼子ちゃん! どこに行ったの!」
真知子は、周辺に向かって大声で叫ぶ。近くを通りがかる人が、何事かと真知子の方を見た。
「涼子ちゃぁん!」
——どこに行ったのだろう?
涼子は、道なりに歩いて周囲を探している。しかし、あの素早さだ。遠くに逃げられたら、もう帽子を取り返すのは無可能だろう。これはもう無理かな? と諦めの気持ちが浮かんできたが、もしかしたらこの近辺に潜んでいるかもしれない、とも考えて捜索した。
どのくらい探しただろうか、いつの間にか、周囲は見知らぬ景色に変わっていた。もう車を止めた駐車場は見えない。これは、ちょっとまずいかも……と、不安が芽生えてきた。この表町付近は本来なら土地勘があるのだが、それは今より何十年もあとの土地勘だ。昭和のこの近辺は、はっきり言ってまったくわからない。
「……おかあさぁん」
涼子は母親の名前を呼んだ。しかし、返事は返ってこない。そもそも、こんな市街地で、幼児がひとりでいるような事態に、周囲に誰もいないなんて。間が悪いことこの上ない。どうやら本当に迷子になってしまったようだ。これはマズい。
オロオロしていると、ふいに目の前に人が立っていた。高校生くらいの男の子だった。短く切った頭髪に、黒縁眼鏡のその姿は勉強のできそうな印象だ。あまり背は高くないが、いわゆるガリ勉という言葉が似合いそうな少年だった。
「どうしたんだい、迷子かな?」
少年はそう言って、涼子に微笑みかけた。涼子の前でしゃがみこむと、涼子の目線に合わせて、ニコリと微笑んだ。
「う、うん……あっ!」
涼子は少し警戒心を抱きながら答えると同時に、少年の手には探し物を持っているのに気がついた。
「ぼうし……」
「うん? ああ、もしかして、この帽子は君のかい?」
「うん」
「そうか。さっき、その向こうに落ちててね。交番に持って行こうかと思ったんだ」
少年はそう言うと、帽子を涼子の頭にのせた。涼子はそのまま両手で帽子を深く被った。そして、目の前の少年を見た。この少年は何者だろうか? 私に危害を加える可能性は? まだ二歳の幼児である自分には、何かをされた時、とても抵抗する力はない。
「……そうか。それは辛かったね。この辺に交番は……」
少年はキョロキョロと周囲を見渡している。どうやら涼子を交番に預けようと考えているようだ。真っ当な判断である。しばらく周辺を見て回っているが、見つけられなかったようで、困った顔をしている。
「ないな……参ったね。探すと言っても……ねえ、名前は何ていうの?」
「……りょうこ」
「りょうこちゃんか。よし、ちょっとこの近辺を探してみよう」
「うん……」
涼子はまだ、この少年を完全には信用していない。ただ、だからと言って、少年と別れても事態が好転するとは思えなかった。とりあえずは一緒に探してもらうのが得策だろう。
「お母さんも涼子ちゃんのことを探してるはず。大丈夫だよ。きっと会えるさ」
涼子は返事をしなかった。
「そうだ、僕は増田、増田智洋と言うんだ」
「ますだ?」
「うん、そうだよ」
増田智洋——涼子はその名前がどうも引っかかる。どうしてなのか思い出せないが、その名前は聞いたことがあるように思った。もしかしたら、小学校か中学校の同級生だったかもしれないと考えた。
——この増田智洋という男は、涼子は知っているはずの男だった。
前の世界において、増田は大学生の頃に地球の環境破壊について研究していた。その大学時代に同志グループを結成して、何やら活動していた男だ。その後、次第にグループは反政府運動組織に変わっていき、警察から極左組織として警戒されるようになっていった。反社会組織のリーダーとして、一時マスコミを騒がした人物であり、二〇〇〇年頃にはテレビでもよく名前が出てきていた。涼子が過去に来る直前の、二〇一七年にはもう亡くなっていたので、その頃にはもう話題にはなっておらず、涼子も忘れている。