美香の練習
「わたし、運動会……休みたい」
奥田美香は、絶望的なほど暗い顔をしてつぶやいた。4Bどころか四年生全体でも一、二を争うくらい鈍足な自分が、俊足たちの中で走っても、いい笑い者になるだけだ。ひとりだけノロノロ走っていれば当然だろう。そう考えると暗い顔にもなる。
「ダメだよ、逃げたってなんの解決にもならないよ」
涼子が言った。さらに太田裕美もそれに続く。
「そうよ。がんばろうよ。がんばって、みんなを見返してやろうよ。わたしも協力するからさ」
「でも……」
「私だって協力するよ。いっしょにがんばろうよ!」
涼子が言った。
「リエにも言ってさ、みんなで練習しようよ」
「それさん成! ね、みっちゃん。やろうよ」
涼子と裕美は美香の両手を取って言った。
「……うん」
しかし、美香の顔は暗いままだった。
翌日、真壁理恵子に「みんなで美香の練習に協力しよう」と持ちかけると、理恵子は賛成してくれた。
「当然よ。奥田さんが一生けん命がんばるなら、わたしは全面的に協力するわ。――奥田さん、いっしょにがんばりましょ。きっと速くなるわ! そしてみんなで一等賞よ!」
「う、うん」
鼻息も荒く、理恵子は美香の両手を握って激励するが、美香はその勢いに少々慄いているみたいだった。
涼子たちは気がついていないが、美香は内心、この友達のやる気に煩わしさを感じていた。正直……放っといて欲しい、練習なんかやりたくない、と思っていた。
早速昼休みに、体育館裏で走ってみることにした。体育館の端から端まで、とりあえず真っ直ぐ走る。
改めて走った結果、美香はかなり遅いことが再確認された。体育の時に走っていたのを思い出すと、もっと速かったようにも思ったが、現実はさらに厳しいようだった。しょんぼりと肩を落とす美香。
「――だ、大丈夫よ! 今はおそくても、努力したらもっと速くなるわ! きっとよ!」
理恵子は、落ち込み気味の美香を励ますように言った。はっきりいって、理恵子は涼子や裕美よりやる気満々だった。美香が内心どう思っているかなど、まったく想像もしていないようだ。
「さあ、まだお昼休みはあるわ。もう一回走ってみましょ。わたしがいっしょに走るわね。太田さん、スタートのかけ声お願い」
「わかったわ」
このあと、休み時間ギリギリまでひたすら走り込みを続け、ヘトヘトになって五時間目に遅れそうになった。
翌日、昼休みに少し走って、その後、下校前に運動場で走った。
速さはまだまだ全然変わっていない。しかし涼子たちは、続けることで本番までには、いくらか成果が出るのではないかと考えていた。しかしそんな涼子たちとは裏腹に、美香本人はまったく変わらないんじゃないか、と考えていたが、それを口にすることはできなかった。
友達のやる気が重かった。
帰りの会が終わったあと、涼子たちは今日も美香の練習を手伝う。
これから走ろうかとしていたところ、ひとりの女子が声をかけてきた。
「ねえ、がんばってるね」
そう言ってやってきたのは、加藤早苗だった。早苗は、幼稚園の頃からの美香の友達であり、涼子にとっては、未来から遡行してきた「世界再生会議」のメンバーだった。つまり敵対しているわけだが、涼子たちにはこれまで通り友達として接してくる。何を考えているのかわからず、涼子は接し方に苦慮していた。
ちなみに、四年生ではA組になったこともあって、教室が違う。
「あ、さな」
美香は少し表情が明るくなった。早苗は美香の前までやってきた。
「みっちゃん、リレーに出るって聞いたよ」
「う、うん」
「A組を応援しないといけないけど、私は絶対、みっちゃんを応援するよ」
早苗は軽くガッツポーズをして美香を励ました。
「ほんと? さなもおうえんしてくれるの!」
