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成長

 余談だが、最近両親というか真知子は、涼子のことを「涼子」と呼び捨てか、「涼子ちゃん」と呼ぶようになった。これはどういうことかというと、最近近所に引っ越して来た若い母親が、時々子供を連れて藤崎家に遊びにきている。その息子が良平といい、もちろんあだ名は「りょうちゃん」である。要するに、紛らわしいから変えたようだった。この母親は、真知子と親しくなって、よく会いにやって来た。

 涼子は前の世界を思い出し、小さい頃に近所にその「りょうちゃん」がいたのを思い出した。ふたつ年上で仲がよかった。よく一緒に遊んでいたものだ。長らく会っていないから、とても懐かしいものである。


 季節はあっという間に流れていき、涼子を取り巻く環境も、それほど変化はないが、寒い時期から暑い時期に変わり、再び涼子の誕生も近い八月になっていく。

「いやあ、暑いなあ。今日もカンカン照りだな」

 敏行はタオルで額の汗をぬぐいながらつぶやいた。仕事から帰って来て早速、扇風機の前に陣取った。台所から顔をのぞかせた真知子は、暑そうにしている夫を見て言った。

「まだ八月だものねえ。ちょっとだけクーラー効かせる?」

 真知子も額にうっすらと汗が滲んでいる。

「おう、クーラーだ。クーラー。涼子も暑いだろう?」

 よちよちと、父のそばに近づいて来た涼子を抱き上げて言った。真知子は、居間の窓に設置してあるクーラーのスイッチを入れた。ブゥゥ……と割合大きな音がなり風が出てくる。藤崎家では窓枠に取り付けるタイプのクーラーを設置している。もうセパレート型のものが発売されており、窓用クーラーは、二〇〇〇年代にはもう、すでにあまり見かけないタイプだが、この時代はまだ使っている家庭も多かった。ちなみに、クーラーと言っている通り、藤崎家のクーラーはもちろん冷房専用である。暖房はストーブを使っている。


 テレビでは「およげ!たいやきくん」が流れている。昨年の一九七五年の十二月にレコードが発売され、あっという間にミリオンセラーを達成した人気曲である。

 これを聞いた敏行は、「最近、この歌はよく聞くなあ」と、隣にいる妻に言った。

「すごい人気があるのよ。隣の山田さんとこの子がいるじゃない。幼稚園の。あの子が大好きで、いつも家で歌ってるって奥さんが言ってたわよ」

「へえ、そうなんか」

 敏行は缶ビールを手に取ると、プルトップを引っ張って飲み口を開けると、ぐいっとひと口飲んで「いやあ、うまい!」と笑顔で言った。それを見た真知子は、苦笑いしながら、

「あんまり飲み過ぎちゃだめよ。お酒弱いんだから」

 と注意した。

「はは、わかってるよ。一本だけだから」

 敏行は、ビールが好きだ。お酒が飲める歳になった頃には、新しく缶ビールが登場し一般家庭に普及し始めだした頃で、敏行も瓶ビールよりも缶ビールを飲んでいる。結婚時に購入した冷蔵庫には、常時五、六本は缶ビールを冷やしていて、毎日一本か二本を夕食の後に飲んでいる。

 真知子が言っているが、敏行はアルコールに弱いようである。実際、会社の同僚と飲みに行った時などは、いつもすぐに酔っ払ってフラフラになって同僚たちを困らせている。しかし今ではみんな面白がって、むしろ敏行を酔わせたりして盛り上がっていることもある。

 涼子は、両親がテレビを見ている居間の片隅に設置しているベビーベッドの上にいる。眠っているふりをして、実は起きていて、両親の会話を聞いていた。涼子はよく、こういうことをしている。色々と知りたいのだ。ただこういう時は、いつのまにか寝てしまうことが多いのだが。



