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初恋?

「えい! このぉ!」

 翔太は自慢のハエたたきを持って、隼人とチャンバラ遊びをしていた。隼人の方は新聞紙を丸めて作った棒である。翔太の攻撃を簡単にかわしながら、的確に翔太の頭に軽くヒットさせた。

「もらいっ!」

「ああ、もぅ――おにぃちゃん、つよいぃ」

「ふふん、まだまだ翔太に負けるほど弱くはないぜ」

 隼人は余裕の表情だ。まだ幼稚園にすら行っていない幼児に、簡単に負けるわけはないだろうが、軽々としたその回避の様も見事なものだった。さすがは運動神経がいい隼人である。涼子も机の前でその様子を見ていて感心した。

 それはそうと、涼子のそばにある机。これは椅子ではなく床に座った状態で使う、いわゆる文机だ。以前からこの家にあった文机で、見た目も使い込まれていて古臭い上に、あちこち傷もあってボロい。子供が小学生になった時などに、一般的によく買ってもらうであろう「学習机」は、金銭面で厳しいという判断で買ってもらえなかった。あとで買ってやる、と敏行は言っていたものの、正直なところ、それがいつになるのか見当もつかなかった。

 大人の感覚からしたら、学習机など後々には子供っぽいし小さいので使わなくなっていくものだ。しかし前の世界でも、同級生の友達は普通に買ってもらって、様々な機能が付いているその学習机が羨ましくてしょうがなかった。

 実は、真知子は涼子が買って欲しいのだろうことに気がついていたので、どうにかして買ってやりたかった。涼子はあまりおもちゃなどを欲しがらないから、我慢する子だと思っていた。だからこそ買ってやりたいが、まだ借金だらけで難しい。先に必要なものはたくさんある。親から見てももどかしいのである。


「なんだ涼子、つまらないなら一緒にやるか?」

「ううん、翔くんと遊んであげてよ。私はいい」

 涼子はそう言って、隅に置いていた国語の教科書を開いた。

 ――隼人なんて見た目だけで、頭の中はお子ちゃまじゃないか。翔太と大して違わないじゃん。所詮は小学生。と、自分は違うんだと言い聞かせた。

「なんだ、宿題か?」

 隼人がそばにやってきた。

「違うよ、予習してるんだ。私、勉強好きだもん」

「ふぅん。やるじゃん」

「何が?」

「へへっ、俺なんてさ、勉強なんかしたくないからさ」

 そう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。普段はあまり見せることのないその笑顔は、さすがにモテるだけあって、とても魅力的だった。それにドキッとする一瞬があって、涼子は顔を真っ赤にした。

「ん、どうしたんだ?」

「な、なんでもない!」

 涼子はそっぽ向いて、手に持っていた国語の教科書で顔を隠した。

「なんでもない、ってことはないだろ」

「本当になんでもないったら!」

 涼子は、振り向きざまに隼人の顔に教科書を叩きつけて、部屋を出て行った。

「痛てえな、何すんだ!」

 隼人は赤くなった鼻を押さえて叫んだ。

「知らない!」

「どこにいくんだよ」

「お便所!」


 涼子はふと、この感情は今が初めてではないと思った。別に隼人と初めてあった時そうだった、とかいう話ではない。

 もっと前——そう、前の世界でもあったような気がしたのだ。でも、前の世界でそれはありえないだろう、と頑なに否定する。じゃあ、一体どういうことなんだろう? トイレに入って、和式便器にまたがったままずっと考えていたが、やはり、かれこれ六年と半年ほど女の子として生きてきて、次第に女の子の感情が芽生え始めているのだろうかと考えた。実際に、もう女の子としての振る舞い自体は、生まれてこの方ずっとであるから、もう自分自身でも違和感もない。むしろ男っぽい振る舞いの方が周りから奇異に見られるだろう。

