将来への不安
一九八一年十月。涼子の誕生日も過ぎて、夏の暑さも次第に感じられなくなった秋の日々。
敏行は、会社の同僚と暇そうにあくびをすると、休憩室のベンチシートにもたれかかった。
「暇だよな」
「……ああ、暇だ」
同僚もそう言ってあくびをした。
彼らは、暇を持て余していた。朝にひとつ仕事を終えると、もう今日は仕事がない。もっと前から兆候はあったものの、先月くらいから仕事の受注が目に見えて減り始めていた。
敏行の働く会社「株式会社 野村工業」は、いわゆる鉄工所であり、金属材料を加工して様々な製品を製作する会社だ。社長である野村耕三が、終戦後に戦地から故郷の岡山に帰ってきて、この焼け野原の岡山でどうやって生活して行くのか、しばらく呆然としていたが、ある日、知人と再会した際「うちの会社の機械ボロくてね。調子悪いしすぐ壊れるもんだから、製缶とか板金とかやってくれる人いないかねえ、って探してるんだよ」という話を聞いた。野村はそれを聞いて、空襲で死んだ叔父が製缶工で町工場を経営していて、戦争に行く前によく手伝っていたことを思い出し、「自分がやります!」と手を挙げた。
最初はうまくいかなかったが、辛抱強く努力して実績を作り、少しづつ会社を大きくしていった。昭和四十五年には株式会社化し、従業員も二十名を超え、下請業者も三社抱えて、総勢四十数名が常時働いている。順風満帆だった。
しかし去年、野村の知人で特に親しかった、取引先会社の工務部長が定年退職したあと、雲行きが怪しくなってきた。次に部長になった人物は、別の鉄工所と仲が良く、野村工業よりも親しい鉄工所に多く発注するようになった。それに、取引先の工場も需要拡大に合わせて工場を次々と拡張し、それに合わせて鉄工所への発注も増大、野村工業だけではカバーできず、他社の参入を許す羽目になってしまった。
それでも忙しいくらい仕事はあったが、去年、工場に大規模な設備を増設した際、大手が元請けとして牛耳ってしまったために、野村工業は関わることができず、その後も予算の集中する新設備から締め出しを食らったような格好となり、それ以降仕事……というか、売り上げの減少に歯止めがかからなくなった。
これに業を煮やした野村は、従業員の職人たちに発破をかけるも、仕事がないのではどうしようもない、と逆に反発を食らって、一部の若い職人が会社を去って行く事態にまでなってしまった。
敏行の同期で、腕がいいことで評判だった男が、この夏に会社を去った。そしてついこの間、仲間で呑みに行ったとき、この同期と話したが、どうも来月から水島の大手鉄工所に就職が決まったそうだ。同期に「なあ藤崎。お前くらいの腕があったら、どこでも歓迎されるぜ。やりようによっては、独立だっていけるかもしれんぞ」などと言われ、自分も本気で考えてみようか、と思い始めていた。
「——なあ、お前転職とか考えてないのかよ」
敏行は同僚に向かって言った。
「転職ねえ。いい会社があるんならなあ。職安行ってみるかなあ」
同僚は、やる気なさそうにつぶやいた。彼もこの暇な状態に危機感を抱いているようではあるが、生来のんきな性格なせいか、言うだけで行動に移そうという気は感じられなかった。同僚はふと敏行の方を見た。
「それより、藤崎はどうするんだよ」
「俺か? 俺もどうにかせんとなあ。やっぱ、ここじゃ将来性ないよなあ」
敏行も、この野村工業に居続けて大丈夫なのか、という不安がある。こんなところで腕を腐らせるわけにはいかない、というのと、家族のことがある。涼子は来年から小学生だ。今後はますます貯金が必要になってくる。
「俺も職安を一回のぞいてみようかな」
「ああ、じゃあ今度行ってみないか?」
「そうだな。一緒に行ってみるか」
ふたりはそう話し合って会話が途切れた。それから少しして、昼休みに入った他の職人たちが、休憩室にぞろぞろと向かっていった。
「来週の日曜日に、ともちゃんがうちに遊びに来るそうよ」
真知子は、隣で絵本を読んでいる涼子に言った。涼子はゆっくりと絵本から目を離し、母の顔を見た。
「ともちゃんが?」
「ええ、夏に会って以来だったかしらねえ。楽しみねえ」
「うん、ともちゃん、大好きだもの」
涼子は嬉しそうに笑った。いとこの藤崎知世の家は、車で行けば割合近いところに住んでいるが、さすがに歩いていけるような距離ではないので、意外と会う機会は少ない。年に十回も会っていないだろう。知世は明るく無邪気で、友里恵のような独りよがりな部分がないため、涼子の好感度はとても高かった。
「日曜なの?」
「そうよ。今度の日曜」
「日曜が楽しみ!」
「うふふ、そうね。涼子ちゃんはともちゃんと仲がいいものね」
真知子も、無邪気に笑う娘の姿に笑顔がこぼれた。
涼子は夜、寝室にしている和室から、窓辺に行って、窓の外を眺めた。鈴虫の澄んだ鳴き声と、遠くから聞こえてくる車の騒音がかすかに聞こえている。部屋の中では、敷かれた布団に翔太がすでに眠っている。
涼子は自分の体を見た。とても小さな体だ。まだ六歳になったばかりなのだから当然だ。これは夢か幻か。いや、そんなわけはない。夢や幻ならば、あまりにも長すぎる。もう六年なのだ。こんな長い夢などあるものか。
しかし、どうして過去からやり直すような事態になっているのだろう。その問いには未だにまったく答えが見えてこない。それに、自分は男だったはずだ。しかし、この世界においては、自分は女として生まれ、それが必然であるように時間が流れている。このころの記憶は曖昧ではあるが、前の世界でも同じようなことをやっていたと思う。一部違いはあるが、そのまま馴染んでいるのだ。
またこれは、もしかすれば不思議だとまでは言わないのかもしれないが、女として生きてきて、女として成長していることに、かなり馴染んできている。例えば言葉だ。頭の中では男であるはずだが、言葉は普通に女言葉で喋ることに、なんの違和感も感じていない。言葉を喋れるような時期には女の子であったわけだから、違和感なんて感じるわけがない、とも思う。しかし、その頃から自分は男であった記憶とともに生きているのだ。多少照れ臭く感じてもよさそうなものだが、そんなものはない。
――私は、女として、もう当たり前になっていくのだろうか? いや、もうなっているのだろうか。
自分の中の何かが剥がれ落ちていくような感覚が、涼子の心を締め付けているような恐怖を呼び起こした。
――剥がれた後に現れる自分は、一体なんなのだろう? ……それは自分だと言えるのだろうか?
涼子には、わからないことだらけだ。今がこんなに幸せならば、幸せであるからこそ、この得体の知れない不安が怖い。涼子はそっと目を伏せた。
ふいに部屋の襖が開く音がした。真知子が部屋を覗いたようだ。隣の居間から明かりが入る。ボリュームを落としたテレビの音が小さく聞こえた。
「こら、涼子。
もう寝る時間でしょ。明日は幼稚園よ」
「はぁい」
涼子は返事すると、自分の布団のところまで行って、布団の中に潜り込んだ。
「おやすみなさい」
真知子の優しい声が耳に届いた後、襖が閉められて部屋は再び真っ暗になった。




