藤崎工業
涼子の父、藤崎敏行の会社「有限会社 藤崎工業」は、四月中旬から動き始めた。
従業員は四名。社長である藤崎敏行と、その妻の真知子。前の工場の持ち主であった、大沢鉄工から来てくれることになった老職人、大河原源造。そして親戚の市川照久だ。彼は敏行の弟である哲也の妻、弘美の弟になる。高校を卒業して一旦は就職したものの、すぐに辞めてしまい職を転々としていた。そのうち働かなくなり、ブラブラしているのを姉に咎められ、「もし人手を探しているなら、弟を使ってやってほしい」と頼まれたのだ。敏行は最初、使い物になるか少し不安だったらしいが、いざ働き出すと、意外と真面目でよく動く。
この藤崎工業においての取引先は、今までとはまったく別の企業だ。前に勤めていた野村工業は、旭川河口周辺の工業地帯に工場を持つ企業から受注していたが、藤崎工業は、会社のある西大寺の企業と取引をしていた。主なところは、吉井川西岸側の西大寺南部にある日本ファイバー工業や、藤崎工業の工場から少し南に行った、田んぼの向こうにある農機具製造メーカーの工場などだ。もちろん、元請けとして受注することはできず、元請け会社から受注する形になっている。いわゆる孫請けである。どちらも腕のいい職人があまりいないらしく、また立ち上げたばかりの小さな工場にもかかわらず、たくさんの仕事が舞い込んできた。特に日本ファイバーの仕事が多い。鉄工所の元請けが二社あるが、そのどちらからも依頼があった。
岡山県南部は、やはり倉敷市の水島コンビナートが、工業の中心である。業界大手の巨大な工場がひしめいているのだ。ちなみに真知子の兄である内村政志も倉敷市に住んでおり、職場は水島だ。
その関係からか、水島以外――特に岡山市中心部から離れるに従って、工業の賑わいはおとなしくなっていき、この西大寺などは、水島に比べて職人の数は比較にならない有様だった。そのせいもあって、腕のいい職人は仕事には困らない。ただ水島ほど単価が高くないのが欠点だ。
「よっしゃ、それも頼むわ。それから、こっちはまだ後回しでいい」
「はい」
敏行は、照久に仕事を指示すると、工場を出て、すぐそばに併設されているプレハブの小さな小屋に入った。この小屋は事務所だ。表の出入り口の隣には、「有限会社 藤崎工業」の縦長の看板
が取り付けられている。今は木製の安上がりなものだが、後々には金属製の立派なものに付け替えたいと思っている。
「やれやれ、忙しいなあ」
敏行は、事務所に入るなりそう愚痴るように漏らした。
「まだまだこれからでしょ。がんばってよね。社長さん」
中にいた真知子は、夫に向かってからかうように言った。真知子はフルタイムで業務にあたっているわけではないが、一応社員となっている。小学生の涼子はもう手がかからないが、まだ幼稚園にも行っていない翔太はある程度、親の目が必要だ。ちなみに業務としては、事務員の仕事全般をやっている。主に必要書類や伝票、見積書などの作成や管理などだ。結婚前に働いていた会社で、そういった事務仕事をやっていたこともあって、まあまあできている。
「ああ、もちろんだ。でもやることが多すぎて大変だよ」
「それもあなたが選んだ道でしょ。私も出来る限りやるから、あなたもがんばって」
「ああ、そりゃもちろん!」
敏行は少々大げさにガッツポーズをした。
藤崎工業は、創業日からかなり忙しかった。四月に入ってすぐに主に取引してくれる会社から、二、三件の発注があった。その後も断続的に仕事が舞い込んできており、現在は大掛かりな機械部品の製作の仕事を今月中に納品しなくてならないので、それを必死になってやっていた。
職人が敏行を入れてふたりしかいない上に、ひとりは鉄工の仕事を始めたばかりの見習いである。人手がまったく足りていなかった。しかし、創業したばかりで、そう簡単には仕事を断るわけにはいかず、徹夜でがんばっている有様だ。
