決意
どうやらここは、過去のようだと確信した。涼太——いや、今は涼子か——は一九七五年……涼太の生まれた頃に戻ってしまっているようだ。
こんな異常な事態が、まさか自分に降りかかるとは、予想だにしていなかったことだった。あの日、妻に追い出され、さまよった挙句に雪の降る公園にたどり着いて、そこで眠ってしまいそうな時に、何者かに襲われた。襲われたと言っても、何かをされたらしいというだけで、何をされたかはよくわからない。
いや、何をされたのかはともかく、この事態がすべてではないだろうか。涼子という名前で、過去の世界に戻ってしまっている。どうやってこうなったかはわからない。ただ、この異常事態も現実だ。夢かもしれない、なんて考えたこともあったが、これはどう考えても夢なんかではない。間違いなく現実だ。
涼太……いや、藤崎涼子は過去の自分に戻ってしまっている。それも、これまでの記憶を持ったまま。
それにしても、涼子はよく寝た。多分、一日の七割くらいは寝ているのではないだろうか、そう思うくらいよく寝ていた。そして、眼が覚めるのも昼夜関係ないらしく、「おい、涼子が泣いているぞ!」と敏行の声が聞こえたかと思うと、「はいはい、りょうちゃん待ってね、今すぐおっぱいあげるわね」などと慌ただしくなった。
「赤ん坊には昼も夜もないな。こんな真夜中に泣き出すとは……」
と、敏行は大あくびをしながらつぶやいた。
「ふふふ、涼子ったら、一生懸命おっぱい飲んでるわ。りょうちゃん、お腹が空いたらいつでも知らせてね。お母さん、真夜中だって飛び起きて、りょうちゃんにおっぱいを飲ませてあげるから」
真知子は、自分の乳房に吸い付いて一生懸命に母乳を飲んでいる涼子に、優しい眼差しを向けながらつぶやいた。涼子は母の愛に、ふと涙が出そうになるが、実際には特に涙は出てこないようだ。必死に母乳を飲み続けているだけだった。
それはそうと、涼子が何かを喋ろうとすると、どうしても泣いてしまうようだ。今の状態は、泣くことが唯一の意思表示になってしまっている。また、どうも泣きやすい気がする。どうかすると泣いてしまう。泣いてしまうと両親が右往左往する。世の中の親は大変だな、と思った。涼太の頃には結婚をしていたものの、まだ子供はいなかった。改めて親の偉大さがわかるものだ。
涼子は、現状を整理することにした。
——どうやら、自分自身が生まれた時代に戻ったらしい。
生まれ変わったというのだろうか? いや、それはどうも違う気がする。別の人物ではない。自分自身の過去だからだ。若い頃の両親が、やはり自分の親として存在しているのがその証拠だ。父も母も、記憶の中の通りである。
そして、これも不可解なことだが……涼子には、涼太だった頃の記憶があった。なんと覚えているのだ。こうなる前、妻と喧嘩して部屋を追い出され、寒さに震えながら、どこかの公園で意識が薄れていき……あの時、諒太が意識を失いつつある中、何者かが諒太の周囲で何かをしていた。やはり気になるが、あれは一体なんだったのだろうか? 当然だと思うが、あれが原因だろうとは予想がつく。
あそこで何かされて、今このような状態にあるのだろう、と涼子は考える。それを確かめる術はないが、かなり高い確率で原因ではないかと疑った。
……ふと考えた。弟の翔太はどうだろうか?
実は涼子には、弟がひとりいる。名前は翔太という。長く会っていないが、どうしているだろうか。
翔太は三年後の一九七八年に生まれる。なので普通に考えて、現在はまだ生まれていないはずだ。実際この家には、敏行と真知子、そして涼子の三人だけである。多分、一九七八年に生まれてくるはずなのだろう。ただ、涼子の性別が変わっているという不可解な事態になっており、この分だと翔太もどうなっているのかわからない。翔太は割と生意気な性格で、特に成人してからはあまり仲が良くなかった。だが、この世界で本当に生まれてくるのか、まったく判断することができず、少し不安な気持ちになった。
何にせよ、時間がかかる。予想するに、まともに体が動けるようになるには、まだ時間がかかるのだ。この事態は訳のわからない不安なことではあるが、考えようによっては、過去からやり直せるということでもある。しかも涼太だった頃の記憶を持ったまま。
涼太の頃は、ロクでもない人生だった。いいことなんてほとんどなかったと言ってもいいくらい、底辺の人生だったのだ。やり直せるのなら、やり直したい。そう思っていたこともあった。その願いが叶ったと思えば、少し気分も前向きになる。
今度は、あんな人生送ってたまるか。そう心に決めて、今度は最高の人生を送れるように絶対にがんばろう。涼子はそう心に誓って眠った。
それから涼子は、『涼太』として生きていた時のことを、「前の世界」と呼ぶことにした。
「まあ、りょうちゃん。可愛いわあ」
五十歳前後かと思われる女性が、涼子の頭を優しく撫でている。涼太はこの女性に見覚えがある。祖母である。母方の祖母だ。その隣には、祖父もいた。
母の真知子は、岡山県南東部の備前市の出身で、当然、祖父母の家も備前市にある。正月や夏休みなどは、敏行の運転する自動車で遊びに行っていた。山と海に挟まれた寂れた田舎町だが、涼子は割と好きだった。山にも海にもすぐに行けて、夏休みなどに泊りがけで祖父母の家に遊びに行った時などは、翔太と一緒によく遊んだ。夏休みだと親戚なども集まってきていて、いとこ同士で遊んだりしていた。とても懐かしい思い出だった。
「……ちいせえもんじゃのう、涼子じゃったか。女の子の孫はふたり目じゃあな」
祖父は笑顔で言った。
「政志義兄さんとこの、ゆりちゃんですね。あの子はもう三歳くらいですかね」
敏行は祖父に言った。
「うん、そうじゃったと思うよ。友里恵も女の子のいとこができたことじゃし、喜ぶじゃろうなあ」
祖父はそう言って笑った。
友里恵は涼子のいとこである。涼子の母方には伯父夫婦——真知子の兄夫婦だ——がいて、そこの子供が三人いる。友里恵はその一番上の子で、涼子より三歳年上だった。下にその後、ふたりの弟ができ、うち大きい方の弟は翔太と同い年である。その真ん中の子から二年後にさらに男の子が誕生している。これで三人兄弟だ。
その伯父は、水島コンビナートの川崎製鉄——後のJFEスチール——の社員であり、確か倉敷市に住んでいたはずだ。現時点ではどうなのかはわからない。が、歳は敏行より上のはずで、それを考えるとすでに倉敷……川崎製鉄の社宅などに住んでいると思われる。ちなみに伯父は内村政志という。
「最近はちょっと暖こうなったわねえ。桜もそろそろじゃろうかなあ」
「そうだわねえ、もう三月も半ばだし桜もそろそろ咲くんじゃないかしら」
祖母の言葉に、娘の真知子が答えた。
「涼子を連れて、桜を見に行ってもええかもしれんのう」
「そうねえ。どこかでお花見しようかしら」
「うちへ来たらええ。近所の公園にようけ咲いとるぞ」
「ああ、あの公園ですね。それもいいですな」
大人たちはほのぼのと、桜より前に世間話に花を咲かせていた。
——そして時間はゆっくりと、そして確実に過ぎていった。