思い出のフォトグラフ
美香は走った。ただひたすらに、持てる力を振り絞って走った。しかし、すぐに緑組に追い越された。そして続いて、同じB組の黄組に追い越された。
トップだったはずの赤組が美香の番で三位に落ちてしまった。これは悲しい現実ではあるが、それでも無我夢中で走った。
絶対に諦めるもんか、惨めだろうが情けないだろうが構うもんか、とにかく一秒でも早く涼子にバトンを渡す。これだけを考えて必死になる。
少し後ろから青組が迫ってくるが、青組もそれほど足が速いわけではないので、そう簡単には差は縮まらない。が、このままではアンカーの涼子にバトンが渡る前に追い越されかねなかった。
しかし、美香はがんばった。
涼子はスタートラインに立って、美香に向けて大きな声で声援を送った。裕美や理恵子も一緒になって応援した。
しかし、とうとうつかまってしまった。美香と青組の子が並んだのだ。だが、美香はそれでも諦めなかった。必死に食らい付き、追い越させなかった。中にはヒソヒソと美香を嘲笑する生徒もいたようだが、美香にはそんな声は聞こえていない。
美香と青組が必死の接戦を繰り広げている間に、緑組と黄組はアンカーがスタートした。
「みっちゃん! がんばれ!」
涼子たちも必死で応援する。
そのとき、青組の速度が落ちた。体力が途切れたのか、そのおかげで美香はふたたび青組を引き離す。そして――こちらに手を差し出して待っている涼子の姿が目に入った。
目の前に涼子の後ろ姿が見える。美香は少し朦朧とした意識の中、必死で足を前に出した。
が、勢い余って前のめりになり、盛大に転んだ。ちょうど頭からスライディングしたような感じだ。
しかし、運は美香に味方した。その飛び込むような格好で、バトンを持った手を前に突き出した時、そこに涼子の手があったのだ。
涼子は自分の手にバトンの確かな感触を得ると、すぐにダッシュをかけようとするが、盛大に転んでうつ伏せになっている美香のことが心配になって踏み出しに躊躇した。
「涼子っ! 走って! がんばっ、涼子!」
美香の大声が響いた。まるで学校中に響いたんじゃないかと思ったくらい、声を振り絞った大きな声だった。
涼子が倒れた美香を見ると、そこには顔を上げゼェゼェと肩で息をする、砂埃に塗れて必死に握り拳を突き出す姿があった。そこには、これまでの弱気な美香ではなく、必死にがんばり自信に満ち溢れた「とても格好いい」美香の姿があった。
「任せて! 赤組が絶対一番取るからっ!」
涼子は凄まじいスピードで駆け出した。
野村和枝は、転んだまま拳を振り上げた美香の姿に、思わず身震いしていた。
――あ、あんなにすごい子だったんだ……。
盛大にスライディングしたにもかかわらず、うまくバトンをを渡し、転びながらもそれを物ともせずに大きな声で叫ぶ。
自分にはそこまでできない。絵が上手なくらいしかない、弱気な大したことのない子だと思っていたけど……お、奥田さんって、本当はとってもすごい人だったんだ……と、今まで調子に乗って見下していた自分が恥ずかしくなってきていた。また、あまり調子に乗りすぎると、反撃されるかもしれないと怖くなってしまった。
もう美香にちょっかいを出すのはやめた方がいいと思うようになった。
涼子の足の速さは、同学年の女子でも一、二を争うくらい速い。その猛烈な速さは、あっという間に前を走る黄組を捉え、すぐに追い越した。
「やった! さすが涼子!」
奈々子ら、リレーに出ていない涼子の友達たちから歓声が上がる。
「涼子っ! がんばっ!」
「フレッ、フレッ、りょ、う、こっ!」
仲間たちの声援が運動場を包む。負けじと緑組や黄組の応援も大きくなる。
父兄の観客席で、運動会を見にきていた親たちにも、「おお!」と歓声が上がる。
「あの子は速いわねえ」
「こりゃ一等になるぞ。もう追い越すだろう」
などと驚いている。
涼子の母、真知子は、隣に座る奈々子の母親と一緒に見ていたが、奈々子の母親は「やっぱり涼子ちゃんは速いわぁ。すごいわねえ、勉強も運動もできるんだから。うちの奈々子ももうちょっとできたらねぇ――」と涼子を褒めちぎる。
真知子は「いぃえぇ、そんな、もう涼子ったら走るくらいしか能がないんだから。おてんばで困ってるのよ、もう本当に――」と、謙遜しつつも心中ではご機嫌だった。今日の夕飯は涼子の好きなハンバーグにしようかしら、などとニコニコしている。
弟の翔太は、姉の活躍に「あれ、ぼくのおねえちゃんなんだ!」と得意そうに同級生に言った。「ほんとに?」「しょうちゃんのおねえちゃんすげぇ」と、口々に話題となり翔太は鼻が高かった。帰ってから、転んだことをからかわれるのも知らずに。
涼子は走る。みんなのがんばりに報いるために。あの少し前を走る、緑組の子よりも前にゴールインするのだ。
――絶対に一番になってやる! みんなのために、何より、みっちゃんのためにも!
目の前のライバルの背中は近い。自分の方が速い。絶対に速い。そう信じて涼子は懸命に走る。
そんな中、先頭走っている緑組の子は穏やかではない。
緑組の子は、涼子の足の速さをよく知っていた。自分も足の速さには自信があったが、涼子には敵わないと自覚していた。しかし、これだけ差がついたのだから、一等は十分狙えると思っていたのだ。
思っていたはずだった。が、その涼子はもう自分のすぐ後ろまで迫っていた。
もう後数メートルなのに、このまま逃げ切りたい! と心の中で叫びながら、懸命に走った。が、眼前のテープを目にしながら、それを自分で切ることができなかった。
寸前のところで、涼子の足が勝った。苦しそうな顔が和らぎ、そして笑顔になる。
「やったぁ! 涼子!」
「一等だよ!」
裕美たちが飛び跳ねながら勝利を喜んでる。美香も普段は見られないほど明るい表情で、涼子の元に駆け寄り勝利を祝福した。
「みんなで勝ち取った勝利だよ。特にみっちゃんはすごかったんだから!」
涼子は美香を後ろから肩を抱いて、美香の必死の活躍を誇り喜びあった。そして、「一等賞!」と赤いバトンを頭上に掲げた。喜び合う仲間たち。理恵子が普段は見せないくらいの笑顔ではしゃいでいる。裕美が駆け寄ってきて、涼子と美香に抱きつき勝利を分かち合った。
この後昼休みを挟んで、午後は涼子たちは集団種目ばっかりだったので、ほどほどに楽しみ運動会は閉会した。
後日、このリレーで一等になって勝利を喜び合っている時の写真を、撮った先生からもらった。涼子はずっと、この写真をフォトスタンドに入れて机の片隅に飾っている。
——諦めないこと、一生懸命になることの大切さを忘れないために。