 ——それにしても、よりによって隼人にドキドキするようなことがあろうとは。隼人がハンサムだとは言ってもねえ……。


 子供部屋に戻ってくると、相変わらず翔太と隼人はチャンバラぼっこを続けていた。涼子は無視して、机に戻って頬杖ついて物思いに耽った。

 ふと頭の片隅に、どこか見覚えのあるような男の姿が浮かんだ。とても大切な人だという気がした。男の姿はぼやけていてよく思い出せない。

 ——うぅん、誰だったかなぁ……。

 ふと、自分の結婚相手——夫だったような気がした。

 ——いやいや! そんなばかな。それはありえない。もしかして、今の自分の将来でも『未来予知』しちゃったかな? なんちゃって。

「おい、どうしたんだ? ぼけっとして」

 いきなり背後から声をかけられて、びっくりして飛び上がりそうになった。

「な、なんでもないって」

 涼子は慌てて取り繕うと、ふと——もしかして隼人が? などと考えてしまった。いや、それはない。それは……ないと思う……。

 


 その日の夜。涼子は夢を見た。

 涼子がもっと上の年齢ではないかと思われる女性の姿をしている。どこか施設の研究室のような場所で、数人の白衣を着た男女がコンピュータなどを駆使して、様々な実験を行なっている風だった。この時代にはまだコンピュータは一般的ではない。涼子の容姿のことも考えると、もっと未来——少なくとも平成以降のことかと思われる。

 大人の涼子は、もっと若い、二十歳前後の青年に何かの指示をしている。

「……くん、このデータで確認してみて」

「はい。……これは、なるほど。これならいけるかもしれないですね」

「ええ、早めにお願い」

「わかりました。すぐにかかります」

 青年は、自分の机に向かって行った。大人の涼子も、そう言って自分の机に戻ると、椅子の背もたれにゆっくりともたれ、「……の制御はやはり難しい。でも、やってみせるわ」と、つぶやいた。

 近くにいた別の若い研究者は、「大丈夫ですよ。藤崎先生ならきっと成し遂げられますよ」と笑顔で声をかけた。

「ありがとう」

 大人の涼子は微笑んだ。


「やあ、どうだい?」

 五十代くらいの痩せた中年の紳士が、涼子のいる研究室に入ってきた。それに気がついた涼子の表情が明るくなった。

「ああ、小島先生。お久しぶりです」

「うむ、元気そうで何よりだね」

 小島博士は涼子の変わらぬ様子に、安心している様子だ。その博士の後ろから、男がひとり姿を見せた。

「そうそう、及川くんも一緒でね……」

そう言って小島博士は、及川と呼んだ青年を涼子の前に連れ出した。しかし、その顔は見えなかった。及川と呼ばれた青年が何かを話し始めたが、その声は涼子の耳には届かなかった。

 なぜなら……涼子は天井を見ていた。そう、目が覚めてしまった。部屋の外では生活の音が聞こえる。壁にかかる時計を見ると、午前六時だった。もう朝を迎えていた。

 涼子は上半身を起こしたまま、何もせずにじっとしていた。

 ――あの夢はなんだろう? 私の未来の姿だろうか? なんの研究所かはわからないが、あの大人の涼子は博士とか学者だとか、ああいう仕事をしている風な感じがした。私は将来、そういう仕事をするのだろうか?

 もちろんただの夢なのだから、願望だとか、勝手な想像でしかないのはわかっていた。ただ、どうしても「たかが夢だ」と一笑に付すことはできなかった。小島博士という人はよくわからないが、及川……及川というと、及川悟を思い出す。幼稚園の時に仲の良かった男の子だ。悟かどうかは、夢での顔を思い出せずわからず終いだった。

 前の世界にて、及川聡美という女性がいた。彼女が今、この世界でどうしているのかはわからない。彼女とは、幼稚園で知り合い、いまと同じく引っ越しによって別れ、その後は二十歳前後の頃に再会し、交際を始めた。しかし、その二、三年後に何も言わず突然姿を消した。以来、消息は不明だ。

 ふと、真知子の呼ぶ声が聞こえた。

「涼子ちゃん、起きなさい。ご飯よ」

「……はぁい」

 涼子は布団から出ると、枕元に置いていた学生服に着替えて子供部屋を出た。

 何はともあれ、今日もまた一日が始まる。不思議なことは多くても、今はただ歩み続けるしかないのだ。

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