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何かの影

「涼子ちゃん、だいじょうぶ?」

 悟は、肘に絆創膏を貼った涼子を心配そうに声をかけた。

「だいじょうぶだよ。絆創膏貼ってもらったもん」

 涼子は悟に絆創膏の貼られた肘を見せた。もう何も心配ない、と言いたいようだ。それを見て安心したのか、悟は少し表情が明るくなった。

「ジローくん、乱暴だね。もっと仲良くしたらいいのに」

「そうなんだけどね。ジローくんはそのつもりないみたい」

「きっと友達になれると思うんだけどなあ」

 悟は能天気なことを言う。

「いや、無理よ。絶対無理!」

 涼子には、ジローと仲良くなるなんて、とてもじゃないがありえないだろう、と考えている。前の世界において、事あるごとに喧嘩してきた。結局、最後まで和解することはなかったのだ。それを考えると絶対にありえないはずだ。

 ……ただ、その喧嘩はいつも負けていたのは、今回ではどうにかならないかなあ、と思った。


 涼子が怪我した後、当然のように親が呼ばれた。真知子は、大慌てでやってきて、どうしてこんなことに! と先生に問い詰めた。同じく呼ばれてきていたジローの家の家政婦と思われる女性は、深々と頭を下げて、涼子や真知子、先生に謝罪した。

 この家政婦と思われる女性は、本当に家政婦だった。どうやらジローの家……片山家には三人の家政婦――うち、ひとりは男性だが――がいる。六十過ぎの前後の老夫婦と、この四十代の女性の三人だ。老夫婦は近くのアパートで暮らしていて、日中は夫婦揃って片山家で家事の大半をこなしている。そして、この女性……小島孝子は、老夫婦の家事の補助と、ジローと、兄の太郎の教育係をしている。物腰の落ち着いた中年女性だが、普段あれだけ威勢のいいジローは、この人が苦手なのか、たしなめられるといつもの強気がどこへ行ったのやら、というくらい大人しくなった。

 ちょっと擦りむいて血が出ただけなのに、騒ぎすぎだと思ったが、幼稚園だとこんなものなんだろうか、と思った。



 それから数日後。

「あれ? あの人は……」

 涼子は、園庭で数人の園児と遊んでいる時、職員室の方に小島孝子が入っていくのを見かけた。またジローが問題を起こして呼ぼれたのだろうか? そういえば昼食の際、子分のおかずを横取りして、それを先生に見つかって怒られていたのを思い出した。おそらくその件でまた呼ばれたのだろうと予想した。

 ――あのお手伝いさんも大変だなあ。涼子は、こう頻繁に呼ばれていたら、そのうち家政婦の仕事を辞めたりしないんだろうか? と小島孝子に同情した。それにいつもお任せで、両親は何しているんだろう? 自分の子供のことなのに、いくら雇っているからと言っても、丸投げしすぎだと思う。我が子のことが心配じゃないのか。涼子は少々憤りを感じていた。

「りょうこちゃぁん、どうしたの?」

 一緒に遊んでいた子がそばに近づいていきた。

「なんでもないよ」

 振り返って微笑むと、ふたたび園児たちの中に入っていった。



「何をやっているんだ!」

「――も、申し訳ありません。旦那様」

「この役立たずが!」

 県会議員の片山信男は、小島孝子に向かって怒鳴りつけた。

 身長一七八センチ、体重八十七キロの巨漢に、常に傲慢さが滲み出ているその顔は、さすがに迫力があり恐ろしい。そんなジローの父親の前で悲しい顔をしている孝子は、ただこの嵐が過ぎ去るのをじっと待っているかのようだった。

「次郎にはもっと厳しく言い聞かせろ! まったく、バカ息子がっ!」

「だ、旦那様。そんな言い方は、次郎坊ちゃんが……あまりにかわいそうです。どうか!」

「お前はまだ、そんなくだらんことを言っとるのか!」

 鬼の形相で怒鳴り散らす信男は、散々怒鳴って喉が痛くなったのか、「おい、水!」と叫んだ。孝子は慌てて水を取りに部屋を出ていった。

 それからすぐに、水を注いだグラスを持って部屋に戻って来ると、信男はもういなかった。そこへ、老夫婦の妻の方がやって来た。

「あら、小島さん。どうしたんですか?」

「え、ええ。旦那様が……さっきまでいたのに」

「ああ、ついさっきでしたよ。里田さんが慌ててやって来て、ふたりそろって飛び出して行ったわ」

「そうですか。どうされたのかしら」

「さあ……」



「いやあ、片山先生は頼りになりますなあ! はっはっは」

 禿げ上がった白髪頭を隠そうともしない老齢の男は、片山信男の前で大笑いしている。

「いえいえ、寺田さんのお力あっての片山ですから」

 信男は寺田と呼んだ老人に、随分とへりくだった態度を見せている。普段の信男を知っている人には意外すぎる姿だが、県会議員であることから、こういったことも実際には日常茶判事である。この寺田という老人は、片山信男の後援会の会長だ。信男の父も、この寺田の後援で大きな票を得て、長く県議会に君臨してきた。

「まあ先生。とりあえず一杯どうじゃな」

「は、はあ……ではご馳走になります」

 信男は用意された日本酒をひと口飲んで、「い、いやあ。さすが寺田さん。いいものを飲んでいますなあ」

「カッカッカ、不味い酒など飲めたもんじゃないからのう!」

 寺田は大笑いすると、続いて近況など雑談を喋り始めた。しばらく他愛ない話が続いたあと、急に寺田の顔つきが変わった。信男はそれを見て緊張が走った。

「のう、先生。つかぬことを聞くが……」

「なんでしょうか?」

「お前さん、コレは本当か?」

 寺田は神妙な顔をして、小指を立てた。

「う、あ……いや、その……」

 酔って赤くなった顔が、一気に青ざめた。酔いも吹き飛んだようだ。寺田は、ジロリと信男を睨むと、ゆっくりと口を開いた。

「おるんじゃな。まったく……先生。わかっておろうな」

「は、はい……」

「こんなことが公になったら、県会議員ではいられんぞ。いいか、別れろ。難しければ儂に言え」

「は、はあ……」

 寺田の低い声が一層低く聞こえる。そして、その言葉の裏から漂う、どう考えても堅気とは思えぬ匂いに信男は背筋が凍りついた。



 片山信男には愛人がいた。二十七歳のホステスだ。二年ほど前に知り合って関係を持って以来、ずっとこの愛人と不倫をしていた。秘密にしていたが、どこからか噂が伝わってしまったらしい。議員の愛人――いや、不倫など、とんでもないスキャンダルだ。とても不味い。それに寺田を怒らせるわけにはいかない。

 ——どうしたものか……。寺田の家から戻ったあと、ひとり悩む信男のところに小島孝子がやって来た。

「旦那様、お電話です」

「誰だ?」

「それが、名乗りませんのでわからないのです。また、『あけみ』と言えばわかると……」

「……! す、すぐに出る!」

 信男は何かを察すると、大慌てで電話の元に走った。

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