半ドン
あれから一ヶ月以上経ち、少しづつ暑くなってきた。今日から6月で、学校の制服は夏服に切り替わる。いわゆる衣替えだ。
もうそろそろ上着は暑いと思っていたから、待ってましたというところだった。
朝、涼子はいつも弟の翔太と一緒に通学している。翔太は一年生で、今年入学したばかりだ。まだ小学生に慣れないのか、朝はいつも遅い。
「翔太ぁ、何やってんの! 行くよ!」
「おねえちゃぁん、まって」
ドタドタと廊下を走って玄関にやってくる。涼子はヤレヤレとでも言いたげにため息をついた。
「いつも遅いよね。そんなだとそのうち遅刻するよ」
「えぇ、でもぉ……」
「でもも何もない。先生に立たされるのよ。空気椅子よ」
涼子は怖い顔をして弟を脅かす。
「お、おねえちゃん……ぼく、やだ」
「だったら、早くしなよ。あんたのせいで私まで遅刻したらどうしてくれるのよ。私まで空気椅子よ。空気椅子! あれ辛いんだから」
少し苛立ったついでに弟を攻撃する涼子。涼子のよくない点のひとつとして、よく弟を揶揄う、虐める、というのがあった。面倒見はいいので翔太も姉を慕うのだが、だからこそ調子に乗ってしまうのかもしれない。翔太もやられっぱなしではなく、よく反撃するので姉弟喧嘩になる。
余談だが、涼子は空気椅子をやらされたことはない。偉そうなことを言っているが。それに、遅刻がどうとか言っていたんじゃ……ずいぶん余裕だけど。
まだ玄関先にいることに気づいた真知子がやってきた。
「あんたたち、何をやっているの? 早く行かないと遅刻するわよ」
「はぁい。翔太、行くよ」
「うん。おかあさん、いってきまぁす!」
「行ってらっしゃい。車に気をつけるのよ」
集団登校の集合場所にやってくると、翔太はすぐに仲のいい友達のところへ行ってしまった。到着まではずっと涼子にくっついてきたのに、仲のいい友達を見つけるとこれである。
しかし涼子にしてもその方がいい。涼子だって友達と一緒にいたいのだ。弟の面倒ばっかりみたくない。
「涼子、おはよ!」
涼子が来たのを見つけて、太田裕美がやってきた。
「裕美、おはよぉ!」
涼子も挨拶を返す。それに続いて裕美がニコニコしながら言った。
「今日さぁ、学校から帰ったらうちに来ない? 昨日ね、お父さんが会社の人からバドミントンのラケットをもらってきたの。バドミントンやろうよ」
「へぇ、そうなの? うん、バドミントンやる。お昼ごはん食べたら行くね」
「うん、まってる……あ、そうそう。昨日さぁ——」
ちなみに今日は土曜日だ。土曜日は四時間目までで学校は終わり。給食もないので、十二時過ぎくらいには家に帰って、自宅で昼食である。
裕美はバドミントンのラケットを手に入れたことを、他の子には話さなかった。涼子とふたりで遊ぼうと考えているようだ。
ちょっと先生に呼ばれて帰宅が遅れたが、家に帰ると誰もいない。思い出してみれば朝食の際に真知子が、町内会の集まりか何かで夕方頃まで帰ってこれない、ということを言っていた。昼食は台所に置いておくから食べなさい、と言われていた。
ランドセルなどを子供部屋に放り込んで、台所を覗くと、テーブルの上に焼き飯が盛ってある皿があった。それを手にとって、スプーンを取り出すと居間に持っていった。今のテーブルには空の皿がとスプーンが放置されていた。翔太が食べたまま、台所に持って行かずに放置したまま遊びに行ったようだ。
ヤレヤレ、これは絶対に怒られるな、と少しニヤニヤしながら涼子も焼き飯を食べた。焼き飯は涼子の好きな料理のひとつだ。特に母の作った焼き飯は美味しい。
食べ終わると皿を台所に持って行って、やかんに入った麦茶をコップに注いで一気に飲んだ。格別な瞬間である。
そして子供部屋に戻って普段着に着替えた。早く裕美と遊びたいので、すぐさま家を飛び出していった。
「それっ! ……ありゃ」
裕美はシャトルを上に放り投げて、ラケットを振った。しかし、タイミングが合わず空振りした。
「おぉい、裕美ぃ――まだぁ?」
涼子は笑いながら揶揄うように言った。ちなみに、ふたりともバドミントンは体育の授業でやったことがある程度で、細かいルールは知らない。当然だが、今も裕美の家の前で、ネットも無しにただ打ち合っているだけなので、羽根突きと大して変わらない。
「えへへ、今のはギャグだから。今度は本番!」
ふたたびシャトルを放り投げると、思い切りラケットを振る。今度はちゃんと当たって飛んできた。
「きたきた! それぇ!」
涼子は素早くシャトルの飛んでくる方に動き、落ちてきたシャトルを打ち返した。