横からひょっこり顔を出した裕美が、嬉しそうに言った。しかし早苗は揶揄うように答えた。
「あぁ、ダメダメ。裕美は別だよ。私が応援するのはみっちゃんだけだし」
「えぇ、そんなぁ。みっちゃんだけずるぅい」
「そんなことないよ、みっちゃんと私は友達だもん」
「私も友達じゃない、わたしもおうえんしてよぉ、さぁなぁ!」
「だぁめ。それにリレーもA組が一等とるからね! ――じゃあね、みっちゃんがんばって! バァイ!」
「バァイ!」
笑顔で去っていく早苗を見送る涼子たち。
美香は思わぬところでの友達からの応援に、ちょっとやる気が出てきたようだ。内心嫌々だったものの、この日は結構一生懸命走った。ちょっとタイムもよくなった気もした。
数日経ち、美香はだんだんと速くなっていった。もちろんタイムは微々たるものだが、一生懸命やることで、これまでよりも足が速くなっているようだ。もちろん涼子らの、フォームを変えさせるなどのアドバイスも効いている。
こうなると美香も、やる気が芽生えてきたようで、日曜日にみんなで学校の運動場に集まって練習した時は、一番先にやってきて、ウォーミングアップをやっているくらいだった。
しかし翌日の月曜日、この日も三日後に控えた本番に向けて、昼休みと下校後にしっかり練習するつもりだが……。
「――おっそぉい。奥田さん、歩いてんの?」
嫌味ったらしい言葉とともに現れたのは野村和枝とふたりの仲間だった。
――出てきたわね、イヤミトリオ……何なんだろう、この人たち。
涼子は険しい表情で三人を睨んだ。すぐに裕美が、ズカズカと和枝たちの前に出てきて言った。
「ちょっと! わたしたち練習してるんだから、じゃましないでよ」
「ふぅん、練習してたの? 奥田さん歩いてたから練習してると思わなかったわ」
「クスクス――わたしもぉ。奥田さん、練習してたんだぁ」
和枝の嫌味に、他のふたりも同調する。
「はぁ、何のつもり? 邪魔だから帰ってよ!」
涼子は怒気を孕ませて三人に言った。ちょっと驚いたようだが、すぐにニヤニヤと小馬鹿にしたように美香を眺めている。美香は、半泣き状態で俯いていた。辛くてこのままこの場から逃げたいと思った時、理恵子が和枝たちの前に出てきた。
「あなたたちって最低ね! がんばっている人をばかにして、何が面白いの! それでも同じ学級の仲間なの?」
理恵子はよほど腹に据えかねたようで、三人を睨み付けて捲し立てた。
「べ、別にそんなことじゃないわよ。じょう談よ、じょう談」
「じょう談でも言わないで! 奥田さんの気持ち、考えたことあるの? あんなに一生けん命がんばっているのよ。今すぐ奥田さんにあやまって!」
物凄い剣幕で怒鳴る理恵子に、和枝たちは驚き慄いていた。
「そうよ! あやまりなさいよ!」
涼子と裕美も理恵子に続いて責めた。が、当の美香は「……そ、そこまでしなくても……」とずいぶん弱気である。後がどうなるかわかったものじゃないから、あまり波風は立てたくなかった。
「ご、ごめん……」
和枝は嫌そうな顔をして、小さな声で謝った。他のふたりもそれに続く。そして、不満そうな顔をしたまま走り去ってしまった。
涼子は納得がいってないような表情でつぶやいた。
「何なのあれ。あれで謝ったつもり?」
「わたしはああいう人が一番きらい。最低よ」
和枝たちの態度に、理恵子は憤慨している。前から好ましくない同級生ではあったが、今回のことでますます嫌ったようである。
「まあいいわ、みっちゃん、練習の続きしよ」
「うん……」
美香の返事は沈んでいた。せっかくやる気が出てきたというのに、美香はまた意気消沈してしまった。
それを感じとった理恵子は、――本当に最低な人たち! と野村和枝たちに対する憤りが収まらなかった。