 今日は一九七六年九月十二日である。涼子の誕生日だ。本日、一歳となった。

「涼子ちゃん、お誕生日おめでとう!」

 真知子は、満面の笑みで小さく両手を上げて、涼子の初めての誕生日を祝っていた。隣で同じように、にやけた表情で手を叩いている敏行は言った。

「とうとう涼子も一歳か。なんというか、感無量と言うのかねえ。もう一年経つんだな」

「ふふふ、あなた。これから大変よ。お仕事がんばってよね、お父さん」

「お、おう。俺はやるぞ。お前にも涼子にも、絶対苦労はさせんからな!」

 敏行は、岡山市内の化学プラントの下請け会社で働いている。社員二十名ほどのあまり大きな会社ではないが、各種金属加工が可能で、いわゆる製缶工や配管工などの仕事をしている。工場設備の修理改造などが主な業務である。

 岡山県南部の児島湾沿いにそのメーカーの工場があり、敏行の務める会社は、ほぼその工場から仕事を受注している中小企業だ。まだ二十代で、給料もそんなにいい訳ではないが、それでも安定した会社で、安定した給料をもらっている。ただ残業や休日出勤は割と多いみたいで、時期によっては一ヶ月の間休みがまったくないこともある。また、帰ってくるのも日が暮れて、午後七時とか八時くらいが多い。

 ちなみに敏行は、若いながらも腕がいいことで評判の職人であった。将来は独立して、自分の会社を持って……などということを考えていたりもしていた。

 居間の中心にある、あまり大きくないテーブルには、小さなケーキが載せられている。ケーキには一本だけロウソクが立てられていた。

「ハッピーバースディトゥユー。ハッピーバースディトゥユー。ハッピーバースディ、ディア、涼子ちゃん!」

 真知子は次第に気分が高揚してきたのか、満面の笑みでバースデーソングを歌い出した。「さあ、ほら。あなた!」と、今度は敏行が歌え、と促している。

「ハ、ハッピーバース……ああ、そんなのいいじゃないか。ロウソクの火を消してケーキ食べようぜ」

 敏行は、照れくさくなったのか、顔を真っ赤にしてすぐに歌うのをやめた。

「もう、しょうがないわねえ。まだ涼子ちゃんだけじゃ消せないかもしれないから、みんなで一緒に消しましょうよ」

「おう、じゃあ行くぞ。ほら涼子、こうやってな。ふぅって……」

 家族三人でのささやかなお誕生日会は、質素ながらも幸せな家族の姿を描き出していた。



 一歳の誕生日を過ぎた頃の涼子は、最近少し言葉が言える様になってきていた。もちろん、まともに意味の通じる様な言葉にはなっていないが、努力はしている。

 この日も涼子は、真知子に声をかけてみることを試みた。

「だぁ、ああ……」

 まだうまくいかない。そろそろ、もう少しはっきりとした言葉を話せてもいいのになあ、と思いつつ、何度もチャレンジした。

「なぁに? 涼子ちゃんは元気いっぱいねえ」

 真知子は涼子の頭を優しく撫でながら微笑んだ。

「お、かぁぁん……おかぁさあん……」

 やはり上手くは喋れない。しかし、それを聞いた真知子は、

「——涼子ちゃん!」

 と感動に半泣きになって、涼子を抱きしめた。

「涼子ちゃんが、お母さんって呼んでくれた! 呼んでくれたわ!」

 嬉しそうにほおを撫でながら、夫に向かって叫んだ。

「うん? どうしたんだ?」

 トイレから戻ってきた敏行が、大喜びしている妻に尋ねた。

「あなた! 涼子ちゃんが、涼子が「お母さん」って言えたのよ!」

「おお、本当か。涼子、お父さんって言えるか?」

「おとぉ……ん」

「おお、まだ舌足らずだが、言えるじゃないか!」

 敏行は笑顔で娘の頭を撫でた。涼子もニコニコした。

 涼子も少しづつ成長している。もう這って動くことは難しくない。多分、二歳までには歩ける様になるだろう。言葉だって次第に言える様になっている。今はまだ、のんびりと両親の愛情を享受しながら日々を過ごしていこう、と心に思った。

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