「ねえ、今日も残業?」
「ああ、今日中に終わらせておきたいのがあるんだ。源さんはやってくれるが、照は今日は五時に上がってもらう」
「照くん、辛そうだものねえ」
照久は、ここのところの残業三昧を文句も言わずがんばっていたが、そろそろ傍目に見て疲れが目立ってきていた。
「今週ずっと十時の夜中までやってたからなあ。倒れたら大変だ。意外とよくやってくれるし、今週はもう五時上がりでいいと思う」
「そうね。でも、源さんは大丈夫なの?」
「源さんは年寄りだなんて侮れないよ。下手な若い衆よりよっぽどタフだしなあ」
大河原源造は見た目は小柄で痩せた老人だが、腕のよさもさることながら、体力も優れている。それは長年の仕事の中で培ってきた、力を入れるところと緩めるところを見分けて、体力を大きく削り取られないように動ける、経験のなせる技だった。経験の浅い若者は、これがわからず常時全力で動いて、すぐにバテてしまう。
「すごいわねえ」
真知子は、工場の方をちらりと見てつぶやいた。
「お父さん、まだお仕事なの?」
涼子は、夕食を食べて再び家から工場に向かう敏行の後ろ姿を見て、真知子に聞いた。泉田にいた頃は、遅いことはあっても、帰ってきてふたたび職場に戻っていくことはなかった。
「そうよ。お父さんは忙しいのよ。涼子がいっぱい勉強できるようにがんばってくれているの。だから、涼子もお勉強をがんばるのよ」
真知子はよくこういう言い方をする。とにかく涼子に勉強をさせたい一心で、事あるごとに「勉強をせよ」を絡ませてくるのだ。世の親などどこもそういうものだが、真知子もやっぱりそういう母親だ。
「うん、がんばる」
そう答えた涼子だが、実際にいい成績でいい学校に進学して、いい会社に就職して最高の人生を送る。それを目指しているのだから、言われるまでもなく勉強をがんばるのだ。
「ただいまぁ……」
疲れを隠せない様子の敏行は、玄関に入るなり床に腰を下ろしてぐったりした。
「おかえりなさい――あなた、大丈夫?」
「あ、ああ。……大丈夫だ。今日はちょっと力仕事が多かったからなあ」
大きなものは、天井に備え付けられたクレーンなどで釣り上げてから移動させるのが普通だが、工場のクレーンは少し古く、移動範囲は限定的なので、場合によっては人力で強引に動かすこともある。そのせいか、場合によっては今日のようにヘトヘトになるほど力仕事が必要になることもあった。前に働いていた野村工業は、ここより規模が大きい工場なので、設備も豊富に揃っているが、小さな町工場にはそこまでの設備は無理だった。
「アルバイトでも雇ってみたらどうかしら」
「アルバイトじゃ、使えるかどうかわからないよ。やっぱりちゃんとした職人が欲しい」
「お給料さえたくさん出せたら、きてくれる職人さんもいるでしょうけど……」
「そうなんだよなあ……でも、まだ今の状態じゃたくさんは出せないよ。もっと余裕がないと。今は現状でがんばるしかない」
「でも無理しないでよね。無理して倒れたら大変だわ」
「大丈夫だよ。これから始まるんだから。俺は見た目よりずっと元気いいんだぜ」
――お父さん。
涼子は玄関にいる両親の会話をこっそり聞いていた。すでに寝ていたが、トイレに行きたくなって、済ませて部屋に戻ろうとしたところに敏行が帰ってきたのだ。
――大変そうだ。やっぱりがんばっているんだな。
涼子は少し胸が締め付けられる思いがした。ふいに前の世界のことを思い出したのだ。前の世界でもここに引っ越してきて、藤崎工業を立ち上げて、初めの頃は連日のように徹夜してがんばっていた。その後、あまり思い出したくない不幸な事件があるのだが、涼子はどうやらそれも思い出してしまったようだ。
――お父さん、無理しないでほしい。絶対に……。
部屋に戻ってから、ふたたび布団に入ると、そんなことをずっと考えていた。