「あっ、涼子うまい!」
簡単に返された裕美は、慌ててシャトル目で追った。そして狙いをすまして打ち返す。
「えいっ!」
外すことなく打ち返すと、今度は涼子が追いかける。
昼過ぎで結構暑くなっているが、夢中になっているふたりはお構いなしで、二時間ほど楽しんだ。それから裕美の母親が家から出てきて、「おやつがあるわよ」とふたりを呼んだ。
おやつは裕美の母親が作ったマドレーヌだった。涼子はあまり食べた覚えがないが、かなり美味しかった。
ちなみに、裕美の母親はよく菓子を作っているらしく、涼子など友達が遊びにきた時などに振る舞われる。この間はクッキーだった。真知子は菓子を手作りすることは少なく、正直、裕美が羨ましいと思っていた。
「ねえ涼子。涼子って「おはよう!スパンク」の単行本持ってたよね。今度かして。「あさりちゃん」かしたげるから」
「いいよ。そういえばあさりちゃんって何巻まで読んだかなあ?」
「今、16巻まであるよ。この間、10巻あたりを読んでなかった?」
「そうだったかな?」
「部屋に行こうよ。かしたげる」
マドレーヌを食べ終わると、ふたりは裕美の部屋に向かった。
裕美は個室を持っていた。裕美は姉がいるが、姉とは別の部屋をもらっているのである。涼子は部屋数の関係上、個室は絶対にもらえないだろうと予想しているだけに、羨ましい限りだ。
もっとも、小学生の時点で自分の個室を持っているのは、涼子の友達の間でもごく僅かで、裕美以外では一人っ子の矢野美由紀や及川悟くらいなものだった。兄がいる津田典子は、その兄が来年中学生になるのに合わせて空き部屋をもらえるそうで、それと同時に今の部屋が典子の個室に変わる。今から、ここに本棚を置いてベッドはこっちに、とか涼子たちに話していた。こっちも羨ましい話だった。
裕美の部屋はこれまで何度も入ったことがあるが、よく片付いており意外と清潔感もあって、とてもいい部屋だった。涼子の子供部屋は、自分のほうはともかく、翔太のおもちゃがたくさんある上に怒られないとなかなか片付けない。正直、友達を部屋に入れるのを躊躇したくなるくらいだ。
涼子は本棚の方へ行き、収まっている本をしげしげと眺めた。
「やっぱり沢山あるねえ」
「そうかなぁ、でもお姉ちゃんがもう読まないからって持ってきたのとか多いよ。これとか」
裕美は本棚から一冊取り出して見せた。涼子は知らない漫画だった。
「ふぅん、それは面白いの?」
「ううん、よくわかんない。お姉ちゃん、いらないまんがすぐおしつけてくるのよ。わたしが読みたいのは、全然かしてくれないのに。これも、それからこれも……いやになるわ」
見れば、割と大きめの本棚には漫画の単行本がかなり収まっており、ここ一、二年くらいで漫画をよく読み始めたにしては沢山あるのだ。多分、涼子の三倍くらい持っているように見える。
ちなみに、涼子は読書もするので児童文学なども所有している。読書に好印象を抱いている両親なので、児童文学などは漫画と違って簡単に買ってくれる。
漫画単行本も持っているが、半分くらいは貰い物だ。前述の「おはよう!スパンク」は、いとこの内村友里恵が二巻まで持っていたが、飽きたらしく涼子にくれた。以後続刊は、涼子が小遣いで買い揃えたものである。
ふたりはしばらく漫画の話を楽しんだ。話は弾み、いつの間にか午後五時近くになる。外はまだ明るいが、午後六時には家に帰らないと怒られる。藤崎家では大体そのくらいの時間に夕飯を食べるからだ。
涼子はふとベッドの脇にあった目覚まし時計が目に入った。
「あ、もうこんな時間か……ねえ、明日はうちで遊ぼうよ。その時、スパンク貸したげる」
「うん、そうしよ。――ねえ、夕ごはんまだでしょ。外でまたバドミントンやらない?」
「やるやる。今度は勝負しよ。落としたら点が入って、十点勝負でさ」
「いいね、それやろ!」
ふたりはふたたびそとに出ると、夢中になってバドミントンで遊んだ。裕美は、最初はイマイチだったが、慣れてきたのか途中から白熱したバトルが繰り広げられ、その後は完全に時間を忘れていた。そろそろ空が茜色に染まっている。
裕美の母親が出てきて、「もう遅いから、帰らないとお母さん心配するよ」と言われたので帰ることになった。
嫌な予感がしたが家に帰ってくると、予想通り真知子が待ち構えていた。どこまで遊びに行っていたのか、と怒られた。
夏至が近い今の時期は日没時間も遅いので、外が明るいからと、ついうっかり時間に気づかず遊んでしまい親に怒られる。外で遊ぶことの多い昭和の頃にはよくあることである。